09 偽名やめるってよ
「よし、気分はどうだね?」
セクメトが背中にかざしていた手を下ろす。
「助かりました、司祭」
トリスがゆっくりと頷いた。先ほどまでは土色だった顔に、血色が戻る。
『譲渡』だ。
戦神の司祭であるセクメトが使っており、『譲渡』という名前が付いているが白魔術ではない。
また技術というよりは修行の方法名というべきだろうか。すべての魔術師が使え、誰もが魔術師としての修行中の初期に会得する。自分の魔力を他人に渡すという技術で、魔力操作の基礎みたいなものだ。
魔力を魔力として譲り渡すので、一見すると一度魔素に変換される魔晶石より優れているように思える。しかし 『譲渡』の魔力伝導率はかなり悪い。熟達者であっても譲った魔力の二割を吸収することができればいいほうだ。なので修行以外で使われるのは今のように、魔力切れを起こした場合にそれを治療する時くらいである。
「よし」
トリスの顔色が良くなったのを見て、セドリックが寝かされていた彼女を抱き抱える。いわゆるお姫様だっこというやつだ。
「人使いが荒いですね」
トリスが文句を言ったが、もちろん冗談だ。そしてセドリックが彼女を運んでいるのは休ませるためではない。
セドリックはトリスを黒い箱の前に連れて行った。護送馬車である。
馬車の荷台に載せられている黒い箱の前ではキャップが魔法錠を灯りで照らしながら鍵穴を弄っていた。
馬車とともに流れた一行は、だいぶ川下の浅瀬まで下っている。
流された距離を考えると、王国軍の追手がくるまではまだまだ掛かりそうだが、しかしこの馬車の魔法錠を解錠しなければならないことを考えるとかなりギリギリだろう。
「悪いけど、あともう少し頼むよ。本陣まで戻れたらご褒美に抱いてやるから」
「最低の冗談ですね」
トリスはセドリックから降りると、キャップの側に寄って同じように鍵を覗きこむ。
それに気がついたキャップが、場所を譲ってくれた。
「トリスもう大丈夫なのか?」
「ええ、司祭のおかげで大分楽になりました。鍵の方はどうですか」
「ああ、後は合言葉の呪詞だけだな」
「さすが、シクロップですね」
トリスの言葉どおり、キャップはシクロップ家という鍛冶を生業とする家の現当主である。
シクロップ家は始皇帝の神器を奉納した由緒正しき家柄だが、三代皇帝の時代に没落してからはもう長いこと皇帝の神器鍛冶に選ばれていない。しかし、鍛冶師としての腕が確かなのは、この短時間で錠を解いてしまったことからも分かる。
ちなみにキャップというのはあだ名で、本名は別にあるらしいが、トリスは知らない。
「あとな」
「はい?」
「さっき、セドリックが言っていた『抱いてやる』発言だけど、意外と本気で手が早いから嫌ならちゃんと拒否れよ」
「尚更最低ですね」
キャップに答えながらトリスは魔法錠に両手をかざした。呪詞を唱えるとその手の間に四角い立体像の発光体が姿を表わす。
「皇子に最低とは不敬な奴だな。それに同衾すればもっと打ち解けられるだろ?」
「ふむ、英雄色を好むとはよく言うね」
セクメトが真面目に頷いたので、トリスはウンザリした。
「私は仕事が終わればすぐに帝都に帰ります。それより身分を口にしていいんですか」
手の中の立体像からチカチカと光が瞬き始める。
よし。正常に動き出した。
トリスは軽口を叩きながらも、意識は目の前の魔法錠に集中していた。
今使っているのは、魔法錠を開けるための合言葉を探し当てるための魔術である。魔力消費量は極々小さいので、今のトリスでも負担はない。しかも魔術暗号を破るのは宮廷の戦略情報政策官でもあるトリスの得意分野だ。
今使っている魔法もトリスのオリジナル魔術である。
トリスは森のなかではセドリックに魔法解錠には半時(一時間)はかかると言ったが、それはあくまで敵の砦に侵入して行う場合のことで、今のように落ち着いてやれれば、更に早く解読出来るだろう。
「あ、そうそう。もう俺のことはセドリック・アルベルトじゃなくて、ジュリアス皇子でいいから」
「え? なんでですか?」
「うん。もう後は本陣まで戻るだけだし、相手にもバレちゃったしね」
「ばれたんですか!?」
トリスが声を上げて、振り向いたが、ジュリアス皇子は軽く頷いて、魔法錠を指さして作業に戻るように促す。
「なんでばれたんですか?」
