26
「大変っす! 三國さん! 龍蔵さん! 景虎さん!!」
ううっと悲しみに暮れていると、血相を変えて誰かが室内に入ってきた。
「あ? なんだ丸岡か。何かあったのか」
「あの、冬馬さんはっ、どこに!?」
振り返るミクさんが、ガタイの良い彼に向かって告げる。
「冬馬さんなら、そこに寝てるけど。どうかした?」
「龍蔵さん……そ、それが、ニシヨミのやつらが予定よりも早くこっちに向かってるらしいって、情報が入って……」
リュウくんとその男の人の後に、ミクさんが「なんだと、本当か!?」と声を張った。
「向こうは、直接ここに攻め入るつもりはないって言ってるんすけど、ただ翡翠さんと冬馬さん、あと泰司さんが、指定の場所に来ることが条件だとか言っていて…」
「なんでスイたちだけなんだ?」
トラくんが訊ねると、彼は首を振った。
「理由はわからなくて……とにかく翡翠さんから、冬馬さんを呼んで来いとだけ言われてて……」
「泰司さんは今日いないのに、どうするのー?」
ソファに座りながら訊ねるリュウくんに、彼は困ったような顔をして。
「そ、それもなんとかするって、翡翠さんが……」
「なんとかって……チッ、俺も行く」
「いや、でも呼んでるのは冬馬さんだけだって、他のやつらは連れて来るなって言われてて」
「ふざけんじゃねえ、なんでだよ!」
「ミク、落ち着けって」
トラくんがミクさんの肩を叩いて、「スイの言ってたことを思い出せ」と付け足した。
「新島は、スイと冬馬さんがいない間にここに攻め入るって言ってたろ」
「……まあ、言ってはいたな」
「だったらここは、スイたちに〝ワザと〟アイツらの罠に引っかかってもらって、マツキタの勢力が減ったと思わせるんだ。そうすれば、新島たちが何も知らずにここを攻めてくる。生憎、俺達がいるからそう簡単には攻めらんねえけどな」
「……だけどトラ、スイの予想が外れたらどうすんだよ?」
「外れたとして、スイや冬馬さんらが、新島に負けるわけねえって」
「…………」
「それにこっちに攻めてきたって、人数はこっちだって多いんだ。新島如き、俺らだけでも多分平気だろ?」
にっと笑うトラくんに、ミクさんは舌打ちをして「まあな」と相槌を打つ。冷静さを取り戻した彼に、トラくんは「それに今はさ」と少し真剣な口調で続けた。
「冬馬さんを起こすことだけ考えよう」
静かに放ったトラくんの言葉に、ぴたりと室内の空気が止まった気がした。
「……ああ、そうだな」
そして、先ほどとは打って変わって、やけにテンションの低い声でミクさんが呟く。その顔に落ちた影が、どういった意味を示しているのか全くわからない。
首を傾げていると、トラくんが「それでー……」と探るように周囲を見回した。
「……誰が起こす?」
「丸岡が起こせよ」
「えっ? 無茶言わないでくださいよ三國さん! ぜ、絶対無理っす!」
「無理じゃねえだろ。何とかしろ!」
「で、でもっ、ミクさんもこの間一緒に見たじゃないっすか! 他のやつの前歯が、折られたの!」
「え!? 冬馬さん、また折ったの?」
「そうなんっすよ龍蔵さん! そいつが次の日差し歯にした時はまじで見ていられなくて……」
くうっ! と、目頭を押さえながら、大きな図体を丸めている丸岡さん。涙を堪えている彼に私は心の中で引いていた。
と、冬馬さんって……寝起きもそんなに危ない人なの?
「大丈夫だって、さすがに今回は歯は折られないだろ」
「そんな言うなら、三國さんが起こしてくださいよ!」
「はあ? なんで俺が……トラ行けよ? な?」
「ふざけんな。頼まれたの、ミクだろ」
「っ、じゃあリュウ行けよ! お前、冬馬さんと仲良いし、絶対殴られねえって」
「やだね、パス。俺、前歯なくなるとか死んでもやだ。そんなの、女の子が一気に離れていっちゃうじゃん。そう考えたら、俺は命よりも前歯が大事」
「命、軽すぎんだろ。前歯野郎が」
ミクさんは「あ゛ーっ」と頭を掻くと、はっとしたように私に目を向けた。そして目が合った瞬間、そのアーモンドのような形をした猫目が、口元が、ニヤリと歪んだ気がした。
い、嫌な予感がする……。
「……オサゲ」
「な、なんですか……」
「特訓はまだ途中だったよな?」
「え……」
「なら、今すぐ冬馬さんを起こせ」
地獄のような指示が飛んできた。
「し、死ねって言ってるんですか……!?」
「はあ? 何、冬馬さんに失礼なこと言ってんだ。死ぬわけねえだろ、ただ歯が二、三本なくなるだけだ!」
ただ歯がなくなるだけとか平気で言わないでほしい。
「ほら、行け」
「い、嫌です……」
「行けって!」
「嫌です……っ」
「行けって! おい……」
「……っい、やです!」
「てめえ」
肩を掴まれても、断固として首を縦に振らない私に、こめかみをぴくりと動かすミクさん。
ああ、もしかしたら私はこの人に歯を折られてしまうかもしれない。
「……じゃあ、こうしてやる。冬馬さんを無事起こせたら、これでトップの訓練は無事終了とする。これからは教室で授業受けるなりなんなり、好きにしても構わない」
えっ……。
「ほっ、本当ですか……?」
