第二節 最初の客 その2
思っていた以上にスムーズにいかないと、タクシー業務の難しさを知るギンレイ。次々とやって来る乗客は未知の世界からの来訪者のようであった。
第二節 最初の客
その2 直線上の客
自動車学校の敷地から元の幹線道路へと戻る。東西に走るこの道路は東は石狩市、西は鉄道の線路を渡って国道にぶつかり、その国道は小樽市にもつながる。トラックの往来が多く、工業用地も多いこの幹線道路を走っていても「手を挙げて」タクシーを拾おうとする人間がそうはいるとは思えない。
バス停留所の近くに3999号車を停めてバスの時刻表を見ると通勤時間でも一時間に2本、昼間は1時間に1本しか運行していない。車に戻ってしばらく進むと商店街を走る「北1通り」と交わる交差点にさしかかる。ここを左折しようと信号機の手前でウィンカーを出して赤信号で待機していると、
ププー ププー ププー ププー
『北区北48条西14丁目1 ケアハウスかとれあ 正面入り口 佐々木様 男性 ドアサービスのこと』
「おっと、無線だ」
「5分以内で着くと思います」
ネズミが計算をしてくれた。ナビに示された順路はここから右折して真っ直ぐ。わかりやすい場所だ。ギンレイは「5分」の了解ボタンを押す。機械音声が、
『配車が確定しました。目的地は右方向です』
と言う。メーターを「空車」から「迎車」に変える。ウィンカーを左に出していたこともあり、青信号を見て左折をし、1本目の横道を左折して更に次の交差点を左折して元の幹線道路へ戻り、先ほどの交差点へウィンカーを右に出しながらセンターライン寄りに停車し、青信号で右折をする。すぐに目的地のケアハウスが見えてくる。
「ドアサービスのこと、か」
機械音声では詳しく語っていなかったが乗客はおそらく身体の不自由な高齢者。運転席から外へ出て手動で客席のドアを開き、着席してシートベルトを着用するまでエスコートをせよ、ということだろうと理解する。
ケアハウスは南向きに東西に細長く建っている。南側に細い車道が延びているがその南側の車道に入り、右手に正面玄関を見ながら通り越し、奥に見えた車両を転回させることができそうな駐車場を借りてUターンし、乗客用のドアをできるだけ正面入り口近くまで寄せて停車する。
すぐに運転席を降りて正面玄関から入りケアハウスの受付へ行って、
「KTタクシーの銀と申します。ご用命のお客様は・・・」
と、言いかけると、
「おう、ここだ!」
大声で大柄の男性が待合室のソファーから立ち、杖をつきながら出入口へ向かう。
「よろしくお願いします」
そう言って顔を引きつらせている女性スタッフに会釈をし、杖を突いた男性の前を進んで自動扉が閉じないように扉の近辺へ立ち、
「お待たせしました。KTタクシーです。お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
そう低姿勢で伺うが返事がない。少し大き目の声で、
「佐々木様ですね」
と言ってカウンターの女性を見ると、女性が指でOKサインを出す。男性からは返事が無いが、
「ご利用ありがとうございます。御足下にお気を付けください」
と、言いながら3999号車のドアを開き、ドアサービスの姿勢を取る。
車両がセダンタイプの場合、基本的なドアサービスの姿勢は、運転手は車両のドアを右手で開き、左腕を後部座席屋根のフレームに置く。乗客が車両の天井に頭をぶつけないようにする配慮の姿勢だ。足腰が不自由な乗客はジャパンタクシーではなく旧来のセダンタイプを所望することも多い。ジャパンタクシーは天井が高いため頭をぶつける事故は少ないものの、スライドドアであるためドアが全開になっても後部座席の全てが露わにならないため、右足を先に車内に入れてから座らなくてはならない。セダンタイプであれば両足を地面に置いたまま、お尻や背中を座席に付けることが可能だ。ただし車体が低いために頭を天井にぶつける乗客がいるため、この会社では身障者への「ドアサービス」を徹底している。
ケアハウススタッフの表情から見てもいかにも気難しそうな乗客である。座席につき、両足も杖もすっぽり車内に入ったのを確認して、
「安全のためシートベルトの着用をお願いします」
「・・・」
乗客は左手が少し麻痺をしているようだ。
「お手伝いしましょうか」
「・・・」
乗客が無言なのだが、ギンレイはシートベルトを手伝おうと身をかがめて座席のベルトを手にするが、
「いらん!いつもしていない!」
と、大声を出す。
「それではドアを閉めます」
と言い、パタンとドアを閉め、小走りに運転席へ向かってシートベルトを着用しながら、
「安全運転でゆっくり向かいます。どちらの方へ参りますか?」
と尋ねると、
「すぐ近くだ、みなみのびょういん、急げ!」
と、言う。マニュアル通り、
「どちらの道を通りますか?」
と、聞くと、
「その道まっすぐだろ!」
と、右手を右に振りながらまた怒鳴る。
「かしこまりました」
