第一節 乗務員デビュー前 第二種免許の取得 その2
精霊であり人間の姿も持つギンレイが自動車学校へ入構し免許取得のための講義がスタートする。自動車学校の構内には魔物の気配がしていた。
(第一節 乗務員デビュー前 つづき)
第二種免許の取得 その2 学科講習と構内実技
「あのう、大丈夫ですか?」
自動車学校のカウンターで受講証の受け渡しをしながら事務担当の河合がギンレイの顔を見つめる。
ギンレイは寝不足で目が腫れ、まぶたが重く下がり、目も充血していた。受講証を手に取ったつもりが手につかず、パタリと床に落とした。あわてて河合がカウンターから飛びだしてきて、床に落ちた受講証を手に取り、ギンレイの右手を取って受講証を持たせる。手を取ったときにギンレイの手と自分の手が触れたことに気が付いて河合は顔を赤くし、そそくさとカウンターへ戻る。
「すみません、ありがとうございます」
昨日から始まった学科の講義でギンレイはいささかまいっていた。「かもしれない運転」つまり、子供が飛び出してくるかも、対向車が突っ込んでくるかも、前の車が急ブレーキをかけるかも、という、慎重な運転を心掛けよという教えで先ず悩む。更に、「シュミレーター」という機械で仮想の街中を安全に走るという疑似体験に悩む。更に、教習所コース内でのリアル体験は今日から始まるが、あれこれと習ったことから熟考し、起こすかどうかわからない失敗想定を「かもしれない」と考えていると夜も眠れない。まるで魔物に憑りつかれたかのようだった。
「こんなにも奥深いものだったとは」
そこまで真面目に考える受講生も少ないだろうが、ピュアな心をもった精霊には人を乗せて自動車を走らせる、ということの責任の重さを痛いほど感じているのである。
講義の初期段階では標識の役目と種類について学んだ。
子供がふたり並んだシルエットの黄色い看板で
『これは横断歩道の標識である』
答えは×で正解は歩道ではなく、通学路「学校、幼稚園、保育所等あり」なのだが、こんな標識が必要なほど幼児、学童が命の危険にさらされているのかと思うとぞっとする。
「あのタヌキ達」が守りたい子供は確かまだ小学1年生だ。魔物と戦う以前に日常生活の安全を確保するのにも腐心するのかもしれない、などと思う。
精霊に限ったことではないのだが、道路を往来するのは幼児や学童ばかりではなく、犬、猫、ネズミなどの小動物から、毛虫や蛙やミミズやハエなども同じ生命として目に写る。知床で霊的な者を客としてタクシー運転手をしていたときの自動車は精霊が作った幻の自動車であるから、虫や小動物を踏みつぶして殺すということはない。だが、人間の造作物である人間界の自動車は虫や小鳥やネズミなどを踏みつぶしぶつかり走っている。ギンレイは、人間社会で自動車を運転する際は対物防御の場理を張って運転するので、動物や虫をひき殺すということはない。
ただし精霊達の暗黙の了解で、誤って動物が植物や虫を踏みつぶすは自然界における許容範囲とされている。だから人間達が自動車で虫や動物を殺したとしても自然界の営み同様に許している。そもそも地面をコンクリートで固めるような人間は残忍な獣と揶揄する者もいるが、カムイ達はこの世界が人間によって支配されていること自体を許容し、その中でうまく生身の動植物が共生していくことを支援することが精霊の役目であるとギンレイは理解している。
そうは言っても改めて交通法規などを学ぶと戸惑うことが多いのだ。
「少し考えすぎではありませんか」
この日は学科の講義が午前中に終わって午後からは自動車学校構内で運転のレッスンがある。休憩時間に待合室でポーッとしているギンレイの横で昨日のミンクが話しかけてきた。
周囲には姿勢正しく座った姿を見せつつ、その中身である精霊の魂はぐったりと身体を傾け、目はうつろだったであろうが、ミンクから声をかけられキリリと魂の姿勢を正す。
「ああ、私としたことが、少しうとうとしていました。今日は温かくて気持ちのよい日ですね」
空は曇天であるがそう言ってごまかす。こんなところを父のハクレイに見られたら電撃どころでは済まなかっただろうが。
「私はドライに人間になりきっていますよ。だから多少のことは気にしません。道路に飛び出してくる方がよくない、くらいに思っていますよ。ある意味、加害者は交通法規に守られているんですから」
