第8話 覚醒
「……葵。火月を連れて逃げろ」
(形状からしてあの夜魔は、鵺だな。ただ問題なのはやはり、時間帯だな)
現在の時刻は午前一時半。魔境深夜帯もピークに近づいている。
魔力濃度がかなり高まり、夜魔がもっとも力を発揮できる時間帯である。
「葵、早く──!!」
トウヤは叫ぶ。この場でステージ3の夜魔に対抗できるのは、自分しかいないと分かっていたからだ。
火月は魔力をほぼ使い切って満身創痍。
葵も才能があるのは分かっているが、それでもまだステージ3という高位の夜魔に対抗できるほどではない。
「でも──!」
「早く! このままだと、全員死ぬぞ──!」
トウヤがそう言った瞬間。
「お前、ちょっと退いて」
彼の目の前に鵺が出現し、軽く手をはらってトウヤのことを弾き飛ばした。
「う……!!」
彼は咄嗟に鞘で防御をしたが、森の奥深くまで吹き飛ばされていってしまった。
「あいつ、魔力ないでしょう? あんまり美味くないから、後で食べるわ。ただあなたたち二人は、美味しそうよねぇ。ふふ」
ニタリと鵺は笑みを浮かべる。涎が垂れ、鋭利な歯を葵と火月は目撃する。依然として、その目は爛々と光り輝いていた。
「わ、私のせいでトウヤが……」
自分のせいでトウヤが死んでしまったかもしれない。葵の精神はすでに極限状態にまで迫っていたが、震えながらも自分の腰にあるデバイスに手をかけようとする。
「ぐ……クソ!」
一方の火月はもう立ち上がるだけの力はない。彼はただ、見ていることしかできなかった。
「私が、私がやらないと……」
葵は震えたまま、ゆっくりとデバイスを抜く。
(トウヤはまだ生きている、だから今は私がどうにかしないと!!)
葵のデバイスは短刀であり、それを真横に構える。
「雪零月花──起動!」
青白い魔力が溢れ出し、葵はデバイスを抜刀。その短刀の刀身は青白く、かすかに冷気を帯びている。
有栖川家の血統魔術は氷。葵もまた天才であり、彼女は五歳にして十分にデバイスを操ることができる。
「へぇ……小さいのに、デバイスが使えるんだ。さ、どこまでやれるか見せてよ。お前が私に勝てないと、仲間は死んじゃうからねぇ……」
「はあああああああ……ッ!!」
葵は勇気を振り絞って、鵺に斬りかかる。今まで厳しい稽古を積んできたこともあって、葵の動きは洗練されていた。
同時に周囲の地形を凍らせていき、徐々に鵺の行動範囲を狭めていく。
(やれる──! 私でも戦える! 今まではトウヤにお世話になりっぱなしだったけど、今度は私の番だ!)
自分の攻撃が通用すると分かり、葵の動きは明確に良くなっていった。
葵は強く地面を踏み締めて、上空へと跳ぶ。その勢いを利用して、短刀の切っ先を鵺の頭部へと刺し込もうとする。
「やあああああああああ!」
後方へと追いやられた鵺は、上空へと飛翔した葵を見上げる。
一方の葵は勝利を確信するが、鵺は笑みを浮かべた。
「──え?」
鵺は異様に長い指先で葵の短刀を受け止め、接触した箇所からは煙が生じていた。
「う……っ!」
攻撃をあっさりと受け止められ、葵は鵺に腹部を蹴られることで派手に吹き飛んでしまう。
幸いなことに、葵でも受け身を取れることのできる威力だった。葵はすぐに体勢を立て直して、デバイスをあらためて強く握ろうとするが──眼前には鵺の顔が迫っていた。
「ねぇ、勝てると思った? ねぇ、ねぇ」
ギョロッと大きな目を動かして、鵺は葵に話しかける。そして長い舌を伸ばして、葵の頬を舐める。
「う……うぅ……」
葵はもはや恐怖で声も出なかった。尻餅をついて、何とか逃げようとするが震えて体が言うことを聞かない。
「あぁ。いい。この瞬間が一番いいんだよねぇ。ふふ。待った甲斐があったなぁ。ねぇ、仲間を守れずに死ぬってどんな気持ちなの?」
鵺がトウヤと火月の戦いを見守っていたのは、動けない人間を作るためだった。火月が全力で戦い、後で動けなくなるのは鵺も分かっていた。
そして決着がついた後、動けない火月の前で葵を捕食する。鵺の行動の全ては、人間を精神から蹂躙するためのものだった。
「うぅ……」
「お前を食った後は、そこにいるやつの魔力を回復させてから、食べてあげるねぇ。あはははは! 」
恍惚な表情を浮かべる鵺。どこまでも邪悪で、人間を餌としか思っていない。これが夜魔の生態だった。
「ぐ……くそ……っ! 俺が戦えれば……!」
葵に危機が迫っており、火月は何とか体を動かそうとするが、それも叶わない。
「じゃ、いただきます」
巨大な口がガバッと開き、葵を一飲みにしようとする。
(あぁ……トウヤ。ごめんね……私じゃ、ダメだったみたい……)
その深淵のような大きな口を見て、葵はがくりと頭を下げた。来るべき死に備えるが──それが訪れることはなかった。
「──すまない。少し待たせた」
葵の窮地を救ったのは、他でもない。トウヤだった。彼は鵺の頭部に蹴りを叩き込む、相手を派手に弾き飛ばした。
「あらら。まさか生きてるなんて、頑丈なのね。あなた」
鵺は立ち上がって、トウヤと相対する。トウヤの攻撃はほとんどダメージが通っていなかった。
「お前の相手はこの俺だ」
トウヤは刀を鵺に向けるが、依然として鞘は抜けない。