そう言ってギンレイは後方左右の安全確認をし、サイドブレーキを解放してギアをローにし、メーターを「迎車」から「賃走」へ変え、ゆっくりと発進する。右にウィンカーを出し、車道へ出る前に一時停止して左右の確認をし、元来た道を南へ戻る。「この道を2キロほどまっすぐ行くと南病院がある」と記憶していた。比較的大きな総合病院だ。ケアハウスに居住しながら自力で通院しているのだろう、と想像する。昨日、一昨日とこの近隣の地図をくまなく見て、主要な施設は抑えていた。
しばらく進むと、
「おい、こら!どこへ行く!逆だろ!」
と、さきほどにもまして大声でわめく。驚いたギンレイは路肩へ車を停める。
「戻れ、Uターンしろ!」
「か、かしこまりました」
言われるがまま、前後からの往来が途切れるのを待って3999号車を転回させ、逆戻りする。左手に出発地のケアハウスを見ながら通り過ぎると、
「そこだ、そこを左!」
看板に「三波内科医院」とある。わずか、ケアハウスから4、5百メートルだ。
中道に入り西向きに建っている建物の正面玄関前駐車場へ右折で新入し場内で転回して乗客席ドアが出入口に向くように停車する。
「こんなことは初めてだ」
「申し訳ございません」
「一区間分しか払わないからな!」
メーター料金は一区間分にしかなっていない。乗客が差し出した千円分の福祉チケットを受け取ると、
「お客様、このチケットはお釣銭が出ませんが」
と、言うと、
「わかってる!いいから早く開けろ、予約の時間があるんだ!」
と、また怒鳴る。ギンレイはあわてて運転席を出てドアを開ける。杖をつき、ゆっくりと歩きながら三波内科医院へ入る乗客に向かって「申し訳ありませんでした。ありがとうございました」と、深々と頭を下げる。
後部座席のドアを閉めて、運転席に戻り、駐車場へ戻って「ハッ!」と気づく。
メーターを「賃走」から「支払」にしたままだったため、運賃が2区間分まで加算されている。慌てて「合計」「空車」にして清算完了の状態にする。この場合の運賃はどうしたらよいのか。
「3999号よりセンターどうぞ」
『センターより3999どうぞ』
大林の声だ。
「3999より、先ほどの無線からの乗客が降車後、空車にするのを忘れて料金が1区間加算されてしまいました。1000円のチケットをもらっていますがどうしたらいいでしょう」
『センターより3999、清算は1区間のみで処理、不足は本来ドライバー負担だけれど、まあ初めてのことだし、以降は気を付けること、以上 ブズッ』
メーターに記録された料金は絶対にごまかすことはできない。会計上の矛盾が内部または外部機関から指摘された際には悪くすると解雇となる。
乗客についてもメーター料金に従ってその通りの金額を支払わなくてはならない。道路が渋滞していようが、以前乗車したときよりも高かろうがだ。だからお客様からの苦情や不満をなくすためにも、行き先、経路の相互確認はドライバーにとって大事な心遣いであり義務なのだ。
道路や施設については乗務員よりも乗客の方が詳しい。多少面倒がられても詳細を執拗に乗客へ聞くことはお互いのためなのだ。
英国ロンドンではタクシードライバーは尊敬される職業のひとつだ。太い細いの入り組んだ道の全てを把握している。日本国内でも「道を聞かなくてもわかる」ドライバーがプロ、カッコいい、という見方があるかもしれない。ただし、少しでも道や方角や建物の名前に自信がないという意識があるならば、恥ずかしがらずにきちんと乗客へ行き先、経路を聞き、理解納得したうえで安全運転を心掛けるドライバーの方が「プロ意識が高い」「きちんとした職業人」、ともいえるのだ。
今回の場合、料金は二区間分だがそれよりも多めのチケットであるから乗客に金銭的な損はない。走行が一区間でありながらチケットを二区間分で処理すれば不正利用となるため、過不足分はドライバー負担が本来であるが、無線センターの大林はギンレイに悪気のない失敗であったと判断して、会計上は「雑損失」にて会社で不足を計上することにしたのだろう。
「やっちゃいましたね」
3999号車がつぶやく。
「3999はあのお客さんのことは?」
「ええ、知っています。常連ですから。行政から配布される福祉チケットを使ってあの内科医院へ通っています。申し訳ありません、道を間違ったのに気が付いていながら黙っていました」
「・・・」
「ほとんどのドライバーが間違えます。右に手を振って真っ直ぐって言われたら、やっぱりみんなその方角にある大きな病院へ向かいますよ」
「え、それじゃあまさか」
「そう、あのおじいちゃん、ドライバーが間違えるのを楽しみにしているんですよ」
「え、え、3999本当にそうなのか?」
天井を見上げて3999の「目」に問う。3999はまばたきしながら、
「ええ、多分、間違いありません」
ネズミは初めて見た客だったらしいが、ナビから這い出してきて、
「びっくりしましたけれど、そう言われてみると、大声を出しながらも短いドライブを楽しんでいたような気もしないではありません」
ニシンの子たちが並んでうんうんとうなずいている。
