07 夜襲
夜の街道を篝火に照らされて進む軍の一行が見える。
王国の兵。歩兵が中心で百近いだろうか。
山の斜面からその隊列を見下ろす人影があった。それは王国警備兵が持つ篝火からは届かぬ崖の上に悠然と佇み、腰に手を当てて、まるで夜景を眺めているかのようだった。
護送隊が砦を出発して1時間もたたない。場所は隊列の先頭が運河を渡るための橋にさしかかったところだった。木々が切れ、見晴らしがいい。
隊列が停止する。先頭を行く兵士が隊列を離れ、橋を渡り対岸の安全を確認、警戒に当たる。更に隊列から数人が向い、今度は橋桁に異常がないかを調べる。
そこまでしてようやく、再び隊列は動き出した。
橋板の下、水面からゆっくりと頭が浮かぶ。
セドリック、キャップ、トールキン、セクメト、トリスの五人。
「し、死にそうです」
水温のあまりの冷たさにトリスはガチガチと歯を鳴らしている。
五人は『水中呼吸』の魔術で潜水し、橋桁を調べていた兵の目を逃れたのだ。
だが、いくら魔術で息はできても、夜間水泳をするには早過ぎる季節である。
「あと少しだ我慢しろ」
セドリックはトリスの方へ人差し指を立てて黙らせると、自分は上の橋板を見上げる。
暗闇でよくは見えないが、その中でも仄かに赤く光っている物が見えた。
さらにその赤く光っている宝石のようなものは、橋板に四角く切り込みを入れられた間に等間隔で数個埋め込まれている。
セドリックはトリスの方へ指さしていた人差し指を、ゆっくりと他の面々へ向けていく。
それを合図に全員が水面を泳いだ。広い川幅でそれなりに流れがあるために少しの距離とはいえ、音がしたが、すでに橋上では数十人の兵士たちが歩いているから、完全に紛れている。
崖が見えるセドリックの側にはトリスが、反対側の川下にはキャップとトールキンが移動する。セクメトは一人離れ、セドリック側、川上のさらに反対岸へ動いた。
「トリス、大丈夫か?」
セドリックがトリスの体を腰で抱きかかえると耳元でそっと呟く。冷えた耳元にセドリックの温かい息がかかった。すぐ側にセドリックの美しい顔が迫る。
「え、ええ大丈夫です」
セドリックがあくまで任務遂行のために訊いてきているのがわかっていたので、トリスは内心の動揺を隠して答えた。
トリスは今晩だけで、『望遠』、五人分の『水中呼吸』、更には泳げないドワーフのトールキンには『浮遊』をかけた。
どれも本来ならそれほど難易度の高い魔術でもないし、魔力消費量はたかがしれている。
しかし『望遠』は試作段階でまだ魔力消費量の無駄が多い魔術だったし、『水中呼吸』も五人となるとかなりの負担になった。
『浮遊』をトールキンに使ったのはドワーフ族が泳げないということを除外しても、その装備品の重量で泳ぐことが不可能だったので仕方がないが。
本来なら、トリスも泳げないので『浮遊』をかけたい。しかしそうなるとこの後に必要な魔力が無くなりそうだったので、彼女は体にロープを括りつけて水中の橋桁に結びつけていた。
そんなわけで、トリスの息が荒いのも、泳いでいるせいというより、魔力の消耗によるものであることも大きい。
セドリックがもう一本ロープを取り出すと、それを橋板の下に撃ちこんであった金具に通した。ロープの一方は彼の体に結びつけてある。そして金具に通したロープの反対側をトールキンに投げた。それをトールキンが上手く受け取ったのを見てから、今度はキャップが自分の体に結んであったロープを同じように金具に通して、それを側にいるトールキンに手渡す。
二本のロープの端を受け取ったトールキンがゆっくりと二人の中間地点へ移動した。つまり橋の真ん中である。
セドリックは、全員が位置についたのを見て崖の方を振り返って手を降る。
崖の上には小さな人影。エルフのガヴリエルの姿があった。セドリックからは彼女の反応は見えないが、ドワーフほどではないにしろ、暗視能力に長け、視力は抜群に良い種族であるエルフのガヴリエルならこちらの細かな動きまで捉えているだろう。
