第一節 乗務員デビュー前 新人乗務社員研修 その10
新人乗務員研修の最終日、細かな実務の説明をトレーナーから受けるギンレイと川岸。社長であり地域防衛隊隊長の権左衛門との会話から単純ではない職場環境を知り、また、乗務中は「ひとり」であることにある種の不安がよぎるのである。
第一節 乗務員デビュー前
新人乗務社員研修 その10 研修最終日
翌日、
「今日で研修は最終日です。自動車学校での10日間、ハイヤー協会での5日間、そして、この就職先での5日間、都合20日間最短での乗務員デビューですね、おめでとうございます」
にこやかな大林の言葉に恐縮する二人、だが、
「と、申したいところですが、最後の試練、今日は社長面談です。未経験者を雇うのは久しぶりですからね。大丈夫か?と聞かれてまだ自信がなかったら素直にそう応えてください。研修の延長をします」
研修中はアルバイト扱いではあるが北海道の最低賃金は補償される。研修を修了して最初の出勤日が入社日となるわけだが、この会社では向こう1年間の給与補償制度があって、営業成績の良い悪いにかかわらず、一定額の給与が支給される。給与補償制度期間中であっても、完全歩合制であるため営業成績次第では一定額を超えた給与が望める。だから、アルバイト代では家賃や社会保障費や住民税を賄いきれない新入社員としては、一日でも早く正規雇用での入社を果たしたいところだ。
給与とシフトについての説明がされる。
「歩合制においての給与は、乗務員が乗客から渡された運賃の税抜46%を支給します。労使交渉でこのパーセンテージは変わりますが、今年はわが社の場合、46%です。そこから社会保険料、厚生年金、所得税などを際引いた額が手取り収入となります。お二人は向こう1年間は月毎、全乗務員の平均営業収益にあたる金額を補償するわけですが、頑張り次第で、つまり常に平均よりも上で稼ごうという意識で頑張っていただけたら補償額よりも多くの手取り収入を得ることも可能です」
タクシー会社によってまちまちではあるが、かつては日銭で持ち返ることもできたらしい。メーターで「何人乗せたか」「何キロ走ったか」を見てその日の営業収入を申告し、仮に一万円稼いで46%であれば4千6百円を持ち返り、5千4百円を会社へ渡して帰宅する。昨今はクレジットやQR決済やタクシーチケットでの決済の方が主流になり給与計算は月次の締めにゆだねられている。
「お客様から現金でチップを受け取ることがあります。それはわが社においてはそれぞれの乗務員さんが持ち返ってかまわないことにしています」
川岸が目を丸くする。
「へえっ、そうなんですか?」
タクシー乗務員がチップを受け取る慣行についても、タクシー会社にとって対応はまちまちである。釣銭小口をタクシー会社で用意している会社については、収支と小口在高を合わせる経理上の機能で統制できるが、釣銭小口を個々の乗務員に用意させている会社では手持ちの小口在高を会社側で管理統制できないため、チップは各タクシー会社の判断、個々人の判断で処理してかまわない、という現状のようだ。
「運賃が990円で千円札を出して『おつりはいいから』という乗客は多いですよ。それは、きちんと安全運転で丁寧な接客をした乗務員への御礼の気持ちです。乗務員にとっての誉れだと思いますから、遠慮なく受け取ってかまわないと、私は思っています」
釣銭のやりとりが面倒とか、急いでいるとかいうお客様の事情もあるかもしれないが、下手な運転や態度の悪い運転手には10円でも与えたくないと思うものかもしれない。それは飲食店を経験している川岸にも、ホテルで働いていたギンレイにもよくわかる。
川岸が、
「自分、正直申しましてまだ運転にも営業にも自信がありません。トレーナーの目から見て私はどうなのでしょうか」
川岸が「ごもっとも」という表情で二つうなづき、
