第一節 乗務員デビュー前 新人乗務社員研修 その8
タクシードライバーとして乗務が可能かどうかのテスト前、研修棟にライバルのひとりが訪れる。
第一節 乗務員デビュー前
新人乗務社員研修 その8 ミステリーツアー
翌日、研修は今日と明日と、よもやのテスト不合格で明後日の補講があるかもしれないが、ほぼ今日で山場を越える。
少し余裕をもって出社したいという川岸の意向もあって、研修開始時間の1時間前、二人は研修棟前で
「おはようございます」
と、同時に元気よく挨拶をする。ギンレイは昨日預かった研修棟の鍵をポケットから取り出し、扉を開き中へ入って席につくと早速二人は資料を読み返し、地図やテストの手順などを確認する。
真剣に地図をチェックする川岸を横目にギンレイは少しの不安を覚えていた。
(何だろう、自分だけ順調で彼がリタイヤするような気がしてならない)
普通の人間であればはなはだ失礼な想像であるが、キタキツネの精霊は占いが得意だ。予知能力が強い。だから川岸に忍び寄る災難を敏感に感じ取って真剣に案じているのでギンレイ当人は失礼な想像とは思わない。
思えばタクシーの業務は行き先不明、一日の作業工程を測りにくい仕事だとギンレイは思っている。一日の最初に乗せた乗客の行き先次第でその日の行動エリアが決まるようなイメージだ。つまり最初に乗せた客が「西へ行って」と言えば業務前半は西エリアで過ごすことになるだろう。ベテランになれば
「西へ行けばこんな施設があるから先ずはそのあたりで待機して東へ行く客を拾えたらまた会社付近で活動するし、逆に更に更に西へ行くことになったらその方角には商業施設が多いから買い物客をあてにして・・・」
などと一日の行程を上手に組み立てしながら業務するのだろう。新人ドライバーとしては「出たとこ勝負」で効率の悪いウロウロを繰り返すことになるのだろうか、などと思う。
同僚社員を心配したところで今日の「テスト」も別行程の「ひとりひとり」だ。ギンレイは川岸を手伝うことができない。川岸が自力で困難を克服することを願うしかない。自分達の予定されたコースが事前に知らされているのであれば現地に禍をもたらすものがないか行って確かめ「清める」などできるのだが、今日のテストは模擬的に実務体験をすることを兼ねてのミステリーツアー企画だ。
「調子はいかがですか?」
ドアをノックする音がすると思ったら研修室へ倉見が入ってきた。ジーンズにセーターの私服姿。すぐ近隣のライバル会社、北方タクシーでギンレイ達と同様に5日間の研修を受けているはずだ。
「倉見さん、おはようございます」と、少し驚きながら、同業他社の社員がこんなところへ入ってきていいのだろうか、とギンレイと顔を見合わせながら、
「今日は会社はお休みですか?」
川岸が尋ねると、
「ええ、こっち今日は夜間の練習なんです。だから午後から出勤です。ちょっとお二人の様子を偵察に参りました」
川岸が「へえっ夜間の練習を」と目を真ん丸にしている。
ギンレイが、
「倉見さん、ひとつお聞きしたいことがあります」
「私が男か、女か、という質問以外でしたらどうぞ」
「ではけっこうです」
倉見がにっこりと笑い、
「外に二台停まっていますがこちらも毎日車の練習ですか?」
と聞く。川岸が、
「昨日までは車を運転しながら無線の取り扱いを覚える練習でしたね。いやあ、初日からマニュアル車でつまずいて大変でしたよ」
「板前さんや子供のときからピアノをやっている人って両手での作業が器用だっていいますけどね」
「そうですかね。車は足も使いますからね。ぜんぜん自信が持てません」
川岸がギンレイの顔を見て恥ずかしそうに下を向く。倉見がうなづきながら、
「そうですか、初日から車の練習、うちの会社と同じですね。よそのタクシー会社で馴染めなくて違うタクシー会社へ移って来る人向けの研修内容を素人の新人にもあてがっている感じですね。教育担当の人が、素人を雇ったのは2年ぶりだって言っていましたよ」
即戦力となる人材であれば5日程度の研修でも充分だろう。無線とメーター機の取り扱いを教えたらあとは「わからないことは聞いてください」でもなんとかなる。ただ業界全体で人手不足が深刻であること、ハイヤー協会からの示唆なり指導もあるのだろうか、各社「乗務員募集中」「資格取得制度あり」の、「10日間の研修」でデビューさせて実務で仕事を覚えさせることを基本としているのだと想像する。
実際そのくらいの期間で「なんとかなっている」のならば素人であるギンレイも川岸も鶴見もそれで「なんとかしよう」と決意をかためるしかない。倉見も「タクシー会社の教育はそんなものなのか」という疑問から陣中見舞と称して敵陣視察をしにきた、というところか。
川岸が「3日間の練習を経て今日はテストだ」と言うと、
