第一節 乗務員デビュー前 第二種免許の取得 その4
人間界へ潜入して「敵」の動きを探るべくタクシー会社に就職したギンレイ。第二種免許取得を前にギンレイの車に乗車したいという「お客様」の使者が現れた。
第一節 乗務員デビュー前
第二種免許の取得 その4 応急救護のマネキン
「おはようございます」
自宅のアパートから教習所へ登校しようとドアを開けるとカモメがおじぎをしている。
「はじめまして、私はカモメのカッちゃんと申します。お伝えしたいことがありお待ちしておりました」
夜明け前からなんとなく精霊の気配がするな、とは感じていたが、
「ひょっとして夜明け前からここに?」
「はい、いつおでかけになるのかわかりませんでしたし、お休み中であれば呼び鈴を押すのもどうかと思いまして」
なんとなく顔を見つめ合いながらしばらくの間があり、「要件は何でしたか」とギンレイが聞く前に、
「あの、要件は何か、ですよね、そうですよね。ではお話ししますね」
ギンレイがうなずくと、
「私はタヌキさんや、鳥たちや、ウサギさん達に情報伝達する係りでして、お話しすれば長くなりますが、そういう役回りでして」
カモメのカッちゃんは初対面のカムイに対して何をどう話せばいいのかがまとまりきれていなかった。
「トンビの鷹雄さんからの依頼で信頼できるタクシーの運転手さんを探していました。鳥さんたちの情報収集で、あなた様がうってつけでしょう、ということになりまして」
なんとなくモジモジとしながら焦点が定まらない目をやっとギンレイに向けて、
「お願いでございます、大王様の入学式に運転手を務めていただきたいのです。この通りです」
そう頭を下げる。
「大王様」という言葉でだいたいの理解ができた。雷電海岸のウサギ達からは手稲山に大王を守護する鳥の精鋭たちがいることは聞いていた。ツバメやトビやハヤブサがアパートのまわりを飛んでいることにも気が付いていた。タヌキ達が敬愛する「子供の大王」がこの春小学校に入学することもタヌキ達から聞いていた。タヌキの大王とはいにしえの昔からタヌキ達が仕える人間の姿をしたタヌキのことであるが、全ての動植物の頂点に立ち、誰の目から見ても神々しい、恐れ敬われる者なのだが、ギンレイはまだその「大王様」に会ったことはない。
「カッちゃんさん、頭をあげてください。喜んで引き受けましょう」
「本当ですか!?」
カッちゃんの目がキラキラしている。
「ええ、入学式はいつですか?」
「4月6日です。ああよかった。それではこれで」
「あ、えっ、ちょっと・・・」
ギンレイが呼びとめようとしたがカッちゃんは喜色満面でアパートの軒にぶつかりながらあっと言う間に飛んでいってしまった。どこの学校か、どこへ迎えに行けばよいかを確かめたかったが、それ以前に、
「4月6日までに免許を取って乗務員として勤務できるのだろうか」
という不安がよぎる。二種免許を取るための講習を受けるのに最低8日かかり、9日目に自動車学校での路上テストを受けて合格し、その翌日10日目に運転免許試験場で筆記試験に合格できたとして、免許取得の翌日から5日間、タクシー協会なる場での研修に参加し、更に、タクシー会社での5日間の実務研修を受けてから乗務員デビューができる。
都合、20日間の講習と試験と研修を受けなくてはならないわけだが、3月10日から自動車学校に通い始めたので、6日の入学式に乗務員として大王様を車両にお乗せするには試験を一回も落とさず、タクシー協会やタクシー会社での研修は講師やトレーナーの都合もあろうが切れ目なく研修をこなすスケジュールを立ててもらわなくてはならない。
大王の運転手役に抜擢されたのは光栄であるが、プレッシャーを感じる。魔力を使えば試験も車の運転も難なくこなせる自信はあるが、人間界に潜入しての所業は人間のなりで行う以上は人間力で成就するべきである、と、ギンレイは堅く考えている。
自動車学校での講習は今日が最終日だが「応急救護」で修了し、明日路上テストで全行程を終了する。第二種免許取得にあたっては6時間の応急救護講習受講が義務付けられている。
自動車学校のロビーに入ってカウンターで受講証を受け取る。事務員の河合がなごり惜しそうに、
「銀さん、今日の講習で最後ですね。あっという間でしたね・・・」
と、じっと見つめる。
「ええ、お陰様で。いろいろとありがとうございました」
なかなか受講証を渡さずもじもじしている河合であったが、横から男性の講師が割り込むようにして受講証を見て、
「ああ、こちら今日が最終日ですね、僕が救護対応の講師で村上といいます。いつもの教室と違う部屋ですから、案内しますね」