「川岸さんも銀さんも、新入りの乗務員さんの力量は素人さんだろうとベテランさんだろうと力量はみな未知数です。研修中は運転が上手な人と評価しても、実際の乗務では運転が荒くなったり、釣銭を間違えたり、接客が荒っぽかったり。それに実際に乗務にあたってもらっての一か月で、新入社員さん達としても、タクシーの仕事はこういうものなのか、と気づくことがあって、自分なりに運転の仕方を変えようと思ったり、言葉をかけるタイミングを変えてみたり、仕事に対する姿勢がどんどん変わっていきます。川岸さんの運転は確かにあまり上手ではありませんが、元気のいい接客でお客様にご満足を与えていただけるのではないかと、私は期待しております」
川岸が顔を赤くして頭をかいて照れている。
「つづいてシフトについてです。4日間勤務したあと1日休み、また4日間勤務して1日休み、また4日間勤務して2日休みます。基本はこの繰り返しです」
4日就業して休むというパターンは全国的によくある就労体系だ。理由のひとつとしてはドライバーの公平不公平をなくするためだ。特に夜勤者は傾向として金曜日と土曜日の収入が大きい。日勤者は月曜日に病院や銀行へ行く老人の需要が高いとされる。各ドライバーにまんべんなくチャンスが巡ってくるようにするのだ。また、疲労の蓄積を緩和するために連続勤務日数を4日程度にする、という考えでもある。
「わが社では日勤者は点呼を4時30分から7時15分までの間に取り、そこから休憩時間を除く8時間を就労して、15時30分から17時までに帰庫をしてもらっています。夜勤者は点呼を15時30分から18時までに取り、翌日の3時30分から5時までに帰庫をしていただいています。なお、希望する方には隔日勤務と言って、4日間で20時間勤務を2回繰り返す勤務をしていただいています。日勤と夜勤をくっつけて夜勤明けの日は『明番』という休日になります。この場合も4日経過後の5日目は公休です。慣れないうちは会社近隣の道路を覚えていただきたく、お二人については初めのうちは日勤で勤務していただき、慣れたころに一度夜勤も経験していただくことにしております」
勤務体系はそれぞれ会社によってことなるが、出退勤時間に幅を持たせたり、足掛け2日働いた2日目を明番と呼ぶのはタクシー会社やトラックなど運輸業界では特有のものらしい。比較的勤務時間を選べる業態といえるかもしれない。日勤についても夜勤についても出勤時間をおよそ2時間の間で選ぶことができる。日勤者は早めの出勤は午後にゆとりができるし、夜勤者はゆっくりめの出勤は午前から午後にかけてのゆとりができる。勤務時間中に道路が混雑して帰庫が遅れる場合は残業となるが、その幅を持たせている時間を「残業みなしの時間」とする考えもある。
「それでは午前中についてはこれまでお二人にお教えしていなかった細かい実務についてのご説明をします」
初日に渡された資料に沿って、釣銭やお客から渡される現金管理の方法、クレジットや電子マネー決済の方法、各種クーポン券、タクシーチケットの取り扱い、身障者割引、長距離割引の処理方法、定額運賃の適用について、車内の空調管理、適正温度、空気清浄器の取り扱い、アプリケーションやインターネットでの配車受付方法、万が一の事故対応手順、泥酔客に対する対応方法、等々。
実務のそれぞれはかなり簡略化され、自働化されている印象だ。つまりなるべくドライバーへの負担を軽くするための工夫が積み重ねられている感がある。接客話法もそうなのだろう。
「昔はいろいろな話法、基本応対マニュアルのようなものがありましたが、いまはわが社ではこの資料にある6つだけ忘れなければ大きなトラブルにならない、という結論になっています。銀さんから順に元気よく読んでください」
資料に書かれている6行を交代で読む。
ギンレイ「扉がしまります」
川岸 「どちらへいらっしゃいますか」
ギンレイ「どの道を通りますか」
川岸 「シートベルトの着用をお願いします」
ギンレイ「お忘れ物ございませんように」