トリスは顔を魔法錠の方に戻してから尋ねた。
「うーん。キルボの目の前で雷属性の魔法を使ったからね。バレてるでしょ」
「それは……バレてるでしょうね」
トリスも頷いた。
黒魔術には属性による分類方法がある。
その中でも一般的なのは、炎、風、水、土などだ。このあたりの属性では習得の難易度はほとんど変わらないし、消費魔力も大差はない。それに炎の魔法を使う黒魔術師が、水の黒魔術を習得していることも珍しくはない。それどころか黒魔法と白魔法の両方を修得することも不可能ではない。
様々な魔法があるが、攻撃において使われる魔術で一番多いのが、炎の属性魔術である。
理由は簡単で、炎の属性魔術が一番簡単に殺傷能力の高い魔術を操ることができるからだ。
例えば、風属性の魔法で攻撃するにしても、突風ではどんなに強くても人を殺すことはできない。その場合刃物の様に鋭い風を成形する必要があるが、これには相当の技術が必要だ。
逆に炎は具現化するだけでよい。後はそれを魔術の基礎である誘導操作で相手にぶつけるだけである。どんなに拙い魔術師であっても、具現化された炎は炎だ。火をつけられて平気な人間などいまい。爆発の効果を与えるにはそれなりの技術が必要だが、とにかく炎属性は初歩魔術であっても威力があるのだ。
ジュリアス皇子があの橋の上で使った雷帝剣はその名の通り雷属性の魔術である。
雷の魔法は人体の内部から『焼く』ことが可能で、その威力は炎属性を超えるものだ。
しかし炎、風、水、土などと比べると、雷属性や氷属性などは難易度が格段にあがる。
特に雷属性は有効な規模で具現化することとそれを制御操作する技術が超難度の魔術だ。
ジュリアス皇子は恐らく現在の帝国国内で唯一の太陽神の『恩恵』持ちである。
『恩恵』は神や魔神、精霊王など超常の存在から愛された証。魔術は属性による取得の制限などは理論上存在しないが、取得にはそれなりの努力と才能が必要だ。
だが、『恩恵』を持っている者は常人ではありえぬほど容易くその『恩恵』に関わる属性の魔術を修得することができると言われている。
生粋の黒魔術師でもないジュリアス皇子が高難度の雷属性の魔術を使えるのも『恩恵』持ちであるためだ。
そういう取得難易度の壁に加えて、あの権天事件以来、帝国で雷の魔術を使える者はほとんどいなくなった。
雷はあの太陽神の象徴だ。太陽神は雷によって罰したという伝説がある。そして帝国の建国時、太陽神の『恩恵』を持っていた始皇帝の愛用の剣はキャップの先祖であるシクロップ家が打った雷帝剣という銘の宝剣だった。ジュリアスの技の由来もそこからとった。
その太陽神の象徴である数少ない雷属性の使い手は、内乱以後は大地母神の異端審問官の集団、『黒月』によって殺されるか、王国に亡命することとなった。
トリスが知っている帝国内の雷魔術の使い手は、今の筆頭宮廷魔術師と、先代の筆頭宮廷魔術師であるマーリン大師、それにジュリアス皇子の三人だけ。
現筆頭宮廷魔術師とマーリン大師は、雷属性『も』使えると言ったほうが正しい。
いくら大地母神教団といえど、筆頭宮廷魔術師を邪神の使いなどという容疑で殺すことはできまい。
ジュリアス皇子とその参謀であるマーリン大師の方だが、こちらには黒月の暗殺者が送られてきた。当時東方軍にいたジュリアス皇子達は黒月の暗殺者を返り討ちにして、その首を宮廷に送りつけたのである。
大地母神教団の信者による帝族暗殺未遂事件。
内乱の原因である権天事件の事もあったので、当時は大事件となったからトリスも知っている。結局一部の先走りによる犯行として、玉虫色の解決をみたが、それ以降は大地母神教団もジュリアス皇子に手を出せなくなった。だが、彼らにとってジュリアス皇子が太陽神に愛された存在であることは間違いない。
東方戦線で活躍したジュリアス皇子だが、将軍としての知名度は高い。西方の王国であろうとも、太陽神の『恩恵』持ちであるジュリアス皇子の話は届いているだろう。
今回の討伐軍の総大将がジュリアス皇子であることも知っているだろうし、そこに雷属性の魔術を使う者が現れれば、その二つを結びつけることは容易に想像がつく。
「そうなると、追手は何がなんでも私達を逃がすまいとするでしょうね」
「そういうこと」
「これも、あるしね」
ジュリアス皇子は頷いて、黒い護送馬車をコンコンと叩いた。