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静けさの中で聞こえた彼の名前

 



 アーノルド殿下に案内された応接室には、静かな時間が流れていた。


 柔らかな陽の光が窓辺に差し込み、重厚な調度品がきちんと整えられているのに、その空間はどこか息苦しく感じられる。


 殿下とふたりでこうして向かい合うのは久しぶりだった。胸の奥がそわそわと落ち着かず、どこに視線を向ければいいのか分からなかった。何か話をしなければ――そう思うのに、言葉が見つからなかった。


 すると、先に口を開いたのは殿下だった。


「魔力のこと、聞いたよ」


 その声は優しかったけれど、私の不安の中心をはっきりと突いていた。

 私は思わず目を伏せ、手の甲を無意識にぎゅっと握りしめる。あの紋様が、熱を帯びたまま心まで焦がす気がした。


 自分の指先が小さく震えるのを感じた。

 きっと、殿下はこの場で「君との婚約を白紙にする」と言うのだろう。公爵令嬢でありながら、魔力ゼロの私など、王太子妃としての資格なんて、あるはずがないのだから。


 怖くて顔を上げられない。けれど、次に響いた殿下の声は、私の想像していたものとはまるで違っていた。


「君に魔力がなくても、私は君と夫婦になりたいと思ってる。

 だから……安心してほしいんだ」


 その声はあくまでも穏やかで、暖かくて、胸の奥の冷たさを、そっと溶かすようだった。


 私は思わず顔を上げる。殿下のルビー色の瞳がまっすぐこちらを見ていて、そこには偽りの色は微塵もなかった。そのまっすぐな眼差しは、今の私には眩しすぎた。


「本当に……いいんですか? 私、魔力ゼロなんですよ?」


 自分でも情けなくなるくらい弱々しい声だった。けれど、どうしても確かめずにはいられなかった。

 魔力のない自分を、殿下は本当に選んでくれるのだろうか。


 アーノルド殿下は、その問いにふっと柔らかく微笑む。


「ああ、もちろん」


 その穏やかな笑顔が、胸の奥の不安をそっと和らげた。けれど、心の奥で新たな疑問が小さく芽吹く。


 正直、魔力のない自分と結婚することに、殿下に何の得があるのだろう。どうして私なんだろうか、と。


 そんな私の疑問をよそに、殿下はそのまま穏やかに話を続ける。


「……それで、スフィア。父上と先程、相談して決めたんだけれど……私たちの婚約発表を、来月の私の誕生祝いの場で行おうと思うんだ」


 その声はあくまでも優しく、未来を見据えるようだった。殿下の瞳に映る私は、本当にあの誓いの場に立てるのだろうか。


 胸の奥で小さな不安と期待が入り混じるのを感じた。


「……はい。分かりました、殿下」


 私は丁寧に頷いて、不安を隠すように笑顔を作った。

 そうするのが、正しい公爵令嬢の務めだとわかっていたから。自分の感情を押し隠し、誰にも弱さを見せないこと。それが、この身に課された役目なのだ。


(魔力がないのに、本当に……いいのだろうか)


 けれど私は、ただの公爵家の娘で、殿下は王太子殿下。この婚約を、私から拒む自由なんて最初からない。


(……仕方のないこと。わかってる……つもり、だけど)


 指先がほんの少し震えた。けれど、それを誰かには見せるわけにはいかない。手の甲に残る微かな熱だけが、今の私の心の奥の本音を静かに語っているようで――ほんの少し怖かった。


「ありがとう、スフィア。それじゃ、今日はもう遅いし、君を屋敷まで送ろう」


「はい。ありがとうございます」


 アーノルド殿下の言葉に頷いて、私は一礼した。

 殿下が付き人に声をかける。その背を追いながら、心のどこかで、ほんの少しだけ“このまま日常に戻れたら”と、叶わない願いを抱いてしまった。




 * * *


 その夜。屋敷の自室に戻り、侍女のロージーに手伝ってもらいながら着替えを済ませた私は、ベッドに身を横たえた。


 室内は静まり返り、薄いカーテン越しに月の光が揺れていた。外の世界は穏やかに見えるのに、胸の奥は落ち着かなかった。


 けれど、目を閉じて間もなく――


「……っ、あ……!」


 左手の甲に、突然鋭い痛みが走った。

 びくりと体を起こし、ベッドの上で手を見つめる。


 紋様――昼間、名も知らぬ青年と交わした“契約の証”が、ほのかに赤く腫れ上がり、ぼんやりと熱を帯びていた。月明かりの中、その紋様だけが生々しく浮かび上がって見えた。


(これ……どうして……)


 ズキズキとした熱を伴う疼きが、皮膚の奥からじんじんと響いてくる。火照るような感覚なのに、冷や汗がじわりと背筋を伝った。


(何……? これって、契約のせい……?)


