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公爵令嬢と魔法使いの出会い

 



 王宮の広間は息が詰まりそうなほど静かだった。

 背筋を伸ばし、私はゆっくりと歩みを進める。まるで周囲の視線の重さが、細い体を押しつぶそうとしているかのようだった。


「公爵令嬢、スフィア・フォレスター。魔力測定を」


 神殿の高位魔術師の声が響き、私は無意識に手をぎゅっと握りしめていた。魔力測定器の中央、澄んだ魔法水晶が私を待っている。その透明な球体に手を伸ばす瞬間、心臓が激しく脈打った。


 大丈夫、きっと光る。私はフォレスター公爵家の娘、王太子妃候補なのだから──そう、何度も言い聞かせていたのに。


 球体に手を置いた途端、広間の空気が凍りつくのを感じた。


(……何も起きない。あれ? まだ力が足りないのかもしれない。もう少し、もう少しだけ……)


 私は懸命に意識を集中させた。目を閉じ、体の奥に何か温かいものが宿るのを感じ取ろうとした。けれど、そこには冷たい空虚が広がっているだけだった。


 どれだけ待っても、水晶は光らない。


「……どうして?」


 耳の奥で誰かのささやき声が聞こえた。


「光らない……?」

「魔力ゼロ……?」

「王太子妃候補なのに……」


 どくん、と心臓が大きく跳ねる。足元がぐらりと揺れたような気がして、私は慌てて手を引っ込めた。もう一度試そうと手を伸ばしたけれど、その手はかすかに震えていた。


 結局、二度目も、三度目も、結果は同じ。


「フォレスター公爵令嬢の魔力、確認できず」


 その声は、私の心の奥底に深く突き刺さる。広間にいた全員が、私を見ていた。それは驚き、失望、嘲り、さまざまな感情が混ざった視線。



「失礼します……」


 かすれた声でそれだけ言い、私は広間を飛び出した。



 * * *


 どこをどう走ったのか覚えていない。ただ、気づけば王宮の奥の静かな庭園にいた。

 足元に咲く小さな白い花が、涙でにじんで見えた。


「魔力が……ゼロなんて……」


 私は王太子妃候補で、フォレスター公爵家の娘なのに。小さな頃から期待され、愛され、けれどそのすべては私の中にない力の上に成り立っていたのだろうか。


 悔しさと情けなさと、そして何より恐ろしさで胸がいっぱいだった。これから私は、どうなってしまうのだろう。



「――お前、それをどこでつけてきたんだ?」


 誰かの声がした。低く、どこか冷たく響く声。私ははっとして顔を上げる。


 庭園の木陰に、一人の青年が立っていた。黒のローブに身を包み、漆黒の髪が風に揺れている。深いサファイアのような瞳が、静かに、けれど強く私を射抜いていた。


 その姿は思わず息を呑むほど整っていて、美しかった。ただの美形ではない。どこか人間離れした静けさと、鋭さを持っている。その気配に、目を逸らしたいのに逸らせない。


(……誰……? この人、王宮の人じゃない……)


 王太子妃候補として、王宮に出入りする大半の顔は覚えているはずだった。けれど、この青年の顔は記憶にない。


「……どなたですか?」


 精一杯、平静を装ったつもりの声は、自分でもわかるほど小さく、震えていた。けれど、彼は確かにそれを聞き取った。


 一瞬、彼のまなざしが鋭く私を見据える。

 そして――ふっと、薄く笑った。


「俺は、ただの通りすがりの魔法使いだよ」


 その声は、どこか飄々としていて、どこか嘘めいていた。けれど、その奥に、重く沈んだ“何かの真実”が隠れているように思えた。


 すると、その青年はゆっくりと歩み寄ってくる。

 その足取りは不思議なくらい静かで、まるで風の中に溶け込んでいくようだった。私はその場に立ち尽くし、ただ彼が近づいてくるのを見ていることしかできなかった。


「お前、自分の体の異変に気づいてないのか?」


 その声は淡々としていたけれど、どこか底冷えのする響きを持っていた。


「どういう意味ですか?」


 私は思わず問い返した。けれどその声は自分でも驚くほど弱々しく、頼りなかった。

 胸の奥に、言葉にできない不安が広がっていくのを感じる。


 青年は私を見下ろすようにして、その瞳で射抜くように言った。


「……それ。今、お前に付いてるのは“呪い”だ。もしかして、気づいてないのか?」


「呪い……?」


 思わずその言葉を繰り返した。けれど私の声は、王宮の庭園を渡る風にあっけなくかき消された。

 胸の奥に、一瞬だけ氷の棘が突き刺さるような冷たさが走る。痛みはないのに、その感覚は妙に生々しかった。私は必死で目の前の青年を見つめ返した。



(……呪いなんて、そんな……)


 必死に否定しようとした。でもその思考を押しのけるように、彼の声が降り注いだ。


「本当だ。お前に魔力がないんじゃない。お前の魔力はその呪いに奪われてるんだ。それに──このまま放っておけば、数ヶ月もたない。死ぬぞ、お前」


 その言葉は、鋭く鋼の刃のように突き刺さった。


 一瞬、何を言われたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くす。けれど、彼の瞳は冗談や同情を微塵も含まず、冷たく事実だけを告げていた。


「まあ、信じないならそれまでだ。

 お前がどうなろうと俺には関係ない。……ただ、目障りなんだ。そんなもん抱えて俺の前をうろつかれるのは」


 全身の血が一気に引いていくような感覚。指先まで冷たくなり、喉がきゅっと締め付けられ、言葉が出てこなかった。


(なんなの、この人……どうして、そんな冷たい目で私を見てるの……?)


