第1話〜運命は突然に〜
──夕方六時五十分。
俺は、ボロアパートの玄関で土下座寸前の姿勢だった。
「……本当悪かったって!今から買い物してくるから!」
「ほんっっっとうに何なの優斗は! 呑気にも程があるでしょ! 今日はアンタがご飯当番の日なんだからね!? 忘れて帰ってくるとかあり得ないから!」
茜谷楓──俺の十八年来の幼馴染が、怒りに満ちた眼差しで睨んでくる。怒ってるというか、呆れている。いや、たぶん両方だ。あの口調は本気のやつだ。詰んだ。
「いや、ほんとに、言い訳に聞こえるかもしれないけど、忘れてたわけじゃないんだよ。ただ、予定があって──」
「はああ!? その予定のせいで、私は今日、ご飯抜きになってもいいってわけ!?」
「ちょ、落ち着いて! そういう意味じゃなくて!」
「……言い訳はいいから。ほら、レシートはちゃんともらってくるのよ。無駄遣いしないようにね」
──怖い。
だけど、そこまで言っておいて財布を手渡してくれる辺り、本当に俺のこと見捨てる気はないんだろう。まあ、十八年も腐れ縁やってるんだから、それくらいの信頼感はある。きっと。
「はい、はい! 行ってきます!」
アパートの扉を開けて外に出る。春の夕暮れ。アスファルトの匂いと、スーパーから漂ってくる惣菜の香り。
俺は勢いよく自転車にまたがり、ペダルを踏み込んだ。
──この数年、楓とは高校卒業後に共同生活を続けている。
恋人かと言われればNOだ。俺たちは付き合ってない。ただの同居人だ。強いて言えば『三十過ぎても相手いなかったら付き合ってあげる』っていう冗談半分な約束はあるけど、真に受けてるわけじゃない。それに、楓はどこか”強い”。俺みたいな腑抜けが隣にいていい存在じゃない気がしてる。
──まあ、そうは言っても今は、プリンの話だ。
「さて、どうやって機嫌を取るか……」
ハンドルを握りながら思案する。楓の機嫌を回復させるには、あのスーパー限定の“ビックリプリン”が最適解だ。だが、今は午後七時直前。混雑タイム。取り合い必至。
「頼む、俺のプリン、残っててくれ……!」
風を切るようにチャリを飛ばす。俺の足はいつになく軽い。スーパーが見えてくると、自然と気合が入る。まるでこれが最後の希望であるかのように──いや、実際そうかもしれない。
到着。スーパーの駐輪場は既に満杯寸前。俺は無理やり隙間を見つけてチャリを止め、ダッシュで店内へと入る。カートにカゴを2段乗せ、マイバッグをぶら下げる。
「これより──ファーストフェイズを開始する」
──そう。今夜の俺は、料理男子モード。
材料はバジルソース、パスタ、鶏肉、ミニトマト。追加で白ワインも買って、贅沢をしよう。安いやつで構わない。雰囲気を味わえればいいのだ。問題は見た目だ。
「あと、スープか……ブロッコリーのポタージュでいいかな。冷凍野菜でいけるはず」
必要材料を買い漁り、次はデザートコーナーへと足を運んだ。
──人が少ない。予想外。
ワンチャンあるだろうか。その瞬間、視界に飛び込んできた希望の光。……あった。ビックリプリン、しかも二種類。
「……っしゃああああああ!」
思わず声が漏れる。棚の端っこに一つだけ残ったビックリプリンと、特盛サイズのダブルビックリプリン・カラメルソース仕様。
「どっちもいくか。いつもの礼も込めて……」
テンションは最高潮。レジで会計を済ませて、俺は戦利品を抱え、意気揚々とスーパーを後にする。
「──よし。ファーストフェイズ終了。セカンドフェイズに移行する」
自転車にバッグを乗せ、家への帰路につく。空は、うっすらと星が見える紺色へと変わり始めていた。
*
街灯が点灯し始める中、帰宅していた俺の耳に、かすかな声が届いた。その声は公園から聞こえてきていた。
「……ラジエル様、私、こんなの聞いてませんよぉ……」