キャップ、それに真ん中にいるトールキンもそのセドリックの合図に身構え、トリスはセドリックから離れると橋桁の一つに取り付き、流されないようにしっかりと抱え込む。一同は視線をセクメトへ向ける。セクメトは橋桁に掴まったまま、片腕を上げて、耳を澄ませていた。
ガラガラと車輪の音が大きくなる。
セクメトが手を振り下ろした。
セドリックとキャップが金具に通したロープをしっかりと握りこむ。
トリスは緊張と集中から深呼吸を繰り返していた。
ポッと崖の上に小さな明かりが灯る。
ガヴリエルが矢に火をつけたのだ。すぐに弓につがえ引き絞る。
だが、まだ放たない。
黒い馬車が、絶好の位置に来るまでじっと待つ。急がなければ王国の兵に炎の灯りを発見されるだろう。しかし、ガブリエルは静かに篝火に囲まれて進む黒い馬車を見つめていた。いつもの浮ついた顔つきではなく、冷静で何の感情も映していない。
橋の下では、ジッと耳を澄ませていたセクメトが白魔術の『祝詞』の詠唱を開始した。
「風の精霊、この矢を届けて頂戴」
ガヴリエルはエルフにしか見えない異界の存在に語りかけると、そっと、や、ゆっくりと、形容するような柔らかな動作で弓を放った。
放物線を描いて、火矢が橋の方へと飛んで行く。
しかし、兵達はそれに気がついていなかった。それよりも先に、セクメトの白魔術が完成していたからだ。
セクメトがその手に産んだ光の球を空に向かって放つ。光の球は橋板を超え、さらに橋上を行軍する兵士たちの頭上まで上がっていった。
「なんだ?」
兵士たちは飛来してくる火矢ではなく、ゆっくりと水面から上がってきたらしい光の球の方を見上げていた。護送馬車から一部隊ほど挟んで箱馬車と共に進んでいたキルボでさえもあまりに突然現れた光の珠を見つめ、とっさに反応ができなかった。
「トリス!」
セドリックが隣の赤毛の魔術師に合図を出す。
トリスはその声に反応して片腕を橋下の中央に位置するトールキンに伸ばした。そしてこのドワーフにかかっている二つの魔術のうち『浮遊』だけを解除する。
全身金属鎧に斧槍を背負ったトールキンの体は、魔術による浮力を失い、その超重量のために一気に水中に沈んだ。トールキンが持っていた二本のロープも同時に水中に引きずり込まれる。
ロープの反対側であるセドリックとキャップに結び付けられたそれは、打ち込まれた金具によって釣瓶の役割を果たし、一気に二人の体を宙に持ち上げる。
体を橋板まで浮かび上がらせたセドリックとキャップが橋に手をかけた。
「セクメト!」
体を橋の上に持ち上げながら、セドリックは盲目の司祭の名を呼んだ。
セクメトが『祝詞』をつむぐと、戦神の白魔術『霊破』が発現する。この魔術はどの教団でも教えている初歩の白魔術だ。各教団で呼び名や細部は違っているが、大体が強烈な聖なる光で邪悪な霊的存在を払う。
だから、生身の、通常状態の人間には何の害も益もない。
が、強烈な光を視認するのは、霊であろうが、人間であろうが変わりはなかった。
「ぐああぁ!!」
光の球を見上げていた王国兵たちはまともにその閃光を見つめており、一様に視界を失い、悲鳴を上げている。
下を向いていたセドリックとキャップは体を引き上げると、素早くロープを切り離し、そのまま護送馬車の御者台に突っ込んだ。
火矢が橋板に刺さる。
破裂音が起こって、木製の板に燃え広がった。
「ぐっ。なんだ!」
キルボも同様に光に目が眩んでいたが、少し距離があったので視界が効かなかったのは一瞬だった。だがら護送車での異常にすぐに目を向ける事ができた。
油が撒かれていたに違いない、炎はその油の線に従って燃え上がっていく。
目の間で燃え上がる。つまりそれは自身の馬と、並走していた箱馬車を牽いていた二頭の馬車馬のすぐ近くで火が上がったということだ。
不味い!