そう言って村上は河合から受講証を取り上げ、「こちらへどうぞ」とカウンターからロビーに出て通路を先に歩いていく。「それでは」とギンレイは何か言いたそうな河合へ軽く会釈をして村上について行く。
「この部屋です」と案内された教室は土足禁止のフロアクッション敷きであったため、靴を脱いで靴下のまま中へ入る。村上は部屋の隅にあるスチールロッカーを開くと中から無造作に放り込まれた上半身のマネキンと「下半身」と「両腕」を取り出す。村上は慣れた手つきで胴体に下半身と両腕を組み、床に寝せる。別の書庫からAEDと呼ばれる機器を取り出してマネキンの横に置いた。
「こいつはノルウェー人なんですよ。ノルウェー語は話しませんけどね」
まぶたを開いて見せた目は青い。髪の毛も薄茶色をしている。ノルウェーで製造されて輸入されたものらしい。AEDと呼ばれる機器と接続して、心肺停止状態から蘇生する訓練をこのマネキンを使って行うようだ。
「始業までまだ時間がありますから、そこの席についていてください」
そう言って村上は部屋から出ていく。
入れ替わりにミンクが入ってきた。ミンクは扉の外へ出て通路を歩く村上の背をじっと見ている。ミンクも村上の怪しさに気が付いたようだ。更に、
「この人形も少し・・・」
そう言いつつ、ギンレイの足元を見て、
「そのソックス、似合いますね」
と言ってクスリと笑いながらテーブルの席についた。応急救護の教室はテーブルが6台あり、いつもは6人程度までの少人数で講義をしているようだ。テーブルの前は実技講習をするためか広く開いている。広く開いたスペースに車いすが一台、そしてそのマネキンが横たわっている。横たわったマネキンからかすかに霊気を感じるのをミンクも気が付いたようだ。それよりも、シロクマの絵がプリントされた可愛らしいソックスをギンレイが履いていることの意外性にミンクがウケているようだ。テーブルに着きながらまだギンレイの足元を見ている。
「ああ、まあ、こういうのを選ぶセンスがなくてね」
そう言ってギンレイもテーブルの席につき、
「そちらは、洋服は自分の見立てですか?」
そう聞くと、ミンクはしばらくじっと床に横たわるマネキンを見つめ、
「人間の女性と暮らしていたことがあるんですよ。その時にいろいろと教わりました」
「そうですか。いまその女性は?」
「お別れしました。とてもいい人でした」
そう言ってミンクは遠い目をして宙を見つめる。
「立ち入ったことを聞いたかな、申し訳ない」
そうギンレイは頭を下げると、「ふふっ」とミンクは笑い、
「いえ、いいんですよ。それより、明日と明後日のテストは大丈夫そうですか、お互い最短の過密スケジュールでしたが」
「ええ、なんとしても3月中には免許を取らないと」
ミンクはじっとギンレイを見つめる。3月中になどと、つい言わなくてもいいことを言ってしまったとギンレイは思うが、見透かされたようだ。
「何かお急ぎの理由がありそうですね。最初にお客様としておのせする大切な人、どんな人なのかなあ」
真顔でギンレイを見つめるミンク。この精霊は自分に興味を持ち、何かを探ろうとしている、ギンレイはそんな気がしている。ギンレイははぐらかすように、
「生活がありますからね、はやくタクシーを運転してお給料が欲しいですよ」
「最初にもらった給料で何を買いますか?」
「そうですね、制服に会う黒いソックスかな」
そう言ってギンレイは笑い、ミンクも笑った。講師の村上が部屋へ入ってきた。
「お二人とも今日が最後の講習ですね。試験に向かって学科や路上の学習をしたいところでしょうが、今日は、心肺機能回復やケガなどの応急措置、お身体の不自由な乗客への対応についての学習です。これはタクシードライバーにとってとても重要な内容ですからね。筆記試験に出る内容もありますから、しっかり学びましょうね」
先ずは座学の講習から始まり、タクシードライバーが路上で救護を必要とする人間を発見した場合にどのように対処するか、ドラマ仕立てに収録されたVTRの視聴をする。その後、休憩をはさみながら、車いすの扱い方、三角巾を使った止血の仕方、腕の吊り下げ方などを学び、マネキンを使った心肺蘇生の実習に入る。
このマネキンには電子基盤が内臓されていて、実習生が行う胸部圧迫の有効性が計器に示される仕組みになっている。胸部圧迫は心臓の前にある「胸骨」をリズムよく押し付けることにより心臓の鼓動を外的作用により生み出すもので、人工呼吸と併せて行うことで蘇生の効果が高まるという。人工呼吸は身体に必要な酸素を体内に入れるために必要だが、何より大事なのは心臓の鼓動による血流であり、血液の中に含まれる酸素をまわすことにより、呼吸がしばらく途絶えたとしても蘇生される可能性があるため、優先順位としてはまずは心臓マッサージ、次に人工呼吸とされる。
