08
そんな伊吹にきょとんしたあと、彼はぷっと吹き出すように笑って「まあ、そうだね」と言葉を続けた。
「自己紹介忘れてたよ、俺の名前は小野町龍蔵って言うんだけど……呼び方はー、んまー何でも良いけど、周りの奴らからはリュウって呼ばれてるかな」
よろしくぅ、と気安さの塊で手を差し出す彼を、伊吹は数秒ほど黙って見つめた後。
「……水波伊吹です」
嫌々ながらもその手を握っていた。育った環境のせいで、無視できなかったのだろう。
「ちゃんと返してくれるんだ。偉いね。洸瞑の人って、みんなこんな感じなの?」
へらへらと笑っている彼はちらっと私を見て、「さてと」と口を開いた。
「行こっか、オサゲちゃん」
嫌だという思いで首を振ろうとすれば、「じゃあ、また」と伊吹はそのまま一年の教室のある方へ歩いていく。え、待って!
「い、いぶっ……」
「ほら、二年の教室は二階だからねー」
「っ!?」
がしっ! と、しっかり腕を掴まれて、私は死神でも見るような目で彼を見てしまう。い、今は優しい口調だけれど、このあと豹変したこの人に、命でも取られてしまったらどうしよう。
ぶるぶると震えていれば、「なんかバイブみたい。ウケるー」とか言って、リュウといった彼は私をずるずると引き摺った。
◇
「おら、テメェ。そのエロ本、どこにあったんだよ!!」
「んあー? 教室後ろに落ちてたから拾ったー。今は俺のもん」
「ふざけんな、それは俺がこの間買ったばっかのヤツだっ!」
「それじゃあ水波さん、自己紹介をお願いします」
「…………」
「この前さ、ニシヨミの女が逆ナンしてきてよぉ」
「え、マジ!? 可愛かった!?」
「まあ、顔は割と良いなー」
「誰似!? 誰似!?」
「誰っつうか、こう。美人系?」
「ニシヨミの女は顔はいいよな。馬鹿ばっかだけど」
「まあ、可愛んならそれだけでよくね?」
「ほら水波さん、どうしたんですか? 自己紹介」
「…………」
出来るわけありません。
涙目になりながら眼鏡をかけたひ弱そうな担任を見た。彼は「ん?」と首を傾げた後、騒がしい教室を見回して「あまり気にしなくて大丈夫ですよ」とか言っていた。
どこも大丈夫なんかじゃない。
私は首をりつつ、恐る恐る再度教室を見回した。
椅子の上なんかじゃなく何故か机の上に座って、友人と話をしている複数人の男の子たち。
興味なさそうに本を読んだり携帯をいじっているその他男子と少数の女の子たち。
今まで通っていた高校からじゃ想像がつかないくらいに短いスカートに、はだけた襟元……さらに信じられないのは、耳や手や、リボンやネクタイをしていない首元にはアクセサリーが普通についていること。
あんな恰好を前に通っていた洸瞑学院でしたら、即座に反省文を書かされていた。
信じられないと思いながらその光景を眺めていたら。
「オッサゲちゃーん」
教室の後ろの方から声が聞こえて、私はびくっと肩を揺らした。
目を向けると、あのウェーブのかかったクリーム頭が印象的な彼がいた。
さっき二年の教室を案内されていた時に、クラスを聞かれて『4組です』と答えれば。
『え、まじ? 俺も4組ー! なんか運命じゃん、よろしくねー!』
と言っていたのだ。もう最悪な運命だとしか言いようがない。
しかも、しかもだ。
このクラスの中で少し違った存在なのかは知らないけど、彼が教室の中に入って行った時、一瞬で空気が変わった気がした。これだけ騒がしい教室が水を打ったようにシン、として、みんなの視線が一気に彼に向かったのだ。
それに今だって、彼が『オサゲちゃん』とあたしを呼んだことによって、教室中の視線が一気に私へと注がれている。
おかしい、絶対におかしい。
「自己紹介してよー」
更なる追い打ちをかけられて、より一層帰りたくなる。もう黙っていただきたいのですが。
担任も「ほ、ほら水波さん」と自己紹介するよう促してくる。う……仕方ない。
「み、水波、こ、小宵、です……よろしく、お願い、します……」
「えー、水波さんは洸瞑学院からの編入により……」
「えっ、洸瞑!?」
「マジ!? あの洸瞑かよ!!」
「えーなんで、マツキタなんかに!?」
「意味わかんないんだけど!」
「何か問題でも起こしたとか!?」
「えー、問題って何? 相当な問題じゃないと、あんな大層な所出る理由がなくね?」
一気に騒ぎ出すクラスメイトたち。担任の声なんて見事にかき消されて、みんながみんな、椅子から立ち上がってまで、わーわーと声を上げていた。
「あ、え、っと、あの……!」
ど、どうしよう。なんて答えればいいんだろう。
おろおろとしていると、前の方に座っていた男子生徒が「あのさ」と口を開いた。
「今朝、藤山先輩を殴って倒したってのは、きみなの?」
「へっ?」
しゃっくりのような声が出たと同時、教室はシンと静まり返った。エロ本を見ていた男子学生も、本の中のフェロモン満開の豊満女性なんかじゃなく、顔を上げて私のことを凝視している。
携帯をいじっていたり、雑誌を読んでいたりした女子たちも、さすがに驚いた顔をして私を見ていた。
さっきまで驚く程うるさかった教室は、嘘のように静かで。担任でさえ戸惑った顔をして、「え、きみが? あの藤山くんを?」と声を震わせていた。
「いや、あの……っ!」
違うんです! 何もかも手違いで!