先ず道を間違ったことは真摯に反省しなくてはならない。車道に出る際に、「こちらを右でよろしいですね」と聞くべきだった。何より「みなみ」と聞いて、「南」と思いこんだのは大失態だ。この先「美容院」を「病院」と聞き違うこともあるだろう。生半可な地理の知識で客を誘導することの怖さを悟った。ドライバー的にも恐怖だが、乗客はもっと恐怖だろう。マニュアルでは「どの道を通りますか」であるが、最初に向かう方角の確認、途中途中での「この道で合っていますか」の再確認が必要だ。
そして、メーターの取り扱い。気難しい乗客と接客をしながらのアクシデントは想定内とし、常にあわてず、正確な動作をすること。過分なチケットであったからよかったが、道を間違えて過分な料金を乗客に請求しなくてはならない場合、現金しか持ち合わせない乗客は「そんなの払いたくない」と初乗り一区間分しか出そうとしない客がいるかもしれない。
「それにしても・・・」
ハイヤー協会の講習で内藤が言っていたことを思い出す。「ほんの300メートルのところまでタクシーを使って行く客がいる」という現実。健常者であれば楽に歩いて行ける距離でありながらタクシーを使わざるを得ない乗客。ケアハウスに入れる高齢者はまだ恵まれているだろう。アパートで身寄りのない身体の不自由な独り暮らしの老人もこんなふうにほんの近くでもタクシーを利用して買い物や通院をしているものなのか。
「人間達はこの現実を正しく理解しているだろうか」と思う。
心を鎮めてさきほどの乗客の心を探る。
「さびしいのか・・・」
3999号の後部座席に座った過去の「その乗客」の姿、心が脳裏に浮かぶ。時に叫び、時に怒り、だが新人ドライバーと見るやの瞳の中に期待と興奮の感情が見える。
この乗客について知っていた3999号車があえて何も言わなかったのは、自分にそのことを自分なりに気づいて考えて欲しかったからだろう、と思った。
ただ、普通の新人ドライバーならば道を間違えて客に怒鳴られたら落ち込むだろう。遠回しでも慰めて声をかけてくれる「車両」や「ナビ」や「ニシン」と一緒であることはピュアな心のギンレイにとって今後も大きな救いとなっていくのだ。
気を取り直して車を走らせる。就職したこの会社では新人ドライバーには他のドライバーよりも2割増で無線の客を優先紹介して「鍛える」方針と聞いているが、数か月経過して「新人」でなくなり優先紹介がなくなったときのことを考えると無線にばかり甘えてはいられない。自力で乗客を探す努力をしようと思う。霊力を使えば「いまタクシーに乗りたい人」を探ることもできるし視野角も360度まで広げられるのだが、人間力だけで注意深く、安全運転を心掛けながら歩いている人の様子を見る。
近づいてくる右手のバス停付近にいるご婦人が飛び跳ねながら手を上げている。初めての見知らぬ人間の「手挙げ客」だ。Uターンしてバス停から10メートル離れたところでその手挙げ客を乗せる。
「バスに乗り遅れちゃって、近いんだけど、みなみいいん前の調剤薬局まで」
「かしこまりました。この先の三波内科医院の道路右手にある調剤薬局ですね」
「そうです」
「安全のためシートベルトの着用をお願いします。それでは出発します」
その調剤薬局はさきほどの運転中に見ていた。メーターを「空車」から「賃走」に変えて走り出す。薬局前に付き、初乗り一区間料金で「支払」「合計」のメーター操作をし、代金を受け取って「空車」に変える。3人目の客でようやくまともなメーター操作ができた。
「まだお若く見えますけど、新人さん?」
「はい、今日が初めての乗務です」
「あらまあ、そうなの、頑張ってね。でもとても丁寧な運転でよかったわ。この道はね、よく南病院と三波内科医院で間違える運転手さんがいるの。信じられる?」
「は、あ、まあ、私も気を付けようと思います」
くすくすと3999号車とネズミが笑っている。
調剤薬局を後にしてふたたび元来た道を戻る。朝の通勤時間になって本数の少ないバス路線上は手挙げや無線を期待できるかもしれない。せっかく覚えた南病院や三波内科を利用する地域住民の需要もあるだろう。とりあえずこの南北に伸びる一本道を行ったり来たりして過ごすことにした。
バスと違ってタクシー乗務員には運行路線図があるわけではない。ただ、「道を間違えたら」という恐怖感が残っている。だから南北にピストン運行して初日は乗務に慣れようと考えた。
しかし、お客様の望む進路は南北方向だけで済むはずはない。このあと東西、斜めが加わるとギンレイの運転にも緊張感が増す。タクシー需要も目的地が「みなみ病院」だけのはずはない。乗客の種類も「医療」に関係する人だけではない。「飲み客」「急ぎの客」「魔物」と、新人乗務員は初日にして様々な洗礼を受けるのだった。
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三人目の乗客は無難にこなしましたが初日の試練はまだ続きます。ピュアな心を持った精霊のギンレイは様々な「人間」を相手に平常心を保っていられるでしょうか。




