記憶の回路
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寝たのか寝てなかったのか、わからないような不可思議な気持ちでわたしは朝を迎えた。日射しは、レースのカーテンを透過し、雑多なものが置かれた部屋の空間に新しい一日の始まりを告げる。
少し開いたカーテンの隙間から、森の茂みが見え、舗装されてない小道を猫がゆっくりと歩いていた。子供の頃、拾ってきた仔猫を世話をしようとしたとき、父親にひどく怒られたことを思い出す。仔猫は、結局死んでしまった。父親が亡くなったのは、そのあとだ。母は悲しんだが、涙は見せなかった。
父親が趣味で集めていた漆器を整理しながら、母は、猫を飼いたいのかい? これからは好きなことをしなさい、と話した。
そのときには、猫のことはすっかり忘れてしまっていた。母の横でわたしは父の古い写真を手に取って眺めていた。二十代の頃の父の写真。どこかの飲食店の中で撮った写真だ。強くもないのによく飲んでいた父の姿はあまり遊んでもらえなかったわたしにとって、どこか他人のようにも思える。
「おまえは、いくつになったんだ?」
グラスを手にしながら父が言う。
「次の誕生日で三十六だよ」
わたしが応えた。そうか、と二十代の父は言ってグラスに口をつけた。若い父の顔には、後年の印象を彷彿とさせるものがあった。
と、カーテンが降りてきて、父の姿は投影された影絵のようにかたちを変えて消えてしまった。
室内の調度は紙細工のように、風でぱたぱたと倒れ、わたしは、いつの間にか、草原の中に立っていた。前を歩いているのは、親子だ。父と母とわたし。真ん中を歩くわたしは、両親に手を繋がれて、草のなかの小道を進んでいる。
草原の向こうにはCE総合研究所のステンレスの外観をもつ建物が見えていた。
「作業は、眠っている間に終わる。君の負担は極めて微細だ」
青い手術着を着てマスクをしたドクターが横になったわたしに言った。すぐに大脳をスキャンする可動式の装置がわたしの頭の上にかぶさってきた。急激な眠気が襲う……。
あれから、どのくらいの時間が流れたのだろう。わたしにとっての睡眠は、時をかさねる道しるべのようなものだ。ソリッドステートの海につながれた、わたしという存在は、肉体を持っていたときよりも、ある部分では鋭敏に変化をとげていた。
コンピュータの中に転写されたわたしの意識は記憶を思い起こすことで、肉体を持っていた日々との繋がりを保っていた。選択肢は限られていた。重い心臓の疾患はわたしから将来の人生を奪っていた。
肉体を捨て、脳をコンピュータに転写する決意を伝えたとき、母は黙っていた。それが別れになることを受け止めていた。
わたしの脳の神経組織、ニューロンの活動は、いまや演算装置の中で忠実に再現され、装置じたいを生命体に変えたといっても過言ではなかった。
いま、わたしの認識する視界には、天の川銀河中心部の星の密集が迫っていた。
わたしの現在の肉体、宇宙探査船イオのセンサーが飛び交う電磁波、放射線を捉えていた。ふと、どこかで猫の鳴き声が聞こえる。
記憶素子の迷路の中で、わたしの意識は猫の姿を求めて浮遊していた。
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