32【伊吹side】
「す、スイ……」
「悪いなミク。予定よりちょっと遅れた」
「冬馬さんは?」
「一人で暴れまくったあと、飽きたっつって、先に帰った」
その人が来た途端に、明らかに周りの人たちの表情が変わった。
俺はそれを見回しながら、その人がただ者じゃないことを知る。
意識のない姉をその腕に抱きかかえて、悠然とした態度でこちらまで戻ってきた。
あんな状態の姉を、一瞬で気絶させるなんて……。
俺の近くまでやって来て、その人は俺のことを見る。黒髪の隙間から見えた瞳は、どこか珍しい色をしていた。
「小宵の弟、お前、名前は?」
品のある立ち姿は、どこからどう見てもこの場に不相応だ。
本当にこの人は、彼らと同類と呼べる人なのだろうか。
いや違う。
「……伊吹……」
この人、一人だけ、毛色が違いすぎる。どちらかと言えば。
「そう、伊吹」
俺たちが以前、身を投じていた場所にいた人たちに近い匂いがする。
「小宵を送る。家はどこになる」
「……いえ、そこまでしてもらわなくても。俺が連れて帰りますので」
「二人とも俺のいる寮なんだ。オサゲちゃんは俺が送るよ。ほら、貸して」
茶髪のあの人が、口を挟んでくる。
よく俺を挑発してくる、あの人の名前は確か、景虎とか言ってたっけ。
「いえ、いいです。俺が送るんで」
腕を取ろうとしたその人の手を振り払って、姉の肩に俺が触れる。
こんなにも華奢なのに、さっきまでどうやって暴れていたのだろうと思う。
「でも弟くん。オサゲちゃん持てるの? そんな細っこいのに」
「……馬鹿にしないでください」
いちいちうざいな、この茶髪。
「あれ、気にしてた?」
「姉くらい持てます。力はそこそこあるので」
「まあまあ。ほら、遠慮すんなって」
「触らなくていいですから」
ばしりとまた手を振り払って、俺はスイと呼ばれたその人を見た。
「姉を止めてくれて、ありがとうございました」
「気にしなくていい、大したことはしてない」
大したこと……なんだけど。
と、姉が先程まで暴れ狂っていた場所を見て、俺は「いえ、」と口を開いた。
「助かりました。それじゃあ」
「………本当に、持てるか」
「背負うくらい出来ますよ」
心配されながら渡された姉を、俺は後ろに抱える。
すやすやと眠る姉の熱を背中に感じながら、こんな風に姉を背負うのは何度目だろうかと思った。
よく気を失う人だから。
「トラ、ついててやれよ」
「スイに言われなくても、そのつもり」
「いや、ついて来ないでください」
「とか言われても弟くん。俺ん家はきみん家で、きみん家は俺ん家だし」
「誤解を招くような言い方をしないで下さい。場所が一緒なだけでしょ」
「まーまー」
適当なことを言って、勝手についてくる茶髪、否、景虎さん。
ちょっと……いや、大分うざい。
あの垂れ目の人……近衛のお兄さんも鬱陶しい感じがしたけど、俺はこの人の方が苦手かもしれないと思った。
「んじゃみんな。また明日ー」
手を振る景虎さん、の視線の先を追う。
そして、その場にいる人たちの表情を見ながら、思わず小さな溜息が零れた。
信じられないと言わんばかりの顔をしている、周囲の人たちの顔。
困惑、恐怖、驚愕。
あれだけ狂った姉を見て、表情を崩さない人は殆どいない。
それなのに――。
「またねートラ」
ヘラヘラと笑って手を振っている、近衛のお兄さん――龍蔵さんに。
その隣にいるミクと呼ばれていた人と、俺のこの隣を歩いている、景虎さん。
三人とも最初こそ困惑した顔をしていたけれど、どうしてこんなにもすぐに慣れたような、そんな平然とした顔になっているのだろう。
近衛ですらまだ、驚いた顔をしているのに。
そして、何よりも――。
「気をつけて帰れよ」
俺たちのことを、あんな目で見るあの黒髪の人が、一番、謎だ。
どうして、あんな慣れ親しんだ顔で見つめてくるのだろう。
俺は視界の端で彼らを見ていたことがバレないように前を向き直すと、すぐに歩を進めた。
「……うっ、きぼぢわるい……もうだべられないよぉ……」
人の気も知らず、背中でうなされている姉に「頼むから吐かないでよ……」と呟いてしまう。そんな俺に景虎さんはケラケラと笑って、「なんの夢見てんだろうね?」と姉の顔を覗き込んでいた。
「……さあ」
――ああ、姉は。
こんなところでも、とんでもない人たちに目をつけられてしまったんだ。
「ん? なに?」
隣を歩く景虎さんから目を逸らして、「いえ、別に」と前を向く。
この学校では極力目立たないように、平和に過ごすつもりだったのに。
姉のせいで計画が狂った。
肩の上に乗っかっていただけだった姉の腕が、不意に俺の首に回る。
「い、ぶき助けて……は、蜂がぁ……」
次から次へとおかしな夢を見ている姉に、思わず口元が綻んでしまう。
それを不覚にも見られてしまって、景虎さんが「弟くんって……」と口を開いた。
「もしかしてシスコン?」
「…………」
「え、マジ?」
「違います」
「あー……そっかー、そうなのかあ……」
「っ、だから、違うって言ってるじゃないですか!」
「いやもう、その慌てっぷりがねえ、肯定そのものって言うかねえ……」
「……いっぺん死んでください。うざいんで」
「え、なんでいきなり冷静!? っていうかいきなり口悪!」
もう何を言っても無駄だ。
慌ててしまって、俺らしくない。
図星をつかれたから慌てた訳じゃない。慣れないことを言われたから、少し取り乱しただけだ。
別に、笑ってしまったことを見られたから、慌てたわけじゃ……。
「いいんじゃない? シスコン」
「…………」
「俺にも妹いるし。かわいいよね、女の子の姉弟って」
「いや聞いてないんですけど」
「そんなこと言わずに聞いてよー」
「嫌です」
「聞いてって」
「嫌です」
「じゃあ、君がシスコンだってことを明日全校生徒前で言っちゃおうか……」
「お願いだから死んでください」
「だからなんでそんな冷静!?」
「お願いします」
「礼儀正しく頭を下げたってダメだから、俺は死なないから!」
ああ、うるさいなあ。
まともに相手にしていたら苛々しかしないので、何かと話かけてくるその人を無視していると、その内に寮に着いた。
そして、姉の部屋の前に辿り着いたとき。
俺は重大な事に気がついた。