「ああこちらもそう、同じですね。テスト、という表現はしていませんでしたが、金曜日には実車できるかどうか判断して月曜日の午前中は細かいことを教えて月曜日の午後から乗務員として営業をするのだとか」
「やはり実務で覚えることが多いんでしょうね」
と、川岸が少し遠い目をする。
倉見が励ますように、
「こちらの会社も見たところオートマ車が多いようですね。うちの会社も最初は中古の中古みたいな車でデビューらしいですが、無事故で過ごせたら新しい車にも乗せてもらえそうですよ」
「今日僕はオートマ車でテストなんですよ」
「それはよかったですね、新人さんに優しい会社なんですね。でもうちの会社はオートマ車になっても事故が減っていない、って言っていますがね」
オートマ車による事故リスクは一般車両と同様、タクシーも例外ではなく特にタクシーはバックの際の衝突事故、前方車両への追突、方向転換の際に後方から来る車両との衝突事故などが多いようだ。操作が簡単な、オートマ車はベテランのタクシードライバーでさえも気の緩みが生じやすくなる。無線やメーター機に気を取られ信号が青になり前方の車が発進したと思ってアクセルを踏んで、まだ発進していなかった前方の車両に追突する。あるいは、客待ちをしているタクシー乗り場でのバック事故。一台目と三台目に挟まれた二台目の車両に無線指示が入って列から抜けようとする際に後方確認がおろそかになって三台目に衝突する。
マニュアル車でバックをする際はクラッチペダルを踏んでギアを真ん中のニュートラルから右へ倒してから手前に引き、クラッチペダルを半分浮かせながらアクセルペダルを踏んで「そろり」と下がるという複数行程を経てからの動きであるが、オートマ車の場合はブレーキペダルからアクセルペダルへ踏みかえるのみ。無線の指示や急なお客からの要望を優先させる意識だと車両操作への意識がおろそかになる。
マニュアル車もオートマ車も両方乗りこなしているドライバーは、「いや、どちらも同じだよ」「オートマ車の方が楽だから慎重になるよ」と言う人もいるかもしれないが、オートマ車に慣れているタクシードライバーが配車の都合でマニュアル車に乗りかえれば俄然「気を付ける意識」が強まる。国土交通省や陸運局が「早々なオートマ車への転換」をタクシー業界へ示唆していないのは、マニュアル車の安全性ということが念頭にあるのかもしれない。
倉見が、
「ねえ、銀さん、私、仕事中も魔力を使っちゃおうかなあって思っています。いいですよね?悪いことやずるいことには使いませんから、お二人はどうなんですか?」
ギンレイはうなずいて、
「昨日、川岸さんとその話をしていました。人間にも霊感や直感の鋭い人がいます。お客様が安全で快適に移動できるならいいのではないでしょうか」
倉見がギンレイと川岸をかわるがわる見つめ、
「こちらの会社とはエリアが競合しているんですがね」
川岸が、
「お互い競争ですね」
「そう、競争ですね」
そう言って倉見は窓から競争相手の本社社屋を見つめ、
「私ね、誰にも負けたくないんです。男には・・・」
そう言いかけて、
「いえ、男にも女にもね。いつか絶対見返してやるんだって・・・」
何かわけありのようだ。トラックを運転していたというが、前職で何かあってタクシーへ乗り換えようと思ったのだろうか。出会ったときに少しの悪気を感じた。邪気ではない、やる気、負けん気の類であろう。ただ、気を付けて見ていないといずれそのやる気が空回りしたときに憎悪の種が入り込むとその種が成長をして邪気に変わるかもしれない。あるいはいまは憑りついているハト達が鶴見にとっての癒しとなり、倉見の感情をコントロールしているのかもしれないが。
「ふふ、申し訳ありません、テスト前の貴重な時間に」
倉見は川岸の手元にある地図を見て、
「タクシーの仕事って地理に詳しくないとダメみたいですね。私、このあたりの地理にうといので、走行中に私のハト達を使おうと思っています。目的地までのナビをしてもらおうと。タクシーに乗りたいお客をハトに探してもらうのはちょっと反則でしょうかね」
ギンレイも川岸もある程度の距離までは霊力を使って透視も「タクシーに乗りたい」人の心を感じ取ることもできる。ただ、それは普通の人間から見ればフェアな営業活動ではないかもしれない、と、思っている。
倉見が、
「三日間の研修でいくつかの不安は消えましたけどね。ハイヤー協会で脅かし半分に言われていたような事件は実際にはほぼ無いことがわかって安心しましたよ。車には防犯カメラもついていますし、緊急警報の装置もついているんですよね」
防犯カメラや緊急警報装置の説明はまだトレーナーの大林からは無かった。夜間走行の説明もまだない。会社によって5日間の研修期間に教える内容は違うようだ。
ハイヤー協会では「困ったときの対応」についての説明が多かった。タクシー強盗に遭ったとき、泥酔した客が目を覚まさないとき、料金を払わない乗り逃げ、ブレーキを踏んで頭をぶつけたどうしてくれる、などのクレーム。