 現実味のなかった昼間の出来事が、まざまざと蘇る。


「……あれ、本当に……夢じゃなかったんだ」


 誰にも言えない秘密が、今もこの手に焼きついている。あの冷たい瞳も、契約の光も、唇が触れた感触も、全てが現実だった。


 私は胸元を押さえ、痛む紋様からそっと目を逸らした。けれどそれだけでは、疼きは消えてくれない。


 疼くような痛みは、じわじわと広がっていくようで、寝具の中にいても落ち着かない。何度寝返りを打っても、目を閉じても、眠りの気配は遠ざかるばかりだった。



「……もう、無理……」


 そっとため息を吐いて、私はベッドを抜け出した。裸足の足先に、冷たい床の感触が伝わる。


 部屋の片隅にある窓辺まで歩いて、カーテンを押しのける。月明かりに照らされた庭と、夜の静けさがそこには広がっていた。

 まるで世界が、何も知らないまま穏やかに眠っているようで、それが余計に胸に沁みた。


 そのままバルコニーへと出て、ひんやりとした夜風に髪をなびかせながら、私はそっと空を仰いだ。月が静かに光り、何も語らず、ただ高いところでこちらを見下ろしていた。



 その時――


「……まだ起きてるとは思わなかったな」


 背後から聞こえたその声に、心臓が大きく跳ねた。月明かりの下、その声は夜風とともに静かに響き、私の全身を包む。


 慌てて振り返ると、そこには昼間と同じ、漆黒の髪とサファイアの瞳を持つ青年が、静かに立っていた。夜の闇に溶け込むような姿で、それでも確かにそこにいる。


「っ……あなた……!」


「痛むんだろ、それ」


 彼は歩み寄るでもなく、バルコニーの欄干に軽く寄りかかり、視線だけをこちらに向けた。その瞳は、相変わらず冷たく見えるのに、どこか気遣うような色がほんのわずか混じっていた。


「……その様子じゃ、ろくに眠れてないな」


「な、なんで……ここに……?」


 問いかけながら、私は自分の手をぎゅっと握りしめた。


 疼きは確かにそこにある。でも、今の私はそれ以上に、彼の姿に驚きと、ほんの少しの安心を感じてしまっていた。


 自分でも、その感情に戸惑うしかなかった。


「契約ってのはな、魔法によるただの事務的な繋がりだけじゃなくて、感覚とかもこっちに影響するんだよ。

 だから、お前の感情が強すぎると、こっちにも伝わってくるってわけ」


 その声は相変わらず淡々としていたけれど、その奥に微かに疲れたような色が滲んでいた。


「伝わる……?」


 私は思わず問い返す。

 頭の中で答えの出ない疑問が渦を巻いた。


「……だから何が起きてるのか確認に来ただけだ。別にお前に会いたくて来たわけじゃない」


 ぶっきらぼうに言い放つその態度に、胸の奥がほんの少しくすぐったくなった。素直じゃないその言葉の裏に、ほんの僅かでも気遣いがあったのだと感じてしまった自分が、少し恥ずかしかった。


「……でも、わざわざ来てくれたんですね」


「お前、考えが甘いタイプだな。頭ん中、花畑かよ」


 呆れたように言いつつも、彼はほんの少しだけ、目を細めてこちらを見た。その瞳が、月明かりの中できらりと光った気がした。


 夜の静けさがふたりを包む。風がそっと髪を揺らし、遠くで虫の声がかすかに響いた。私たちはしばらく黙ったまま、その静けさに身を置いた。


 でも、その沈黙に耐えきれなくなって、私はそっと口を開いた。


「……あの、昼間……後で契約のことを教えてくれるって言ってましたよね」


 少し勇気を出して尋ねた。夜の静けさの中で、言葉がやけに大きく響いた気がした。


「ああ。あの時は話す暇も、タイミングもなかったからな」


 青年は軽く息を吐いて、視線を月へ向けた。その横顔はどこか遠いものを見ているようだった。


「お前にかけられてる“呪い”は、表面だけなら誰でも確認することが出来る。

 でも、その“核”――本当の原因は深くて、魔術師やその辺にいる魔法使いじゃ手を出せない」


「……だから、契約を……?」


「そうだ。契約によって、俺はお前の“内側”に干渉できるようになった。

 ただ、今の俺だと解呪するには少し魔力が足りない。だから、現状は俺の魔力を常に流して呪いを食い止めてる。……まあ、簡単に言えば応急処置みたいなもんだな」


「……そんな……それって、すごく大変なことじゃ……」


「大変に決まってんだろ。ただの人助けでこんな契約なんか結ぶかよ。だから言ったんだ、お前も覚悟しろって」


 その声は昼間よりずっと落ち着いていて、皮肉っぽいけれど、どこか優しかった。不器用だけど、ちゃんと私のことを真剣に考えてくれている。そんなふうに感じた声音だった。



「あの……じゃあ、この紋様が疼く原因って……」


「……ああ。俺の魔力が流れてるから、その副反応みたいなものだと思うんだが……」


 青年はそう言いながら、ちらと私の手の甲を見た。

 その目がわずかに鋭くなったと思った次の瞬間、彼は勢いよく私の手を取った。冷たい指先の感触に、胸の鼓動が跳ねる。


「……っ、これは……」


 私も慌てて視線を落とした。手の甲に浮かぶ紋様は、異様なまでに赤く腫れ、熱を帯びていた。まるで火傷のようにじんじんと疼き、皮膚の奥まで染み込んでいくような痛みがあった。