キルボは直感的に判断した。
炎は護送馬車の周りを囲むように燃え上がっていっている。
だが、いくら木製の橋であろうと、この程度の炎で焼け落ちたりはしない。油が切れればすぐに鎮火するだろう。兵達にも面ではなく線で燃え上がっているから被害はほとんどないはずである。
だが、馬は違う。
ここで、セドリックとキルボのとった行動の違いにそれが物語られている。
セドリックとキャップの二人はすぐさま馬車に取り付く。彼らが御者台の兵士二人を斃し、そこに上がりこむと、キャップが馬車と馬をつなぐ連結器をあっという間に外してしまった。
自由を得た馬が狭い橋の上で暴れだす。
逆にキルボはすぐさま自分の騎馬から降りた。
普通は軍馬には大人しい馬が好まれる。なぜなら気性の荒い馬は戦場での制御が難しいからだ。だが、いくら賢い馬であっても、元来臆病な動物である。この動物は軍用に訓練されたとしても、恐慌する時があるのは避けられなかった。
そこで近年開発されたのが異種交配馬という品種である。
異種、ほとんどの場合が魔獣との掛け合わせで生まれた馬である。
この馬はかけ合わした種の特性の一部を引き継いでいる。
頑丈であったり、持久力があったり、速度に優れていたり。
キルボの場合は、人食い大蜥蜴と掛けあわせたものだ。
その特徴は頑丈さであり、愚鈍さであることだ。
反射が鈍く、平地での最大速度が劣るため、突撃騎兵馬には向かないが、ここのような山間部では安定した動きをしてくれる。特に斜面では下手な軽歩兵よりも素早く動くことができる。そして頭が鈍いが故に少々のことで恐慌をきたすこともない。
おまけに蜥蜴種の魔獣の特性である硬い鱗を持っている。
だから、この程度の炎ではまったく動じることはない。
キルボが降りたのは、護送馬車まで行くには、乗馬したままでは無理だと思ったからだ。
隣の馬車馬は見るまでもなく炎によって暴れだしている。
この二頭も、護送車の馬二頭も異種交配馬ではない。異種交配馬は確かに優れているが、新しい技術だからかどうかは知らないが、掛けあわせても安定せずに死んでしまうことが多い貴重な品種で、その数は多くない。
「馬を抑えろ! できなければ殺せ!」
それだけを兵士に叫び、キルボはまだ燃えている炎の向こうに飛び込んだ。
馬がこの狭い橋の上で、しかも密集している中で暴れだしたために兵士たちは大混乱になっている。下手をすれば箱馬車が橋から落ちてしまうかもしれない。
だが、それでも今は護送馬車の方が重要であると思った。
「セドリック! 固定できた!」
馬車の側で大男が叫んでいた。見覚えがある。なにせ先ほどまで砦にいたのだから。あの盲目の信徒の護衛をしていた傭兵だ。
セドリックと呼ばれた男の方は、まだ若い。しかし凄まじい剣の使い手だった。
黒い刀身の、一見して魔法金属だとわかる長剣を振るっているが、兵士たちがまるで葦を刈るように切り伏せられていく。それが持っている剣のせいだけでないのは遠目からでもわかる。護送馬車の側にいたはずの神殿騎士の姿も見えないから、すでにやられたのだろう。
二人が、御者台に消えた。
「トリス! 今だ!」
おそらく、あの若い男の声が聞こえた。