 青年――彼はそんな私の動揺など気にも留めず、ただ軽く嘆息した。


「“知らなかった”じゃ済まないぞ。死ぬ時は一瞬だ。……覚えとけ」


 その声は、氷より冷たく鋭く響いた。私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じ、思わず視線を落とした。けれど、どうしても訊かずにはいられなかった。


「……呪いを、解く方法は……ないんですか?」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど弱々しかった。けれど、知らずにいるのは怖かった。知らなければ、本当に“その一瞬”が訪れたとき、私は何もできないまま死ぬのだから。


 青年は、わずかに肩をすくめ、どこか退屈そうな顔で答える。


「普通の魔力持ちじゃ無理だな。そこそこの魔法使いでも、きっと歯が立たない。

 解呪の手順を知ってたとしても、肝心の“核”に触れられないだろう」


 その言葉はあまりにあっさりしていて、まるで他人事のようだった。私の心の中の不安だけが、どんどん膨らんでいく。


「……じゃあ……じゃあ、どうすれば……!」


「俺なら、救える」


 彼は一瞬も迷わず、そう答えた。その言葉は低く、淡々としていたのに、不思議なくらい重く響いた。

 自信に満ち、揺るぎなかった。


「選べ。俺の力を借りるか、そのまま何も知らないまま死ぬか――お前の自由だ」


 その瞳は、どこまでも冷たく、鋭い。

 そこには情けも迷いもなかった。ただ真実だけを突きつける光。私はその視線から目を逸らせなかった。



(この人、本当に……ただの魔法使い?)


 胸の奥にざわりと冷たいものが広がった。怖い。けれど、このまま見過ごすことはできなかった。

 気づけば、私は無意識に口を開いていた。


「……あなた、一体……何者なんですか?」


 声は震えていたけれど、確かに届いた。その問いに、青年はほんのわずか、唇の端を持ち上げる。どこか楽しそうで、けれど皮肉げな笑み。


「名乗る価値があるなら、そのうち教えてやる。……お前が生きてたら、な」


 その言葉を最後に、彼は踵を返した。

 すっと、音もなく歩き出すその背中は、驚くほどあっさりしていて、冷たく遠く感じられる。まるで今交わした会話など、取るに足らないものだったかのように。


(こんな話をしておいて……この人、行ってしまうの?)


 胸の奥で、何かがざわめいた。

 本当にこのまま彼を行かせてしまえば、もしかしたら……私は……。


「……待ってください!」


 気づけば、私は駆け寄っていた。

 震える手が彼の袖を掴む。その布の感触が、信じられないほど冷たく感じた。


「私、まだ……死にたくなんてありません。

 あなたが助けられるって言った。だったら……その方法を、教えてください」


「……助けてほしいと頼むなら、見返りがないとな」


 彼の声は相変わらず淡々としていた。でも、その言葉のひとつひとつが、冷たい針のように私の胸に刺さる。

 喉がかすれ、うまく声が出そうにない。それでも、どうしても聞かずにはいられなかった。


「……見返り?」


「俺の力は“無料(タダ)”じゃない。お前が死にたくないというなら……そうだな。お前の魔力の一部を、俺に“渡す”こと。それと、俺の指示には極力従うこと。これでどうだ?」


 淡々と告げるその声には、重さがあった。目の前の青年は、冗談や脅しで言っているのではない。本気だ。私はそのことを、痛いほど感じ取っていた。


「……それって、契約……ってことですか?」


 恐る恐る、けれど確かに言葉にする。

 青年はほんのわずかに目を細め、そして頷いた。


「そうだ。契約を結ぶことで、お前の呪いの核にも俺は干渉できる。

 それが嫌なら……好きに死ね」


 その言い方はひどく冷たくて、突き放すようで。けれど、そこに嘘や飾りは一切なかった。

 私は唇をきゅっと噛みしめる。


(決めなきゃ……。ここで踏み出さなきゃ、私は……呪いで死んでしまうかもしれない)


 心の奥で、小さな決意の灯がともった気がした。


「……わかりました。契約します。あなたの力を私に貸してください」


 自分でも驚くほど声は小さかったけれど、確かにその言葉は口からこぼれた。


 彼はじっと私を見下ろしていた。その表情は読めない。笑っているのか、嘲っているのか、それともただ興味深げに見ているだけなのか。冷たいサファイアの瞳が、ただ深く私を見つめていた。


「……わかった。だったら、覚悟しろよ――“スフィア・フォレスター”」


 その声が胸の奥に重く落ちる。


(……なんで、私の名前……?名乗った覚えなんて……いや、あった?)