川岸 「お気をつけて」
「はい、いいですね、このほかに言わなくてはならないのは、最初の『いらっしゃいませ』と、最後の『ありがとうございました』、他に『料金はいくらです』『おつりとレシートをお渡しします』、予約迎車の場合は『お名前をお聞きしてよろしいでしょうか』と、あわせて最低10回は、口を開いていただく必要があります。相手が杖をついた年配の方であったり、ろうあ者であったり、目の不自由な方だったり、荷物をたくさん持った方であったり、要するに毎回対応は異なります。ケースバイケースです。ただ、この6つについては起きるかもしれないトラブルへの保険のようなものなのです」
つまり扉に指を挟めるトラブル、道を間違えるトラブル、事故の際にケガを重傷化させないためのベルト着用、車内でのお忘れ物防止、車の外へ出たときの転倒、それらから乗客の安全安心快適を約束するため、そしてドライバーや会社の立場を守るための話術なのだろう。言葉に出しておけばドライブレコーダーの記録にも残る。車内にも「シートベルトを絞めましょう」などというステッカーは貼ってあるかもしれないが、言葉に出しておくことによって荷重な責任を負わなくて済む、ということなのだろう。
ギンレイが質問をする。
「扉が閉まりますと言ってから足を出す人はいないのでしょうか」
「ごく稀にいらっしゃいますが、扉が閉まりますと宣言することで足をはさんだとしても責任を回避できます。扉が閉まる瞬間まで後方を見ていることも大事です」
川岸が質問をする。
「どちらへ参りますかと聞いて、とりあえず真っ直ぐ行ってと言われた場合は?」
「真っ直ぐ進んでおいて、途中でどのあたりまで参りますか、と聞いた方がいいですね」
ギンレイが質問をする。
「どの道を通りますか、と聞いて親切に教えてくれるものなのでしょうか」
「ほとんどのお客様は教えてくださいます」
「運転手のくせに道順もわからないのか、などと言われませんか?」
「それはあります。素直に謝ることです。ベテラン乗務員でも道を間違えることは少なくありません。道順はお客様にお聞きするほうがお互いに安心できます」
川岸が質問をする。
「後部座席でシートベルトを着用してくださるお客様はいますか?」
「声をかければ着用してくださいます。自ら着用するお客様も多いです。また、事故が起きた際にシートベルト着用を促していたかどうかは、必ず警察から問われます。お客様の身を案じているドライバーという印象を与えるためにも、必ずお声掛けをしましょう」
ギンレイが質問をする。
「不要なゴミやレシートを置いて行った場合は」
「明らかにゴミとわかるものであれば失礼にあたりますので、お持ち帰りくださいとは言わないようにしましょう」
「では、ゴミはお持ち帰りくださいという話法は無いのですね」
「わが社ではそうです」
「車内のゴミはどうしたらいいのですか?」
「間違っても駅のゴミ箱などに捨てないよう、トランクへ移して入庫の際に車庫のゴミ箱へ捨てましょう」
川岸が質問をする。
「足元にお気をつけて、ではなく単に『お気をつけて』でいいのですか」
「わが社ではそうです。外に出ると路面が凍っていたり足元が危ういことは多いですが、他にも、車や自転車が走ってきたり強盗が潜んでいないとも限らず、危険なことの予測がつきません。気を付けてお帰りください、おでかけください、という広い意味で捉えていただいています」
昨日までは車の運転と無線やメーターの取り扱いの訓練であったが、今日になって俄然、対お客様の業務が重たく感じられてくる。果たしてぶっつけ本番でも大丈夫なのだろうかと今更不安になってくる二人であった。
「それでは外の車に乗車していただき、洗車機と洗車後のふき取り、車内のマットやシートカバーの交換、車内のアルコール製剤による除菌作業などについて説明します」