人間になりきれるならそれでいいのだろう。交通ルールを守った上での事故であれば罰は軽くて済む。交通事故が発生したときの罰は「人間であれば」3つあると教本にはある。行政からの罰、つまり運転免許はく奪や罰金、そして刑事罰、悪くすると逮捕される。そして民事上の罰、損害賠償金などを指す。しかし、精霊であるからには事後処理に頭を悩ませる。まず相手の心を癒さなくてはならない。可能であれば魔力を使って何もなかったことにする。ギンレイはある程度、時間を後戻りさせることができるし、車体を直し、被害にあった方の傷を癒すことも可能だ。知床の山奥で誤ってネズミの子が遊んでいた竹とんぼを踏みつけて壊したことがあるが、魔力で復元してその子と親への謝罪をすれば一旦の事態収集は終わる。人間社会ではパトカーが来て、マスコミが取材にきて、家族が見舞いにきて、保険会社とのやりとりがあって、と、魔力を使うにしても、いろいろと複雑な過程を踏まなくてはならない。そして精霊である以上、その後は罪の意識にさいなまれ、反省の日々を過ごすことになる。竹とんぼを壊したことをギンレイはいまでも悔やんでいる。人間社会でも同様だと思う。交通法規に守られているからといって事態収拾と3つの罰だけで済むとはギンレイには思えないのだ。
「まだぼーっと考えていますね。こりゃ重傷だな」
お先に、と言ってミンクはコースに出た。ギンレイもあわてて待合室の席を立ってコースに向かう。体調がすぐれない状態で車を運転してはいけない。霊力全開にして「人間としての」気力、体調は万全にする。指定された車両の助手席に座って担当の教官が来るのを待つ。
ミンクがこちらへきて窓越しに、昨日見ていたあの「見通しの悪い交差点」を指さす。
「気を付けましょうね、あそこの魔物、けっこう手ごわいかもしれませんよ」
ギンレイも気にかけていた。他の受講者も気にしている。よく試験で落とされる場所はその場所だけではない。最初のカーブ、坂道発進の停止位置、クランク、そして狭所。
教官が来てレッスンについてのひととおりの説明をし、共に車から降りて自動車の外周をチェックする。居るはずがないが車の下に子供やネコがいないか、パンクはしていないか、ライトは点灯するか、右左折の方向指示器は正常か。そのあとまずは教官が「今日の練習コースです」と言ってお手本を見せてくれる。教官は女性で少し語尾がきつい。
「最初のカーブで膨らみすぎないように。坂道発進のコースに入るときはウインカーは左だから。よく間違えて右に出す人いるけど」
坂道は10%の上り坂だ。教本には10%の坂道は「急な上り坂」とされていた。
「坂道発進がうまくいっても安心しない。下ったあとの止まれは完全に停止ですからね」
クラッチを踏み解放しての走りがなめらかだ。二種免許はオートマ車ではなく、クラッチ操作が必要なマニュアル車を使う。世の中的にバスをはじめタクシーなどの営業車はマニュアル車が多いのだ。
「次のクランクと狭所は鬼門だからね。よく脱輪する人いるから」
二種免許では一回で曲がりきれない狭い鋭角のコースがある。ここを脱輪しないで切り返しして通過しなくてはならない。クランクも鋭角もローギアで慎重に通過する。「鬼門」というがその通りかもしれない。魔物の気配がする。そのあと教官が運転する車は踏切を通過し、そして、
「ここの直進だけど、よくここで安全確認をしない生徒がいます。必ずスピードを落として」
直線道路の真ん中あたりに交差点があるが、交差点の手前に小屋が建っていて、その小屋の陰に子供のマネキンが二体立っている。交差点はこちらが優先道路なのだが、見通しが悪い交差点であるという理由から原則、減速しなくては試験の際に減点となる。助手席からは、小屋を通り過ぎる際にマネキンの表情がよく見てとれた。
霊気を持っている。悪気はあるが魔物ではない、そうギンレイは見た。憂いの感情を持っている。感情のバランスをコントロールできない精霊かもしれない。
「じゃあ運転を交代」
運転席について、講義で教わったようにシートの調整、ミラーの調整をし、ギアをニュートラルにしてエンジンをかけ、ブレーキを踏んでクラッチペダルを踏み、ギアをローに入れて運転席から周辺の安全確認をし、ハンドブレーキを解放して発進する。
最初のカーブにさしかかる。魔物の気配がする。慎重にカーブを切る。
「おお、いいじゃない。ここからスピード上げて」
スピードを上げギアをサードにし、次のカーブ手前で減速しながらギアをセカンドへ戻し、更に直線で加速してギアをサードにし、減速をしながら方向指示器を左に入れ、ギアをセカンドにして坂道へ入る。
「そうそう、スピードを緩めすぎると坂道でノッキングするから気を付けてね」
坂道にも魔物の気配。クラッチを早めに半分踏みながらブレーキペダルを踏んで停止位置で止まりハンドブレーキを引く。ギアをローへ入替えて半クラッチでアクセルをふかしながらハンドブレーキを解放し、頂上へ進んで坂道を下り、止まれの標識で、完全停止する。左右確認してコース外周へ出て右折をし、クランクへ入ると、
