中編
「ああ……忘れられない」
俺は部屋で一人、うめいていた。
何がそんなに忘れられないかといえば、無論、あの美貌――実際顔は見えなかったが口元だけでわかった――の魔女のことである。
俺の腕を振り切り、逃げて行った彼女。一体何が目的だったのか、俺の心に傷だけを残して去って行ってしまった。
しかしもう俺は彼女という存在を知ってしまった以上、別の女では満足ができなかった。彼女が欲しい。彼女が欲しくてたまらない……。
仮装祭から丸一日が立っていたが胸の熱が一向に冷めないであろうことを悟った俺は、早速、騎士団に彼女の身元を特定しろと命令しに行った。
だが、
「正体不明の女にうつつを抜かすなど言語道断。ラドン殿下にはマジリナ様という歴とした婚約者がいるではありませんか」
と言われ、いくら言っても動いてはくれなかった。
イライラしながら俺は、必死に頭を悩ませた。そして出た結論がこれだ。
もしかするとマジリナなら何か知っているかも知れない。
実は彼女、俺には不敬極まりない態度だが、他の令息令嬢とは仲良くやっているらしいと聞いたことがある。
人脈さえあれば情報の一つや二つは持っているだろう。魔女の正体を知っている可能性は充分に考えられた。
あの女と顔を合わせるかと思うと嫌な気分になったが、あの魔女の正体を知り、再会するためなら少しくらい我慢しよう。そう決めて俺は、マジリナに急遽登城を命じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日のマジリナは、やたらに落ち着きがなかった。
いつもは綺麗に結われているはずの銀髪が乱れ、視線もキョロキョロとしていて定まらない。俺に会うなり「ひっ」と悲鳴まで上げる始末だった。
おそらくあの仮装パーティーの夜に他の男とつるんでいたのが見られ、そのことについて俺が問おうとしているとでも思っているのだろう。だが安心しろ。お前の浮気などに興味はない。
「マジリナ、一つ、話がある」
「は、はいっ!?」
「全身黒いローブの女性を仮装パーティーで見ただろう。彼女が誰なのか、君は知らないか」
「――っ!」
俺が問うた瞬間、マジリナは赤い瞳をカッと見開いた。
そんなに俺の質問が予想外だっただろうか。でもこの反応を見る限り、どうやら何か知っているようだ。
「……し、知らないです」
「嘘だろう。じゃあなぜ驚いた」
「……」
「答えろ」
マジリナは唇をワナワナと震わせ、黙り込んでいる。
俺はその反応に苛立った。この質問にだけは答えてもらわないと困る。
「俺のことがそんなに嫌いだったら、なおさらちゃんと答えてくれ。俺はその女性と本物の恋に落ちた。彼女が見つかり次第まもなく君との婚約を破棄しようと思っている」
「そ、れは」
「言っておくが俺の意志は固いぞ。君だって俺との婚約が破棄できるのだから嬉しいだろう?」
もし仮に――そんなことはないと思うが――マジリナが嫌だと言っても、俺は諦めないつもりだ。
あの軽やかな足捌き、不敵な微笑み、俺への視線。何もかもが最高だった。俺はもう彼女なしでは生きていけない。
俺は今すごく仮装祭という変な風習に感謝している。あれがなければ俺と彼女が出会うことはなかっただろう。一生マジリナとつまらない人生を生きることになるかも知れなかっただなんて、考えただけでゾッとする――。
「そ、その話には……矛盾が、あります」
マジリナが初めてまともに口を利いた。なんだ、この女も言葉が使えたのか。
と、そんなことはどうでもいい。
「矛盾? 何を言っているんだ?」
「で、ですからっ。その、魔女の正体は……私、なんです」
――俺は絶句した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「嘘……だろう」
昨晩の仮装パーティーを思い出す。
仮装をして踊り狂う参加者たち。その中でたった一人存在を主張していた、あの不思議な魔女のことを。
あり得ない。あれがマジリナだなんてまずあり得ない話だった。
それに、マジリナは確かにあの会場で他の男と一緒にいたはずだ。
「下手くそな嘘はやめろ。あの魔女様とお前が同じであるわけがない!」
「……ひっ」
俺の怒声に震え、身をこわばらせる銀髪の少女。
その顔面が僅かに赤くなっているのは、恐怖が原因か。
それきり口をつぐんでしまった彼女は、とうとう魔女の本当の名を言うことはなかった。
肩を落として歩き去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、俺はこれ以上なく憤慨していた。
あんなくだらない嘘を吐いて、俺を騙そうだなんて。許せない……。
俺は意趣返しとして、彼女の不貞を告発してやることにした。あの公爵令息ならばしっかり身元もわかる。いくら仮装パーティーでも一緒に踊るどころか口づけを交わして戯れるなど、貴族にあるまじき行いだ。
俺も他人のことが言えた身分ではないが、怒りに染まっていた俺はそんな些細なことはどうでもいいと思った。
例の公爵令息の婚約者であるアリア・フォトス伯爵令嬢。俺は早速城を飛び出し、このことを話すため伯爵家へ足を向けた。
……事前にフォトス伯爵令嬢のことを何も調べずに。
「まあ、何ですのラドン殿下。わたくしに何か御用ですかしら?」
そう言って小首を傾げる令嬢は、背中までの銀髪に緑色の瞳をした、美しい少女だった。
俺はその瞬間に全てを悟り、呆然とするしかなかった。