外に3999号車が停まっている。運転席にギンレイ、助手席に大林、後部座席に川岸が座る。エンジンをかけて車を一旦敷地外へ出して車道から敷地の角にある洗車機へと向かう。ガソリンスタンドなどにある自動洗車機と同じ。レールにタイヤを乗せ、窓から手を出してスタートボタンを押すと、水が噴射され、ブラシが回転する。ニシンの子達が「何が始まるんだ」とワクワクしている。川岸から甘海老が出てきて踊っている。3999号車が、
「ウヒャーッハッハッハッハ、おー、そこそこ、くくくくく、くすぐったい、はあーいい気持ち」
どうやら3999号車は洗車が大好きのようだ。温風を受けながら天井の目がうっとりと垂れ目になっている。
車を車庫に入れるとバケツやマット洗浄機やハンドブラシなどの使い方の説明を受けながら、川岸とギンレイの二人で心をこめて3999号車をキレイにする。昨日の戦闘でマフラーが脱落して、ギンレイが霊力でボルトを締め直ししたのだがまだ微妙なガタつきがある。あとできちんと直そうと思うが、
「それでは整備工場の方を一度見ていただきます」
と、大林が言って助手席に座る。ギンレイと川岸も車に乗り込み、敷地内にある整備工場へと向かう。
「ここにはグループ会社の各社が車両を持ち込み修理や車検や定期点検を受けています。また、ウインドウォッシャー液や、バッテリー液などの消耗品がありますので、不足の際には立ち寄って補充してもらってください。チーフ作業員の齋藤さんです」
修理中だろうか、庫内でボンネットが開いた車の中にいた一人が出てきて、
「ああ、齋藤です、よろしく」
帽子を浮かせながらそう短い挨拶をして、一瞬ニコリとギンレイを見て、その作業員は修理中の車に戻る。
(どこかで会ったことがある)
ギンレイはそう思った。川岸が、
(彼、精霊ですね)
と、ギンレイに念を発する。キタキツネの精霊だ。どこか懐かしい。
その後、ギンレイが運転する3999号車で助手席の大林が、市内のメーター検査場へと向かう。タクシー車両のメーターは定期的に適正検査を受ける。床に設置された二本のローラーに車両を乗せて、ローラーを空転させて、車両はその場から動かず、時速40キロで疑似走行をさせる。初乗り区間から一定距離を進んで適正な価格がメーターに表示されるかどうかを係り員が見る。合格であれば「適」のラベルが貼られる。
車が会社に戻り社屋前で、
「これで本社における研修は修了となります。予定されていたお二人にお伝えする内容は全てお話ししました。他にもまだまだ疑問な点が出てくるかとは思います。休憩後、社長面談のあとは営業部からの指示で動いていただきます。つたないトレーナー役で至らない面があったことをお詫びします」
そう大林は頭を下げ、ギンレイ、川岸も頭を下げる。本社社屋前、青空のもと晴れやかな表情で、大林は、
「それでは検討をお祈りします。13時になったら澤本さんを通じて1階事務所奥の社長室へ行ってください。私は2階の無線センター業務に戻ります。それでは」
軽く右手をあげて大林は社屋へと入っていく。
大林は人間だ。ギンレイや川岸が精霊であることを知らない。洗車機を通る3999号車が笑い声を上げたのもニシンが車内で泳いでいたことも、海老がダッシュボードで踊っていたことも知らない。今後起きる怪事件も彼は「本当の現場」を見ることが無いのだが、無線センターの主任としては今後も奔放な二人には大いに振り回させることになるのである。
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※この「つづき」は1時間後に投稿となります
<筆者より>
新米タクシー乗務員の研修について大部分は実体験談に基づいたものです。車がしゃべったり、車の中で魚が泳いだりする事実があったかどうかはご想像にお任せします。なお、メーターや無線機の取り扱い、賃金体系、就労体系、新人教育行程につきましては各都道府県、各会社毎に異なる場合があります。




