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「あ?」
「気持ち悪いいいいい!(虫の死骸が)」
「っな!? キモッ!? ぐはっ!」
反射的に泰司さんの腹部に入れた拳に、私ははっとする。
『気持ち悪い』という言葉が引っかかって、不覚にも狼狽えてしまった泰司さんの、負け決定の瞬間だった。
膝をつきながら、殴られたお腹を押さえる泰司さんに、「ご、ごめんなさいっ!」と慌てて謝れば。
「っ、う……くそ、こんな女なんかに……!」
「すみませんすみませんすみませんんっ!!」
「ってえ……、なんちゅう力だよ……!」
「すみませんんんん!!」
「てか、気持ち悪いって……俺そんなにきもいかよ……!」
右手でお腹を、左手で頭を抱える泰司さん。気分が沈んでいるように見える。
私は、どうしたら良いのか分からず、取り敢えず必死に泰司さんに頭を下げていた。
その光景を見ていた翡翠さんは、一度、息を呑み、
――そして、
塔屋から飛び降りて、すぐさま私の元へやって来た。
「小宵!」
珍しく、少々大きな声を出す翡翠さん。
どこか柔く、深みとのあるその良い声に、こんな状況なのに何故だか反応してしまう。
泣きべそをかきながらそちらを向けば、翡翠さんは私の手をとった。
まだ寒さが残る季節とは言え、翡翠さんの指先はひんやりと冷たい。
顔を上げると、ばちりと目が合う。
その眼差しをどこか懐かしいと思ってしまうのはきっと気のせいだろう。
「やっぱりお前なら、八神をヤれるかも知れない」
「っ、へ……!?」
翡翠さんの言葉に、素っ頓狂な声を上げる私とピクリと身体を動かす泰司さん。
そのまま、ばっと翡翠さんへ顔を向けた。
「翡翠、まさかお前、〝それ〟が目的で、この女をトップにしたのか!?」
どこか腹を立てたような、それでいて少し焦ったような。
どちらとも言える口調で、泰司さんは告げる。
そんな彼に、翡翠さんは暫し間を空けて、「それ……っていうと」と一度何かを考えるように目を伏せたあと、私を横目に見て、何か言いたげに口を開き。
だけど、一度考え直すように閉じたあと「いや」と私の手を離した。
「それが……理由です」
「お前、馬鹿じゃねえの?」
「泰司さんに言われたくない」
「っ、な!」
「今日だって、どうせテスト範囲聞きに学校に来ただけのくせに」
「く……っ!」
否定できんとばかりに歯を食いしばる泰司さんに、翡翠さんはさらに続ける。
「いいんですか? また留年しても」
「ってめえ、言いたい放題だな……!」
「言っときますけど、俺は今回手伝わないから」
「!? なんだと!?」
「早く冬馬さんにお願いして来たほうが良いんじゃないですか?」
「っ」
「勝負はついたんだし」
そう言って、再び私を見る翡翠さんに泰司さんはやはり何も言い返せないのか。
くっ、と、途中まで力強く握っていた拳を解いて、諦めたようにして息を吐いた。
「チッ、もういい」
舌打ちをしながら頭を掻く泰司さんは、私を見て「おい」と声をかけた。
「三ヶ月だ」
「っ、は、はい……?」
「三ヶ月過ぎたら、マジで容赦しねえからな」
鋭い目つきで睨まれて、私はひっ、と喉を鳴らす。
「くそ、なんで俺が……! 翡翠がいるといつもこうだ…チッ」
ぶつくさと言いながら、泰司さんは屋上を出ていく。
「よ、容赦……?」
「三ヶ月経ったら、本気で勝負仕掛けてくるってことだろ」
「…………え!?」
真っ青になる私は、隣に立つ翡翠さんを見上げる。
目が合うと、翡翠さんは鼻で笑って、私の頬を手をあてがった。
「泣いた痕、すごいな」
至極自然に親指で拭われて、私は驚きで固まってしまった。
「ん、どうした?」
私のおかしな様子に気づいて、翡翠さんが背を屈めながら顔を近づける。
ななななっ!
「なんでもないですっ」
咄嗟に顔を逸らすと同時に、翡翠さんの手も自然に離れて、私はほっと胸をなで下ろした。
びび、びっくりしたぁ…!!
だ、だって……私、あんまり翡翠さんと話す機会なかったのに……。
最後にちゃんと顔合わせたのだって、あの……。
そうだ、忘れていた。
「っ……」
思い出して、死にたくなってしまう。
「小宵……?」
私、翡翠さんに、む、胸を……!
真っ青になる私に気づいて、翡翠さんが「どうした?」と少し心配そうに尋ねてくる。
それだけで、どうしてか無性に申し訳なさが増す。
翡翠さんは疾うに気にしていないというのに、私だけがいつまでもあの事故を引きずってしまって………。
「い、いえ……なんでもないんです」
だめだ、切り替えなきゃと思い、必死に首を振った。
「それより、あの……さっきの、泰司さんって、留年、してるんですか?」
「ああ、一年な」
「え、どうしてですか?」
「あの人、頭悪いから」
「え……?」
頭……?
「テストは赤点ばっかりだし、追試も補習も蹴ったら、留年したんだよ」
「…………」
「うちの学校は、出席日数よりも試験重視だから。そのおかげでみんな、試験は必死で受けてる」
「…………」
「小宵? どうした」
「……どうしましょう」
「ん?」
「翡翠さん、私…………」
両頬を押さえながら真っ青になる私に、翡翠さんは首を傾げる。
「余裕だと思ってました…………」
「何が」
「試験ですっ!」
「? 小宵は余裕だろ。前にいた学校、頭良かったろ」
「余裕じゃないですよ。だって、私……」
なんてったって……!
「頭が悪いんです!!」
その上、プレッシャーにも弱い。
だから、いくら勉強しても、当日に100%の実力を出せた試しがない。
頬から今度は、顔を手のひらで覆って絶望した。
どうしよう、テスト失敗して留年でもしたら……!
こんな学校に、何十年もいる羽目になってしまったら………!!
さっきまでは、テスト範囲くらいは追えると思っていたけれど、来週までに全ての教科を終えられる気がしない。
「なら、俺が勉強教えてやろうか」
「え……、……え!?」
「どうせミクたちにも教えるし、そのついでだけど」
「…………」
「まあ、嫌なら別に断っても……」
「ぜっ、是非! 是非とも教えて下さい!!」
藁にも縋る思いで、私は翡翠さんに頭を下げる。
そんな私を見ながら、翡翠さんはあの綺麗な色をした目を丸くして、
「俺、教えるのヘタかもよ?」
そう。目尻を下げて、緩く笑った。
まさかそんなことを言われるとは思ってもなかったので、私は一瞬、反応が遅れてしまう。
「いっ、いえ……! そんなことは、な、ないと思います……けど」
「何を根拠に?」
「え? いや、それは……えと……」
「冗談だ、本気にすんな」
ふ、と小さく微笑む翡翠さんを思わず見入ってしまう。
元の顔の作りが、芸術品のように綺麗だっていうのもあるけれど、この人の笑みは破壊力が凄いかもしれない。
………翡翠さんって、こんな風に笑うんだ。