人工呼吸はマウスピースを使って行う。実際にギンレイ、ミンクにマウスピースが渡され、マネキンを使った人工呼吸の実践をする。息を吹き込むと胸が膨らむ。次に胸骨圧迫は上半身の全体重を両腕にかけ、休みなく圧迫を続ける。それなりの体力を必要とする。
「一回毎に胸が5センチは沈むくらい押し付けてくださいね」
5センチ胸が沈むと胸骨からつながっている肋骨はバキバキと折れてしまうはずだが、
「肋骨が折れるのは仕方ありません。運転手さんが心肺蘇生目的の胸骨圧迫でお客さんの肋骨を折ったとしても傷害罪にはなりまんからね。ましてこれはマネキンです。遠慮なくやってくださいね」
両手を組みマネキンの胸へ向かって垂直に、心臓の鼓動に会わせるようにリズムよく押し付ける。普通の人間であれば汗だくになる作業だ。講師の村上は大柄で筋肉質だ。慣れているせいか、霊力を使っているせいか、体力があるからか、それほど疲れるそぶりは見せない。
ギンレイもミンクもその講師に何かが宿っていることを見抜いている。講師自体は精霊でも魔物でもないが、おそらく魔物が憑りついている。それと、胸骨圧迫の手本を見せている最中、マネキンの目から涙がこぼれている、そんな錯覚をふたりは見ていた。
「さあお二人にもやっていただきますよ。だいたい一秒に一回の感覚で押し付けてくださいね」
ギンレイがマネキンの前で膝をつき、両手を組んでマネキンの胸に手を当てる。霊力を使うわけにはいかない。人間の体力を勘案して汗だくになって胸を押す。5センチというとそれなりの深みだ。なるほどこれくらい押し付けたら肋骨の2本や3本は折れるだろう。胸を圧迫しながらギンレイはマネキンの心を読む。
(たすけてください。お願いです。故郷へ帰りたい)
マネキンの声が聞こえた。
(何か事情があってここへ来たのか?)
(世の中を見てみたい。そう思ってこのマネキンに憑りつきこの国まできました。そこの人間の術にかかってこのマネキンから出られなくなりました)
(どうしたらいい?この術を解くにはお前をその者から遠くへ引き離す必要がある)
(マネキンを壊してください。そうすれば修理に出すはずです。このマネキンの修理はノルウェーでなければできません)
ズドン
ピーピーピー・・・
ギンレイは躊躇なく波動を放ってマネキンを壊した。器物損壊行為ではあるが可哀想な精霊を救うため、そしてこの教習所にやどる闇を見るためにやむをえないと思った。マネキンからつながっている計器がピーピーとエラーメッセージを放っている。ギンレイはマネキンの内部にある配線や基盤の回路を破壊した。外目には外傷はない。しかし、その講師はギンレイが霊的な存在であり、マネキンの中の精霊を逃がすために魔力を使ったことを見抜いていた。
「おやおや、やってくれましたね」
ギンレイを見る講師の目が怪しく光った。
「はっ?何のことでしょうか」
「とぼけるな、このマネキンを壊しただろう」
席からミンクが擁護する。
「どういうことですか、そちらはあなたの指導された通りに心臓マッサージをしていただけでしょう?」
「こいつは確かにマネキンを壊したんだ」
そうミンクに言い、ギンレイを見て、
「あんた、何者なんだ、どうやって壊した?」
部屋の入口から、
「銀さんは普通に心臓マッサージをしていただけです」
河合は今日で講習が最後であるギンレイの様子が見たくなり、部屋から心臓マッサージをひたむきに行うギンレイの姿を覗き見していたのだった。
「いや、こいつは・・・」
「銀さんは何も悪くありません。胸骨圧迫をしていただけです。壊れた器具備品は私達が修繕の手配をします。今日の講義はスペアを使ってください」
きっぱりと毅然とした態度で河合が村上を睨みつけるように言う。納得のいかない様子の村上にミンクが、
「私の目から見ても特にこちらは乱暴な扱いはしていませんでしたよ」
そう、静かに言うと村上は黙りこみ、河合は部屋にあるもうひとつのロッカーを開いて、中から別のマネキンを取り出して床に置き、そして壊れたノルウェー産マネキンの胴体、手足、AEDを次々に運び出していく。運び出す3往復の最中、3名は黙って立ったままだったが、
「それじゃあ」
と、村上はため息まじりに、「つづけてください」と、スペアのマネキンを指さす。
