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『泰司さん、どうしたんすか。考え事?』
『ああ、ミク。今日の晩ご飯は、何にしようかと思ってな』
『泰司さん、そう言えば最近料理にハマってるって言ってましたもんね』
『最近っつうか、料理は常にしてはいるけど……確か冷蔵庫の中に玉ねぎと豆腐とかあったから、今日は帰りに合挽き肉買って、ヘルシーなハンバ……』
『い、いやあああああ!! 虫ぃいいいい!!』
『っ、泰司さん危ない!!』
『え?』
ドコォォォオ!!!
「――――っ、この俺が晩ご飯について悩んでる隙を狙って、殴ってくるとは計算以外の何ものでもねえ。ここ数日、てめえのせいでどんだけ落ち込んだかわかるか? 女にヤられた挙句、トップの座まで奪われて、みんなに合わせる顔がなくなっちまった。しかもそれだけじゃねえ、俺はてめえの所為で大好きなハンバーグさえ食べれなくなるくらい落ち込んで落ち込んで落ち込んでだな……!」
「や、泰司さん?」
「ああ!? ……!!」
トラくんの声にはっとした泰司さんは、わざとらしく咳払いをする。
そして、今一度キリリという顔をして私の胸ぐらを掴み直した。
「とにかくてめえのせいで、俺の人生はめちゃくちゃなんだよ。どうしてくれる!?」
「!?」
めちゃくちゃなことを言われた。
「どうなんだ、なんとか言えよ。このクソアマ!」
さっきまで威厳があるように思えた泰司さんが、口を開けば大きなミクさんに見えてきた。
どうやら人は見かけによらぬものらしい。
「っ、じゃあトップをあなたに返しますっ! それじゃあ、ダメですか!?」
「ああ!? それが簡単に出来たらなあ、こっちは苦労しねえんだよ!!」
「っ、じゃあ、どうすればいいんですか!?」
「ああ!? それは勿論…………!」
「勿論」と今一度言って、泰司さんの口がピタリと止まる。
そして、訝しげに眉根を寄せて、三度目の「勿論……」を言ってトラくんを見た。
「……どうすればいいんだ、トラ」
「え、聞く!? 俺に!?」
「だってよく考えたらルール上、トップの権限は返ってこねえだろ? 俺は一体、この女に何をしてもらえばいいんだ……」
胸倉を掴んでいた力が緩んで、私はつま先立ちからようやく解放された。恐る恐る彼を見れば、その人は額を押さえて何かを考え始めていた。
「しまった、何も思いつかねえ……!」
「あ、あー……泰司さん? なら、一旦ここは、泰司さんもオサゲちゃんを認めて、ひとまず休戦って形にしたら良いのでは?」
「いいや、それだけはならねえ。俺は何があってもこいつを認めたくねえ!」
びしぃ! と、いきなり指を差されたものだから、思わず驚いて私は涙を止めた。
「でも泰司さん。オサゲちゃんは別に弱くないし、ちゃんとトップやれると思うんだけどなー……昨日もニシヨミほぼ一人で壊滅させたし?」
「一人で壊滅だと……?」
鋭い眼をトラくんに向けて、そしてそのまま流すように私を見る。
「いくらニシヨミが弱えからって、こんな女一人に、壊滅……?」
「ね? だからだいじょー……」
「いや、だからと言って! この女を認めるわけにはいかねえだろ」
「……あー、はあ、そうですか。もういいよ(疲れてきたから)」
トラくんが首元を掻きながら、諦めたように息を吐き出した。恐らくもう帰りたいのだと思う。
「だって、この学校のトップは俺なんだ。だから勝負しろ、この地味女!」
「じみっ!?」
「ルールは……どっちかが先に相手の身体のどこでもいい。一発入れた方が勝ちだ! わかったな?」
勝手に話を進める泰司さんはそう言って、パキポキと指や首を鳴らして震える私を見下ろした。
にやりと、歪んだ口端が、どこか勝利を確信しているように見える。
「ちょ、それは止めといた方がいいですって!」
焦った様子のトラくんに、泰司さんが不機嫌そうな顔をして「あ?」と声を上げる。
「まさか本気でしないですよね?」
「マツキタのトップ争いだ、本気でしねえでどうするよ」
「なあ?」と目が微塵も笑っていない笑みを向けられて、私は硬直する。
今まで出会ってきた人たちの中で、最も冷ややかで恐ろしい笑みをする人だと思った。
「いやいや泰司さんの拳、マジ骨折れるから! オサゲちゃんの体格見てよ! 粉々になっちゃうって!」
「準備はいいか?」
トラくんの声を無視して、泰司さんは私に向かってそれを言う。
私は勝負するとも言ってないし、準備などした覚えもない。
それなのに彼は、私の声すらも無視して「なら、スタートだ」と愉快そうな声音で告げた。
――瞬間、ぞっとした。
さっきまでとは、まるで違う人に変わったかのような空気を感じてしまって。
これが――。
逃げなきゃ、逃げなきゃ……。
――この学校の真のトップなのだと、思い知らされる。
殺される……!!
「おいコラ待てっ、このクソ女!!」
「ひいいいっ!!」
脱兎のごとくに出だした私は、その人の手から逃れて軋む廊下を走り抜けた。
そして、急いで離れから抜け出して、校舎に向かう。
廊下に入ろうとした所でたくさんの人たちの視線を浴びて、つい非常階段に足をかけた。
「なんだ?」「どーした?」と、教室から顔を覗かせて、色んな人が私たちのことを見ようとしていたけれど、私も泰司さんも二人揃って俊足なものだから、その残像しか見えないみたいだった。
「おっまえ! 範囲指定してないからって、校舎まで逃げるのは卑怯だろ!」
「おっ、お願いしますっ、来ないでくださいいいいっ!!」
階段を駆け上がりながら、私はこれまでにないくらい声を張り上げる。
後ろを走る泰司さんは階段を二段飛ばしに走ってきて、いつ捕まってもおかしくない状況に涙は止まらなかった。
ヘタしたら鼻水まで出てしまいそうな恐怖に、私は必死に階段を駆け上がっていく。
一番上まで辿り着いて、逃げ道がなくなったところで校舎の中へ入った。
そうやって、初めて訪れた校舎の最上階には……。
「あ?」
「なんだ?」
「うるせえな」
「なんだ、この女?」
強面さんだらけの三年生の教室があった。
廊下を歩いているガタイの良い男の人たちに悲鳴を上げそうになりながら、その身体にぶつからないようにして、私は廊下を駆け抜けた。
「おらアアア! 待て! このオサゲこの野郎! チッ、退けてめえら!!」
「え……あれって……藤山!?」
「やべ、怒ってね!?」
「退けっ!」と強面さんの身体を押し退けた泰司さんに、彼らもそそくさと道を開けた。
そのせいで、どんどん距離が縮まってくる。
私はあわあわと後ろを振り返りつつ、前を向き直したと同時に誰かとぶつかった。
「ごっ、ごめんなさ……っ」
「おい。いってえな、なんだお前……あ? ハニーちゃんじゃねえか」
「っ、と、冬馬さん……!?」
「どうしたんだ? こんなところに。まさか、俺に会いに……」
「おらあ! 待てえええ!!」
「ひっ! あ、ご……ごめんなさいっ!!」




