76.5 after-end-scene 三百年後の星
星を見上げる瞳があった。
その瞳にも星のような輝きがあった。
蒼の瞳に、恒星のような白い光。
光は十字架の形をしていた。
明らかに意図的な形の十字架だ。生命の偶然とは言えないほどの整合性。
その十字に光る瞳を、星空に向けていた。
夕闇を終え、夜が始まる。
白と紺の混ざった空に、星々が眠りから覚め始めていた。
「ギニーお姉さん」
呼ばれて瞳を閉じる。
振り返って、再び瞳を開いた時には、そこに十字架の光は消えていた。
ウェーブのかかった絹糸の束のような艶やかな金の長髪。
女性らしい柔らかでほっそりとした曲線と輪郭を描く長身。
潤んだ大きな瞳は星蒼玉の青さと光。
メイドの服装でなければ由緒正しき貴族の細君とも見える二十代半ばの女性。
「どうかしましたか?」
ギニーと呼ばれた彼女は、自身を見上げる六歳の少年に微笑んだ。
どれくらい星空を眺めていたのかは分からないが、少年が不審に思うほどには時間を忘れていたらしい。
「ちょっと、昔を思い出していたの」
と答えた。
少年が「昔ですか……」と呟く。
『妙齢』の女性に対して失礼なことを考えているなとわかったので、彼女は少年のほっぺをつねってやろうかと思ったが、止めた。
少年の顔はすでに腫れ上がっていたからだ。
それは少年の何より大切な存在から受けたものだった。
それが顔の傷よりも大きなものを、彼の心に与えていたことが分かっていたので、彼女はつねるのを止めた。
かわりに、そっとその白い髪の頭を撫でる。
「そう、昔のことをちょっと」
この灰魔術師としての才能を持つ少年は、それに相応しいだけの『目』を持っている。
その全ての魔力を見通す『目』であれば、彼女が何者なのかも分かっているだろう。社会的な経歴ではなく、メイドのなりでもなく、『南瓜の魔女』と呼ばれるその本質を。
けれどそれも彼女の一面でしかない。
そして他者もそうであることも。そして人は自分以外の他人をそうは見ないことも分かっていた。
けれど、もし他人の多面性に心を添わせられる人間が現れたならば、満たされたならば。
この狭量で、不寛容で、愚かしくも愛おしい世界が、よりよくなるのかもしれない。
そのために声を枯らすように、心を駆られていた時代を、ほんの少し思い出していたのだ。
思い出してしまったのは、少年とあの公爵令嬢の関係を見てしまったからかもしれない。
そう思って少年の短い、白い髪を撫でた。
少年は溜息を漏らす。
この老成な少年の癖とでもいう仕草だ。
「あらあら、溜息を漏らすと幸せが逃げるわよ?」
彼女の言葉に、
「じゃあ、今の僕にはぴったりですね」
と返してきた。
大切な存在との訣別。自身の未来の告白。
その重荷から幾分かは立ち直ってきたらしいことが、その軽口からわかった。
だから彼女はクスクスと笑った。
「あーあー、これからどうしましょうか」
とぼやいた少年に、彼女は微笑みを絶やさない。
大丈夫。
彼女は心のなかで呟いた。
それは何の根拠もない、しかし確信だった。いや誇りや矜持に近いものだった。
「そうね、まずは」
「まずは?」
じっと見つめてくる少年の赤い瞳。
自分とは真逆とも言える髪と瞳を持つ少年。
そして自分とそっくりの非凡なる平凡。
存在のみが理の外にあり、ありふれた心を持つ少年に、彼女は手を差し出した。
「まずは手をつなぎましょう」
彼女の答えに、呆れながらも握り返す少年の手を優しく包む。
そして、ほんの少しだけ、彼女は後ろを振り返る。
そこには夜の帳が覆い隠した、ここまで歩いてきた道があった。
そして彼女は前を向く。
そこにあるのは二人が歩く家路だ。
「それで次は?」
少年の言葉に、やっぱり彼女は微笑んだ。
二人は歩き出す。
そして彼女は歌を口ずさんだ。
古くて優しい歌を。
星あかりの下で。