 頭の片隅に疑問が浮かんだ。けれど、それを考える暇もなく、目の前の景色が突然、眩い光に包まれた。


「――っ!」


 あまりに強い光に、思わず目を閉じる。

 空気がびりびりと震え、世界そのものが軋むような、異質で不安定な感覚が全身を襲う。


 そして――ふいに、手のひらに温かな感覚が走った。


 驚きと戸惑いが入り混じったまま、私はそっと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、すぐ目の前で私の手を取る青年の姿。その指先は驚くほど冷たくて、でもその奥に確かに熱が脈打つように宿っていた。


 胸の鼓動が、ひとつ大きく跳ねる。


 そして次の瞬間。彼の形の整った唇が、ゆっくりと、ためらいもなく私の手の甲に触れた。

 そのわずかな温もりが、皮膚を越えて心まで届いたような気がした。


「……痛っ!」


 じん、と鋭い熱と痛みが走る。反射的に私は違和感のある手の甲を見下ろした。

 先ほど唇が触れた場所に、赤く腫れ上がった術式のような紋様がひとつ、くっきりと刻まれていた。

 それは、まるで私の皮膚の奥、血の中から浮かび上がってきたように思えた。見ているだけで、胸の奥がざわつく。


「これで、契約は完了だ」


 青年の声が静かに響く。その声は不思議と心に残り、消えなかった。


 私は、浮かび上がった紋様から目を離せずにいたけれど、思わず問いかけてしまった。


「あの……この契約って、一体どういう……」


「詳しい説明は後だ。……今はあんまり時間が――」


 言いかけた彼が、ふいに顔を上げる。その瞳が鋭くなり、空気が一瞬にして張り詰めた。

 私の胸の鼓動も、思わず止まる。


「……くそ。もう来やがったか」


 低く吐き捨てるその声に、私は思わず彼の視線を追った。

 回廊の向こう、昼下がりの光の中に、見覚えのある金色の髪が風に揺れる。



「アーノルド……殿下……?」


 姿を現したのは、正装に身を包んだ私の婚約者。

 金の髪が光を弾き、きちんと着こなしたその姿は、どこか近寄りがたく感じられた。

 けれど、彼はまだこちらに気づいていないようで、何かを探すように周囲を見回している。


 私はその姿にほっとするような、けれどどこか胸がざわめくような感覚を覚える。

 隣に立つ青年の表情が、わずかに強張るのが視界の端に映った。


「……まずいな。こんな場所であいつに見つかると厄介だ」


「え……?」


 困惑の声が自然に漏れた。でも、リアムはそれ以上何も言わず、くるりと背を向ける。


「そういうことで、契約の詳しい話はまた後だ。おとなしくしてろ、スフィア・フォレスター。

 死にたくないなら、俺のことは黙っておけよ」


 その声は低く、けれどどこか鋭く響いた。


 そして――風がひと吹き、庭園を駆け抜ける。すると、目の前にいたはずの青年の姿は、まるで幻だったかのように、跡形もなく消えていた。



「スフィア?」


 優しげな声が耳に届き、私ははっとして顔を上げた。

 いつの間にか、アーノルド殿下が私のすぐそばまで歩み寄ってきていた。その穏やかなルビー色の瞳に、心が少しだけ落ち着くのを感じる。


「君が魔力測定中にいなくなったって聞いて、探してたんだ。

 ……まさか、こんなところにいるとは思わなかった」


 困ったように笑う殿下。その優しい表情に、一瞬だけ、何かを忘れていたかのように私は目を瞬かせた。


(……魔力測定? ああ、そうだ。私……魔力がゼロだって言われたんだった……)


 でも、その事実さえもどこか遠く、他人事のように感じてしまう。


 頭の中をよぎるのは、あの青年――名も知らない魔法使いの姿。契約の光、手の甲に刻まれた印。まるで幻だったように、遠い景色にぼやけていく。


(本当に……全部現実だったのかな……?)


 指先に、まだ微かな熱が残っている気がする。それなのに、心は追いついてこなかった。


「スフィア、大丈夫?」


 アーノルド殿下の心配そうな声に、私はようやく我に返る。


「……ご、ごめんなさい、殿下! 私……!」


 慌てて頭を下げると、殿下はふっと柔らかく微笑み、静かに首を振った。


「気にしていないよ。君が無事ならそれでいい。

 さあ、行こう。これ以上ここにいると、目立ってしまうからね」


 その言葉に導かれるように、私は殿下と並んで歩き出した。けれど心の奥では、手の甲に刻まれた紋様の熱がまだ確かに残っている気がしていた。


 ――まるで、何も起きなかった世界に、私だけが取り残されたみたいに。


(……あの青年は、一体……)


 問いは胸の奥に沈んだまま、私はアーノルド殿下とともに、静かに庭園を後にした。



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