 けれど、それでも私は唇をきゅっと噛み、必死に言葉を絞り出した。


「……痛い、けど……大丈夫。我慢、できます」


 青年は一拍、黙り込んだ。そのまましばらく手を離さず、低く、ほとんど独り言のように呟く。


「……ここまで強く反応するなんて、普通じゃない。まるで……魔力の流れが根本からおかしいみたいだ」


「え……?」


 胸の奥に冷たいものが落ちる感覚。不安になって、私はそっと彼の顔を見上げた。青年は難しい表情のまま、私の手の甲をじっと見つめていた。

 その視線の真剣さに、思わず息を呑んだ。


「なあ、ひとつ確認するが……

 お前、魔力の流れはちゃんと自覚できてるんだろうな?」


 その問いに、一瞬頭の中が真っ白になった。

 何を答えるのが正解なのか分からず、ほんの一瞬だけ迷った。けれど、目をそらさず、正直に言葉を返す。


「……それって、どういう意味ですか?」


 青年の目が鋭く細められた。その視線に、胸の奥がひやりとする。


「お前、まだ王立学園に通っていないのか?」


「……この春、入学予定です」


 そう静かに告げた瞬間、青年の表情が固まった。


「……は?」


 短い声。その瞳に、驚きとも呆れともつかない光が浮かんだ。わずかな間の後、彼の眉が深く寄せられる。


「今の時代は、王立学園に通う年齢がこんなに遅いのか……?神殿も王宮も、魔術に対する意識が甘すぎるんじゃないか……?」


 青年は小さな声で、半ば自分に言い聞かせるようにボソボソと独り言をこぼし始めた。その声には、驚きよりも、呆れや戸惑いが混じっていて、なんだか少しだけ人間味を感じてしまった。


 それから青年は、低く、短く息を吐いた。目を逸らす気配はなく、ただじっと、真っ直ぐに私を見つめていた。


「……なるほど。納得した」


「え……?」


「お前の紋様が、異常なまでに反応してる理由。

 まだ体に魔力の通り道が存在しないから、全部ダイレクトに伝わってるんだ」


 その言葉に、私は思わず息を呑む。

 自分でも理由がわからなかったこの痛みの正体が、ようやく説明された気がした。胸の奥のもやが、少しだけ晴れたようだった。


「そんな状態で、よく俺の契約を受けたな」


 ぽつりと落とされたその言葉は、どこか皮肉めいていたけれど、ほんの少しだけ優しさが滲んでいた。

 私は思わず視線を落とし、胸の奥がかすかに熱くなるのを感じた。


 すると青年は、さらに一歩、静かに歩み寄ってきた。驚いて身を引きかけた私の手を、そっと取る。


「え……」


 触れられた瞬間、熱を持っていた印に、ひんやりとした魔力が流れ込んできた。それはまるで澄んだ水のようで、でもどこか光の粒が混じったような、不思議で心地よい感覚だった。


 青年は瞼を閉じ、短く、静かに詠じる。


「――≪癒しよ、命の輝きを宿せ≫」


 その声が落ちたと同時に、赤く腫れ上がっていた紋様が、ゆっくりと沈静化していった。じんわりとした熱も、鋭い痛みも、少しずつ引いていく。


「ん。……これでもう、大丈夫だ」


 彼は私の手の甲をじっと確認してから、ゆっくりと、丁寧に手を離した。その仕草に、どこか優しさが隠れているような気がして、胸の奥が少し温かくなる。


 私はそっと手の甲を見つめた。赤みが引き、静かに落ち着いたその紋様に、安心がじんわりと広がっていく。そして、小さく、自然と心からの微笑みがこぼれた。


「……ありがとうございます」


 その言葉に、青年はほんの少しだけ目を伏せた。

 月明かりが彼の横顔を照らし、その表情に微かな陰が落ちる。


「……別に。

 契約した相手に、痛いって泣き喚かれても面倒なだけだ」


 ぶっきらぼうに言い放つ声。けれど、その声音はどこか柔らかく、冷たさだけじゃなく、どこかあたたかさも滲んでいた。


 彼はくるりと背を向け、バルコニーの柵に手をかけた。夜風がそっと吹き、彼の漆黒の髪を揺らしていく。


「今日はもう帰る。これ以上長居すると、誰かに気配を嗅ぎつけられるかもしれない」


 その背中が遠ざかるのが怖くて、私は無意識に声をかけていた。


「……あのっ、名前……教えてもらってもいいですか?」


 風が音を運び、ふたりの間に沈黙が落ちた。

 彼は立ち止まり、その場に微かに影を落とす。


 一拍の間の後、振り返らぬまま、低く短く答えた。


「リアム」


 その名は、夜の静けさに溶け、月の光に届くように響いた。


 次の瞬間、風がひときわ強く吹き抜けた。私は思わず目を瞬かせる。気づけば、彼の姿はもう、どこにもなかった。


 胸の奥に、その名の響きだけが確かに残り、夜の風の中で、そっと余韻を残していった。



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