「ああ、本当だ」
しっかり頷くミクさん。やけに甘い提案をする。
そ、それなら……。
「で、でも、やっぱり歯がなくなるのは……っ」
「必ずなくなるわけじゃねえ。その辺は……運だ、運!」
そんな不確かなものに、大事な歯を預けてもいいものなのだろうか。
「でもお前は、あの泰司さんを倒した馬鹿力があるんだから、どうにでもなるだろ」
「そ、っそそんな無理です! あれはだって、本当にまぐれというか、たまたまというか……っ!」
「まぐれでもまぐろでもいいから、もう一度起こせ! お前なら出来る、ほら!」
ミクさんは限りなく無茶なことを言って私の腕を引っ張ると、冬馬さんの方へとぐいぐいと押した。
その一連の様子を傍から見ていた、トラくんは「酷い男だな、ミクってやつは」と首を振った。
「あれは結婚出来ないタイプだ」
「三國さんって、自分のやりたくないこと女にやらせるんすね」
「まあ、オサゲちゃんも俺たちのトップなんだから、命令すれば良いのにね。〝ミクが冬馬さんを起こせ!〟とかさぁ? トップの命令は絶対なのに」
引き気味の丸岡さんの後、リュウくんがヘラヘラとそう続けた。
そんな彼らの会話なんて耳にも届かず、私は、ソファで横になりながらスースー寝息を立てている冬馬さんを、恐る恐る見下ろしていた。
気持ちよさそうに瞼を閉じて、胸元にはタブレットが置いてある。
ごくり、と唾を飲む。こんなにもぐっすり眠っている人を起こして来いだなんて、ミクさんはとんだ鬼畜な人だと思った。
振り返れば、ミクさんが早く起こせ、とばかりに顎先をくいっと上げている。
これでは引き返せない、と、今一度、冬馬さんと向き合う私は震える唇を必死に開いて「と、冬馬さん……?」と呼びかけた。
ぴくりともしない冬馬さんに、引き続き「冬馬さん?」と至極小さな声で呼びかける。
「冬馬さん、あの、起きて、いただけますかっ」
「…………」
「冬馬さん、起きて……」
「んな小さな声で起きるかボケ」
「起きてくだ……わぁ!?」
後ろから思いっきりミクさんに押されて、私はすやすやと眠っている冬馬さんに頭から突っ込んだ。
さあっと血の気が引く。遠くで見ていたリュウくんたちは唖然としていて、思ったよりも私が勢いよく冬馬さんに倒れ込んだから、ミクさんに至っては「やべっ……」と小さく言っていた。
やべっ……、じゃないんですが。
真っ青になったまま固まっていると、「ん゛ー……」と不機嫌そうな声が頭上から降ってきて、私は嗚呼、神様! と目に涙を浮かべていた。
ごとりっ、と。私が飛び込んでしまったせいで、冬馬さんの手元からタブレットが床に落ちてしまう。
もぞ、っと冬馬さんが動きながら、長い睫毛を動かし、薄目を開いた。
瞬間、息が止まる。怖いほど整った綺麗なお顔が近くにありすぎて、しかも表情がないものだから、正直、死ぬほど怖かった。
ああ、折られる、前歯が折られてしまう!
涙が落ちそうになった瞬間、冬馬さんは私の頭の後ろに手のひらを回した。
そのまま髪を掴まれて、引き剥がされるかと思えば。
「ごめんなさい、冬馬さん、わざとじゃ……っ、ぶっ!」
彼はそのまま私の頭を引き寄せて胸元に抱えると、私の身体を足の間に挟み込んできた。ぎゅーっと、半端のない力で抱き締められて、息が出来なくなる。
「!?」
く、苦しい! と思った次の瞬間、背中に手が回り「ひえ」と声が零れそうになる。
すると、一部始終を見ていたトラくんが、「え、何……?」と戸惑ったような声を上げていた。
「ちょ、何してんの、これ?」
近づいてきたリュウくんが、私たちの一番近くにいたミクさんに声をかける。
「もしかして、抱き、まくら?」
「……まあ」
「もしかしてもしかしなくとも抱き枕にされてる?」
「抱きしめてるしな」
「…………」
「…………」
「……プッ!」
リュウくんはぷぷー! と頬を膨らませると、盛大に笑い始めた。この人、本当に人の不幸が好きなんだと思う。
「あはは、うける!」
「なんもうけねえよ。歯、折られたほうが楽しそうだったのに」
「何言ってんのミク! これも十分面白いって。今度から冬馬さん起こす時は、抱き枕にならないようにすんのも気を付けないと」
息が出来ずにもがいている私のすぐ近くで、馬鹿笑いするリュウくん。
笑っていないで、助けてほしい。
このままだと、いっ、息が……!
細く見えるのに、冬馬さんが本当に力が強いせいで、このまま絞め殺されるんじゃないかと錯覚さえ覚える。
ああ、意識が……! と思ったところで、ふっ、と冬馬さんの力が弱まって、私はぷはっとようやく息をした。
や、やっと地獄から抜け出せた……と安心しかけたところで。
「おい、オサゲ」
と、冬馬さんが眠っているソファの背もたれ側にやって来たミクさんが、頬杖をつきながら、こちらを見下ろした。
「お前、冬馬さん起こせなかったから、これからもトップ訓練続行な」
悪魔のような人だと思った。
冬馬さんの腕の中で、そ、そんな……と、真っ青になりつつ項垂れてしまう。
本当の地獄からは、まだまだ抜け出せていないようだった。