グワオッ
黒い影が横切り思わず波動を撃とうとしたが止めてやりすごすが、
こんこんこんこんこん
クランクコースに設置された「すだれ」に車体をぶつけて通過する。
「あらあら、クランクのカーブは苦手?」
教官が呆れたように言う。
「新人でもなかなかあんなふうにコースアウトしないよ。緊張してる?リラックスしてね」
緊張してる?と聞かれて改めて「緊張している」自分に気が付く。眠気もともなっていて少し頭がパニック気味になる。
「次、左に曲がって狭所だから、曲がる手前からもうギアをローに入れておいていいから、ゆっくりだよ」
鋭角の狭所コースに入る。直進して間もなく右いっぱいにハンドルを切って、三角形頂点の少し手前で山の中腹のやや右手に横づけするような形で停止する。ギアをバックに入れ替えてハンドルを左に切り三角形の左手ぎりぎりまで下がり停止、ギアをローへ入れ替えて今度はハンドルを右いっぱいに切って三角形の山の右手を下るような形でコースの外へ向かおうとするが、右後ろのタイヤがガクンと脱輪する。教官が助手席から外へ出てきて運転席のドアを開け、「ほら、コースアウト」と指さす。
「左にばかり気を取られていると右がおろそかになるから。狭いカーブでは内輪差をもっと考えてね。左の方がまだまだ余裕あったんだから。見えにくかったら運転席の窓をあけたまま走ってもいいからね」
その左に気を取られていた。地面から黒い影が人間の形で浮きだし目のあたりが光ったように見えた。
「最後、踏切を超えてから外周を左回りで一周して戻りますよ」
さっきのあれは何だったのか、と思いながら踏切を超える。窓を開けて踏切の左右を確認し、窓を開けたままあの直線へ向かう。
「もう窓を閉めてもいいんだよ」
教官にそう言われるが窓をあけたまま走ってもいいと言われたので窓をあけたまま走る。あの交差点にさしかかる。減速をする。小屋を通りすぎようとする。左手にマネキンが見える。
「あのさ、ここ、止まらなくてもいいの。見通しが悪い交差点は、じょ、こ、う」
そう言われるがしばらく車を停めてじっとマネキンを見る。「何を止まって見ているの」という顔をしてこちらを見ている。いまこの状態ではマネキンの手前の助手席でイライラした目で「何を止まって見ているの」と、こちらを見ている教官の方がよほど恐ろしい。
コースの講習が終って車を降り、自動車学校の建物に入ろうとするところでミンクに声をかけられる。
「なかなか大変そうでしたね。クランクでこんこんしたの見ていましたよ」
こちらの様子を見ながら自身の練習をこなしていたようだ。このミンクの方が先に教習所を卒業するかもしれないと少し気持ちが萎える。
「クランクのところで魔物に波動を撃ちましたよ。弱い波動をね。少し怒っていましたね。悪さするなよ、ってけん制のつもりでしたが、余計なことをしたかもしれません」
それぞれ邪気の弱い魔物と悪気を帯びた精霊達だ。なぜこの教習場に居るのかは何となくわかった。新人ドライバー達に試練を与えようとしているのだ。だがあのマネキンは少し複雑な事情を持っているかもしれない。
コースの講習含めて、今日一日の講習が終った。受講者証をフロントへ戻しに行く。
帰りがけに河合が追いかけてきてロビー出入口付近で心配そうに話しかけた。
「体調はいかがですか」
「ああ、ちょっと寝不足なだけです。大丈夫ですよ」
微笑んでそう応えると、
「あの、これ、どうぞ」
河合ははにかみながら温かい缶コーヒーを差し出した。それを受け取り、
「いいんですか、どうも、ありがとうございます」
「気を付けてお帰りくださいね」
河合は小走りにカウンターへ戻っていく。人の温かさ、ぬくもりを感じた。萎えた気持ちにパワーが充填された気がした。
精霊は食べ物も飲み物も採らなくて生きて行ける。ギンレイは酒は飲まない。飲み物はもっぱら水かミルクだ。せっかくいただいたものだからと、スクールバスの待合室でさめないうちにと缶コーヒーを飲み干す。ほろ苦さも人間界特有の経験であろうと思う。
その日の夜もギンレイは眠れなかった。コーヒーのカフェインがピュアな精霊には刺激が強すぎたようだ。
*
人間界の仕組みに戸惑いながらも免許取得をめざすギンレイですが、自動車学校や周辺地域に出没している魔物達の動きがどうにも気になります。タクシードライバーになる予定のギンレイは人間社会のルールとルール無用の魔物、そして、人間社会のルールに馴染んだ精霊、馴染まない精霊と、複雑な状況に少しずつ馴染み自身のスタンスをかためていくのです。
*このお話しは連載中の「しあわせのたぬき」
https://ncode.syosetu.com/n8347hk/
シリーズもの別編です。