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平和で、平和すぎて……逆に怖い。
嵐の前の静けさとはこのことじゃなかろうか。
と、思っていた矢先。
「何やってんだ、二人とも」
「っ、トラくん!」
「あ、トラー! 見て聞いて! 今日のオサゲちゃんの髮、俺がやってあげたのー。可愛いでしょー? いつもの倍? 百倍? 千倍? なんかもーとにかく可愛いでしょー?」
「ねー?」なんて言ってリュウくんは、膝に乗っている硬直した私の頭をペットを愛でるかのように撫でていた。
平和なんてあったもんじゃない。
四時限が終わった途端、リュウくんが「オサゲちゃん」なんて大きめの声で呼ぶから。
さらには、ちょいちょいと指先で、私に来るように促すから。
「?」
なんの疑いもなく。寧ろ何か急ぎの用でもあるのかと思って急いで近づけば、いきなり腕を引かれて、お尻から膝に乗せられた。
「ひえっ!? なな、何を……!?」
「えー、抱き心地確認してるの」
冗談か本気かもわからない顔で、全く周りを気にしていない様子のリュウくんに、私は青い顔で必死に抵抗していた。
のに。
「おいおい、あの小野町が尻に敷かれてるぞ!」
「嘘だろ!? 恐ろしい女だな……」
なんていうクラスメイトたちの、勝手な、しかも意味合いも違う解釈に、私は必死で首を振っていた。
だっ、だだ、誰か助けて……!
そんな私に、リュウくんは「抵抗するところも可愛いねえ」なんて言って、私のお腹に手を回した。
「っひ……!」
どっ! どどど、どうしたらいいの!?
っていうか、こういうのが、この学校では普通なんですか!?
とか思っていた矢先、トラくんが救世主のように現れたのだった。
「リュウ、お前悪ふざけも大概にしとけよ? オサゲちゃん慣れてないんだから」
トラくんが神様に見える、なんと神々しい……!
リュウくんはぶるぶると震える私を、トラくんの言葉でぱっと離して、あははと笑った。
「どうしよー、トラ。俺、気づいちゃったんだけど」
「何が?」
「なんか、虐めたくなっちゃう。オサゲちゃんって」
突然の宣言に、私は目を見開いて真っ青になる。すっかり固まった私を横目に見て、トラくんは溜息を吐いた。
「お前はちょっとくらい言葉を選べ。ってか、変態の許容範囲ってどこまでも広いのな」
「冬馬さんが言ってた、食べたくなるっていうのも、なんかわかってきたっていうか」
ひえ、と肩を強張らせる。
冷や汗までだらだらと流れて、腰を思いっきり後ろにあった席にぶつけた。
ガタガタ! と大きな音に、クラスの人たちは何事かとこちらに目を向けていたけれど、リュウくんに私、そしてトラくんの存在が怖いのか、すぐに顔を逸らしていた。
「ぷっ! ほら、こういう反応! 可愛くて、最高」
「面白がってんな。オサゲちゃんはマジに受け取るんだから」
ケラケラと笑うリュウくんに、トラくんは「オサゲちゃんもさ」と呆れた様子だった。
「トップなんだから、嫌な時は命令して止めさせる。そんくらいの権限は持ってんだから」
「ご、ごめんなさい……」
何故、私まで怒られているのか。
それすらもよくわからなかったけれど、トラくんの言っていることは正しい気がして素直に謝った。
「んで、どしたのトラ? 俺とオサゲちゃんの愛の巣に何か用?」
「ああ、そうだ」
愛の巣には何も突っ込まないのか。
恐ろしいほどのスルースキルを持ち合わせているトラくんは、今一度私を見て少し躊躇うような顔を見せた。
「泰司さんが、呼んでる。オサゲちゃんを」
「泰司さんが? なんで?」
「知らねえ。たださっき呼んで来いって言われた」
や、泰司さんって、あの赤い頭の……。
私を呼んでるって、な、なんで……!