と、言おうと一歩みんなの方へと歩み寄れば、クラスメイトは椅子から立ち上がって、ザッ! と後ろへと後退した。
え、なんで!?
もう一歩近づけば、更に後退して行くクラスの人たち。もうどうしたら良いのやら。
「あっちゃー。これじゃあもう、収集はつかないねー」
教室の一番後ろで、その光景を見ていたクリーム頭の彼は軽い口調でそう呟いた。
「小野町、マジなのか? あの女子、マジであの藤山さんをヤッちまった犯人なのかよ?」
エロ本を持っていた男子が彼に訊ねる。
「うん、マジみたいだよねー。俺は見てなかったけど」
さらりと答えた彼に、教室中が一気にどよめいた。
「ええ、じゃあ! どうなんのこれから!?」
「あの転校生がマツキタのトップってことになるの!?」
「そりゃねえだろ! でも、ここのルールが……」
「うっそだろ!? 女が頭だなんて終わりだろ!?」
わーきゃー騒ぎ出す彼らに、「皆さん、静かに……」なんて担任の先生は言ってるけれど、誰も聞く耳は持たず。
い、今すぐにでも、帰りたい……。
とは言っても、私の家はもうないのだけれど。
「女なんかにマツキタの頭任せられるかよ!!」
不意に、窓際にいた生徒が机を蹴り倒して私の立っている教卓のところまでやって来た。な、何事!?
右サイドを刈り上げた金髪が、目をチカチカとさせた。こ、この人日本人だよね?
「ルール上、トップをヤッたらそのヤッたヤツがここのトップになる。そうだろ小野町ぃ!」
「そうだよー」
後ろで高みの見物でもしている彼は、椅子に座ったまま微動だにせずそう返事をしていた。私はそのクリーム頭の彼と刈り上げを交互に見て、「あ、あの…!」と黒板の方へと後退した。
それでも、ジリジリと躙り寄ってくる刈り上げは、ダンッ!! と脅すように、黒板を拳で叩く。担任は避難するようにそこから遠ざかって、頑張れ! と言わんばかりにグーを握っていた。
ちょっ、た、助けてくれないんですか!?
信じられない担任の対応と、かなり闘争心剥き出しの刈り上げに泣きたくなってくる。
どうしてそんなに怖い顔してるんですか、私、何か悪いことでもしましたか!?
と、思っていても、恐ろしさで言葉に出せずに、ううっと涙ぐむ。仕方がないので、謝りますから! という目で懇願してみれば、「あ?なんだその目は?」と更に挑発させてしまった。
どうしようもない。
ひとまず謝ろう。なんだかよくわからないけど、謝罪すればきっと許してくれるはず!
「すっ、すみま……」
と、適当に口を開きながら、黒板の、チョークとかを置く場所に触れていた手を見る。
すると、そこにあったのは……。
「いやあ! クモの巣!!」
「ぶふっ!!」
飛び上がった私は、そのまま後ろに立っていた刈り上げの顔面に、後頭部で頭突きしていた。加えて手からクモの巣を払う際に、そのまま鳩尾にひじ打ちまで食らわせていた。
度重なる幸運……いや刈り上げの彼にとっては不運であろうそれに。彼はヨロヨロとよろめいて、そのまま教卓の横にパタリと倒れてしまった。
そして、私が気付いた時には、クラスメイト全員が教室の後ろに貼りついていた。
「み、見たか……?」
「あ、ああ……」
「あの、問題児苅田を頭と肘だけでヤッちまったよ……」
唖然としているクラスのみんなの中で、やっぱり一人余裕そうに席に座っているのはクリーム頭の彼だけだ。
「あーあ。もうこれは、とんでもないことになっちゃうねー」
口調こそはまるで、他人事。それが心底羨ましかった。
ああ、どうしよう。
友達100人だなんて、歌ってる場合じゃない。
友達1人ですら危うい。
お父さん、私、転校初日にして心折れそうです。
「っ」
こんな状況で、友達なんて絶対に出来る気がしません!!