スペアのマネキンは和製で旧式なのか、胸にはマジックで「ここを押す」、顔は目、鼻、口らしきものはあるが凹凸があるのみでそこにペンで目と口がイタズラ書きのように描かれている。見た目の怪しさはこの旧式の方が圧倒的に大きい。ギンレイが膝をついて手をその「ここを押す」と書かれたところに当てるとかすかに手の平に鼓動が伝わってくる。目を閉じると「ひひひ」という笑い声。この部屋には何体かのマネキンが他にもいるようだが、違うロッカーからも「ひひひ」という声が聞こえてきた。ズドンと波動を放って壊そうかとも思ったが、今度は壊さなくてはならない理由もなく、胸骨圧迫を続け、AEDの操作をし、「はい、それでは交代してください」と講師から言われ、ミンクと交代する。ミンクもマネキン達の異変に気が付いているだろうが、淡々と救護の手順を踏む。
「はいけっこうです。それではこれで救護の講習を終わります」と講師がそそくさとマネキンをかたづけ、部屋から出ていった。
部屋にミンクとふたりになるが、ミンクにはマネキンから分離した魔物が憑りつこうとミンクの身体にまとわりついていた。
「この手の魔物は人間界にはいくらでもいるようですね。まあかわいらしいものですが。こいつは遊んで欲しいようですね」
魔物というよりは妖怪に近い。応急救護という生命にかかわる大切な講義で人の命の尊さを学ぶ場にいていつのまにか霊力がつき、人間とともに命の大切さを学んでいるうちにむなしさを感じ、嘆きの心が魔性化しつつある、といったところだろうか。
モノにも心が宿る。お寺や神社で人形供養ということをしているが、大切にしていたモノ、粗雑にしていたモノ、それぞれに感謝の気持ちをこめて弔う。ここの人形達は少し雑に扱われているのかもしれない。あの見通しの悪い交差点にいるマネキンもそうだ。教習所に居る霊的な存在はある意味、交通事故という悲劇が絶えないことへのむなしさを一番感じているモノたちなのかもしれない。
ミンクはロッカーの上に積んであるアタッシュケースを降ろし、中を開くと胴体や手足が収納される型がついていた。無造作に放り込まれたマネキンをロッカーから取り出して手、足、胴体をケースの中へ収納し、ふたをしめ、パチンと留め金をとめてロッカーの中へ収めた。
「これで少しはゆっくり眠れるだろう」
ギンレイもそれに習いミンクと一緒に、ロッカーに放り込まれていたマネキン達をケースに収納する。
自動車の運転ということのマナーや礼儀は、車両、道路、信号機や標識などを敬い、大事に使うということから始まるのかもしれない。この自動車学校の中にある物品、コース、机、椅子もそれを望んでいるのだ。この学校のそこかしこに潜む魔物達もそのことを生徒たちに伝えようとしていたのかもしれない。
帰り際に河合から声をかけられた。
「銀さん、さきほどは不快なお思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。それに、マネキン達のおかたづけまでしてくださったんですね」
そう河合は頭を下げる。
「おさきに」
ミンクは先に外へ向かって行って、河合はミンクへ「ありがとうございました」と頭を下げて、ギンレイに、
「あのマネキンは修理のために取扱い業者を通じてノルウェーまで送ることになりました。ケースにしまって、なんだかホッとした顔をしていますよ」
そんなことを言った。この河合という女性にもモノの気持ちがわかるのか、とふと思う。村上という講師が、じっと向こうのほうからこちらを見ているのに気が付く。
「それでは」
「明日のテスト頑張ってくださいね」
河合と挨拶をかわしギンレイは自動車学校を出るが村上が追いかけてくる。
「あなた、普通じゃありませんね。ここへ何しに来たのですか」
ギンレイを呼び止める村上に、
「いえ、ただ免許を取りたくてここに通っている普通の学生ですが」
「学生?」
いぶかしげにギンレイをじろじろと見る村上。
「明日で卒業ですよね。卒業したらもうここに関わらないでくださいね。そうじゃないととんでもないことが起きますよ」
「とんでもないこととは?」
「ここにいる超自然的なモノたちを、そっとしておいてほしいんです。それだけです」
そう言って村上は学校へ戻っていく。悪気も邪な心も感じるが、「そっとしておいたほうがいい」という意見には一理あるような気もする。自分がここへ来たことで寝た子を起こしてしまったのかもしれない。いずれにしてもこの学校に長居をするつもりはなかった。明日と明後日の試験に合格して早くタクシードライバーとしてデビューしなくてはならない。最初のお客様は大王様と決めていた。
*
運転免許取得に向かって次回は路上テストに臨みます。この界隈にひそむ魔性のモノたちとの駆け引きも活発になってゆきます。
*このお話しは連載中の「しあわせのたぬき」
https://ncode.syosetu.com/n8347hk/
シリーズもの別編です。