ふと目を向けると、公園のジャングルジムの上に、人影。水色の髪の少女が、宵闇の中膝を抱えていた。
「……お腹減った……どうして下界って、こんなに不便なんですかぁ……」
その姿は──どこかで会ったことがある気がした。心の奥に沈んでいた記憶が、ふと……誰かのことを思い出してしまった。名前はわからない。そして顔も不鮮明だ。あの女の子を見ていると何故か心が痛む。俺はハンドルを切り、公園へと足を向けた。
「──おい、お前、大丈夫か?」
声をかけた瞬間だった。
「ひゃあああああっ!?」
少女が信じられないくらいビビった顔をして──3メートルの高さから、転げ落ちた。
「うわっ、おいおいおいッ!」
あわてて駆け寄る。彼女は地面にうずくまって頭を押さえている。
「……だ、大丈夫です……た、多分、死んではないです……」
「いや、頭打っただろ! 病院行くか?」
「い、いえっ、だ、大丈夫ですっ! 頭の中の回路が一瞬バグっただけですから!」
意味わかんねえよ。少女はジャングルジムの下から這い出し、すぐ近くのベンチへふらふらと移動する。俺も心配だから付き添う。
「……お前、名前は?」
「私は──シャルギエル。雪の天使です!」
謎のドヤ顔。夜風にさらされて揺れる髪は、どこか空の色に似ていた。水色のロングヘア。少し縮れた前髪。瞳は透き通るような空色で、全体的に柔らかな印象を持った少女だった。
「天使って、何だよ。最近のVtuberのキャラ付けってそんな感じなのか?」
「違いますよ! わたし、本物の天使ですから!これが証拠の天使の羽根です!」
その瞬間、彼女はくるりと背中を向ける。しかしそこには何も無かった。
「……羽根、ないけど」
「……あ、あれ?」
シャルは右手で背中をまさぐり、アセアセと手を振る。
「えっと、確かに天使は羽根があるんです。でも、地上に降りると“秘匿義務”とか“バレ防止結界”とかのせいで、羽根は隠れちゃうんです!」
「ふーん……」」
もしかしてこの子、頭を打ってだいぶ重症じゃないか?本当に大丈夫なんだろうか。
ぐぅぅぅっ
「うっ………」
「何の音だ?」
「ごめんなさい…お腹減ってしまって………」
「お腹、空いてるのか?」
「はい……とても……。天界では栄養補給って概念がなくて……人間って毎日ご飯食べてるんですよね?どうやってるんですか?何を食べてるんですか?」
こんな時まで設定守ってるのかと不審がりながらマイバッグの中を漁る。
「とりあえずこれでも食ってろ」
俺はマイバッグをゴソゴソと漁り、通常サイズのビックリプリンを差し出した。
「わあああ……なんか……光ってます……!」
「いや、ただのプリンだからな? 普通のやつだぞ」
「き、きっとこれが……下界の贄……供物……!」
「まあ、似てるっちゃ似てるけども」
シャルはプラスチックのスプーンを受け取ると、恐る恐る口に運んだ。──その瞬間。
「…………んまっ」
言葉にならないらしく、瞳を潤ませたまま、もう一口、さらにもう一口とプリンを頬張っていく。見ているこっちまで幸せになりそうだった。ふと何処か懐かしい感覚がした。……こんな顔、昔、誰かがしてたような。ふと、脳裏をかすめた残像があった。思い出せない、けれど確かに、似たような光景。思い出せそうで、思い出せない。胸の奥に刺さっている棘のような記憶。──なんだろう、この感覚は。
「ありがとう……優しい人ですね、お兄さん」
「帆村優斗。それが俺の名前」
「じゃあ、優斗さん。あなたに、恩返ししたいです。わたし、これでも見習い天使として、人間を助ける使命があるんです。……ちょっとだけ、今は方向性迷ってますけど」
「どんな天使だよ」
どこかおかしくて、どこか真剣で。だけどこの夜に現れた彼女──シャルギエルは、俺の人生を変える存在だった。──この出会いが、世界を巻き込む戦いの始まりだとは、この時の俺はまだ、知る由もなかった。