と。考えただけで、カタカタと指先だけじゃなく全身が震え出す。
嫌な予感しかしなかった。
◇
トラくんに連れられてやって来たのは、またもやあの溜まり場と呼ばれる場所だった。
今日は絶対に来ることはないだろうと思っていたのに。
「連れて来ましたよー、泰司さん」
トラくんがギシッ、と古さで軋む黒塗りのドアを開けていた。
ごくりと生唾を飲み込んだ。ああ、かつてこんなに緊張したことはあっただろうか。お腹が痛い。
リュウくんはと言えば、途中で遭遇した女の子とイチャイチャしながらどこかへ行ってしまった。実に羨ましい。
ふわ、と、木くずの香りが鼻腔を掠めて、ああ、またここにやって来てしまったのか……と改めて思う。ミクさんの所為で、この匂いを嗅ぐだけで緊張してしまうようになった。
蘇ってくる悪夢のようなトップ訓練に頭を抱えていると「ほら、入って」と、トラくんが中に入るように促した。
素直に従って中に入れば、冬馬さんがよくアニメを見ながら寝ているソファに座って、「今か今か」と急かすような鋭い目つきをした赤髮のあの人が見えた。
「……っ!」
どこか圧迫感を感じて、私は無意識に後退りしてしまう。
翡翠さんとはまた別の雰囲気というか、オーラというか。
人を圧倒させるその存在感に、足が竦みそうになった。
鋭い視線を、じろりと向けられて、私はさらに肩を震わせる。
私と目を合わせたその人は、「やっと来たか」とそれはもう怒りを孕ませた低音でそう告げた。
「随分待たせやがって、新入りのくせに」
響くような深みのある声。苛立ちも感じられる口調に、私は再びごくりと唾を飲んだ。
そして、すくっと立ち上がり、彼は私の方へとずんずんと歩いてくる。
え、逃げ出したくなったけれど、トラくんが後ろにいて、逃げ場がなかった。
トラくんくらいの長身の体躯に、恐らくトラくんより引き締まった筋肉。
切れ長の目に、狙った獲物は逃がさねえ、と、ばかりに射抜くような力強い黒い瞳。
逃げる暇もなくあっという間に目に前に立たれる。
そして、私が悲鳴を上げる前に、
「俺がお前に倒されたってのは、何かの間違いなんだよ!」
思いっきり胸ぐらを掴まれて、額がくっつきそうなところまで顔を近づけられた。
ひ、ひいいっ!!!
乱暴に引っ張られてしまったせいで制服の裾がスカートから出てしまう。
お、お腹が見えてしまう!!
身長差のせいか、つま先立ちになる私に、さらに彼は続けた。
「何が目的だ?」
「へっ……?」
「こいつらを丸め込んで、一体何が目的なんだよ!?」
「ひぃっ……!」
「マツキタのルール利用して、トップになるだけがてめえの目的じゃねえだろ! ああ!?」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! 私、別にそんなつもりじゃ……!」
「ちょっと、落ち着いて泰司さん! 相手は仮にも女の……」
「うるせえ! トラは黙ってろ!!」
怒鳴るような声に、私は耐え切れず涙をぽろぽろと落とした。
「て、てめえ、女だから泣いたら許されるとか思ってんじゃねえだろうな!?」
「ちっ、違うんですう! 私はマツキタさんの頭になりたくて、なったんじゃありませんんっ!」
うわあん! と顔を押さえて泣き始める私に、目の前の泰司さんは「は、はあ?」と目を丸くして、一度戸惑ったあと、何かを払うように首を振って、
「いいや違う。てめえは計算通りにコトを運ばせて、マツキタの頭になるためだけにこの学校にやって来たんだろ!? 俺は騙されねえぞ!」
胸ぐらを掴む力がより一層強くなる。
泰司さんの大きな口から、牙……というかギラリと尖った八重歯が見えて、私は恐怖のあまりさらに真っ青になりながら泣き続けた。
「忘れたとは言わせねえ! てめえはあの時――……」