「へぇ。魔力もないただの子どもが、この私に勝てるとでも?」
「やってみないと分からないだろう」
「ふふ。いいね。生意気なガキを食べるのも、嫌いじゃないよ。お前が食べられる時、どんな顔をするのか楽しみだねぇ──!」
トウヤと鵺がついに戦いを始める。鵺はその巨体を存分に生かしてトウヤに襲い掛かる。
鋭利な爪がトウヤを襲う。少しでも擦れば肉は深く抉れるほどの威力だが、トウヤは冷静にそれを避ける。
「へぇ、動けるね」
(魔力はないし、普通の退魔師みたいなデバイスを使うこともない。でもこのガキ、かなり動ける)
鵺もまたトウヤのことを冷静に分析していた。初めは魔力のない、美味しくない食材程度の認識だった。
しかし、こうして戦いを始めてみると、その異質さに気がつく。
デバイスによる魔術の出力上昇も、身体強化もないが、トウヤは純粋な身体能力だけで鵺と渡り合っていた。
そして、一度二人は距離を取った。
「ふぅん。魔力のないただの子どもなのに、動けるのは認めるよ。でもさ、魔術を使ったらどうすんの?」
鵺は指先から真っ黒な液体を滴らせる。そして、トウヤに向けてそれを射出する。
彼は咄嗟にそれを避けるが、背後にあった木はその液体に触れるとドロッと溶け出していく。
「腐食か」
「ご名答。これを使って人間を生きたまま溶かして食べるのも、いいんだよねぇ」
鵺はニヤニヤと笑みを浮かべる。
トウヤは相手の魔術を理解して、思考を巡らせる。
(腐食か。特殊な運用ではなく、自身の魔術性質の延長という感じだな。避ければ問題ないが、相手の方が膂力は上。夜も深くなり、鵺の脅威はまだまだ上がっていく。まずいな……)
トウヤは勝利へのビジョンを持ててはいない。
しかし、トウヤは徐々にその刀からの呼応が強くなっている気がしていた。
「さ、どこまで楽しませてくれるのかな?」
戦闘が再開される。
鵺は腐食の液体をレーザーのように射出し、トウヤはそれをギリギリで躱す。鵺はその間に距離を詰めて巨大な手を広げ、トウヤの頭部を掴もうとしてくる。
手にもまた腐食の液体が滴っている。触れたら敗北することは、トウヤも分かっていた。
彼はそれを刀で弾き飛ばし、鵺の横っ腹に蹴りを叩き込むが──鵺は全く微動だにしなかった。
「ふ。身体強化もないガキの蹴りで、どうにかなるとでも……?」
鵺は歪な笑みを浮かべる。鵺は魔術だけではなく、魔力による身体強化もすでに行なっている。
時間が経過するにつれて強化される鵺とは対照的に、トウヤには夜の恩恵は何もない。
「ぐ……ッ!」
鵺が乱暴に振るう蹴りをトウヤは鞘で何とか受け切るが、その際に液体が体に付着する。服は溶け、皮膚も灼けるように爛れていく。
トウヤはぐったりと頭を下げ、鵺はニヤニヤと笑いながら歩みを進めてくる。
「ねぇ、どんな気持ち? まさか、魔力もないのに勝てると思ってたの? さっきのガキの方が勝機はあったよ。ま、それもちょっとの差だけどね」
鵺を視界に入れることなく、トウヤ下を向いて思考を深く潜らせる。
彼にはある感覚があった。魔力は確かに感じていた。ずっとそれは側にある気がしていた。
「ははは! いいねぇ。もう立ち上がる気力もないって感じ? お前はまず、両手両足を溶かす。そして、生きたまま少しずつ、削るように食べてあげるよ。恐怖に歪んだ顔は最高のスパイスだからねぇ!!」
鵺の声はもう、トウヤには届いていない。
(この刀に呼ばれている気がする。俺には魔力がある──それは間違いない。しかし、どこに? 体内にあるものがないなら、それは──)
その時、トウヤはついに核心へと辿り着く。それは常に側にあった。けれど、トウヤは見る方向が違っていたのだ。
トウヤは初めてそれを見た。巨大な器に満たされている、魔力の根源を──。
「そうか。内ではなく、外側にあったのか……」
ボソリと呟く。
トウヤはこの時、全てを理解した。
自身の持つ魔力の在処、生来刻まれている魔術構築式、そして不知火家初代当主のみに許された──この刀の真名を。
彼に刻まれている魔術構築式は奇しくも、現代まで引き継がれている不知火家の血統魔術ではなく──初代と同じものだった。
(そうか。初代にのみ許された刀とは、そういう意味か)
トウヤは決して諦めずに研鑽を積んできた。努力だけでも、才能だけでも足りない。前世のトウヤは決定的に才に欠けていた。
しかし、ここに──才は満たされた。
今、この瞬間。トウヤは初めて退魔師としてこの世に生まれ落ちた。
「じゃ、いただきまぁあああす!!」
鵺は勝利を確信して、トウヤの手足を溶かしてから捕食をしようと口を大きく開けるが──。
トウヤは悠然と右手に柄を、左手に鞘を握る。
そして、体内からではなく外側から直接魔力を大量に注ぎ込んで、ゆっくりと刀を抜いていく。
その刀はトウヤの魔力に呼応して、発光し始める。溢れ出る魔力の奔流は留まることを知らない。
「トウヤ……」
「トウヤ、お前は一体……」
トウヤは死の淵に立っていたが、その光景を目撃していた葵と火月はトウヤに魅了されていた。
それほどまでに、流麗で美しい所作だった。
そして彼はその真名を静謐に紡ぎ、遂に──抜刀。
「無銘──起動」