「うちの会社の研修でも深夜に山奥へ行ってくれ、って実際にあった話をしていましたよ。ドアにわざと指をはさむ客の話とか、乗り逃げの常習犯が西南地区にいるとか、でもそんな人は極めて稀らしいです。私のところの教育係さんが言っていました」
ギンレイはタクシー強盗が出ても撃退する自信があったので、特にそのへんの講習内容については気に留めていなかった。昨今、タクシーにはドライブレコーダーや防犯カメラが装備されていることもあって、昔の実際はどうだったかわからないが乗り逃げや強盗の類はいまは激減しているようだ。そういうトラブルが無くなっているのは人間のドライバーとしてはありがたいことであろう。
「でも一番困りそうなことは地理不案内で客から怒られることだと聞きました。北辰斜め通りって知っていますか?」
ふたりは首をかしげる。
「この界隈では有名な道なんですよ。区役所から駅へ向かう人がよく使う道。斜めに走って時間も距離も削減できるから料金を安く抑えられるんです。でもその道を知らないとか、その道を通らなかったとかで激怒するお客は本当に多いようですよ」
それは大いにありうる話だとギンレイは思う。故郷でもホテルからシナの木通りへ杖をついたシカのおばあさんをおんぶして送ったときに人間の作った林道を走ってひどく怒られた。ホテルを出てすぐの沢をあがって曲がりカエデの木を左に入ってすぐの獣道を使った方がずっと近かったのに、と散々に言われて謝った。
「道路ならまだ地図を見る時間をくださいと言えば許されるかもしれませんけど、建物の名前を言われたらどうするか、って今からいろいろ勉強していますよ。ナポリに行って、って言われたらどこへ行きますか?」
ナポリと言えばイタリアだが、イタリアまでタクシーで行く人間はいないだろう。お店の名前としたらイタリア料理店か?首をかしげている二人に、
「このあたりでは有名な交通の要衝に建っているパチンコ店ですよ。江南へ向かう国道と東区へ向かう北栄通りが交わる交差点にあります。ナビにナポリって入力しても出てきませんから」
「新人乗務員にはデビュー前に覚えきれません」
川岸が困ったように立ったままの倉見を見上げる。
「だから接客が重要になってくるんですよ。うちの会社では『ここからどちらへ進めばよいですか』と乗客に聞く、そうすると『右へ行って、左へ行って』と、目的地までの道順を教えてくれる人がほとんどだって言いますよ。道を一番よく知っているのは乗客ですからね。でも客に聞かずにスイスイ目的地へ行けたらカッコいいですよね」
今日のテストは無線センターとの相互確認に加えてナビでの誘導もある。実際の乗務中に地元で有名でもこちらが知らない地名や施設名を言われたときには確かに困るかもしれない。素直に「知りません、教えてください」と言ってよいものだろうか。研修期間に覚えたのは「空き地」と「佐藤様宅」くらいだ。
「テスト、頑張ってくださいね。それではこれで」と振り向いた背中に川岸が、
「倉見さん、また情報交換しましょう。私の愚痴も聞いてくださいね」
倉見は「承知しました」と言い研修棟を出ていく。ギンレイ達の会社と倉見の会社は距離にして2キロほどしか離れていない。この10キロ圏内にタクシー会社は6社ほどもある。そのうち地域防衛隊に所属している会社は3社ある。
研修開始の時間丁度にトレーナーの大林が入って来て今日の説明をする。
「では川岸さんから先にスタートしていただきます。最初の立ち寄り地点はお二人とも例の空き地です。銀さんは川岸さんの10分後にスタートしてください。空き地に到着して空車ボタンを押していただくと次のお客様宅へ行くよう住所が無線機とナビに示されます。次のお客様宅に着いたら住宅の表札のお名前を無線センターに連絡してOKであれば1軒目の課題クリア。2軒目の立ち寄り地点が無線で案内されます。課題は空き地を除きおひとり18ヶ所ですが空き地以外はお二人それぞれ行先が異なります。つまり、本日お二人にはこのエリア36ヶ所を訪問していただくことになります。目的地がみつからないなどトラブルが発生した場合は都度、無線センターと相談してください」
研修初日に配布されたしおりをもとに説明を受ける。今日のお客様宅への訪問時は表札の名前をセンターへ連絡するが、実際の乗務ではいちいち表札の名前が誰であるかのセンターとの相互確認はしないものらしい。お客様宅を見つけたらインターホンで挨拶をし、車まで誘導して乗車させるのみ。そもそも実際に無線センターへ電話で注文がある場合は自宅からの出発とは限らない。路上やスーパーマーケットの出入口付近、銀行、病院、などで待っている客も多いという。
「実際の乗務では指示された場所でお客様を乗せてお客様とのお約束が果たせたかどうかについてセンターでは、車両のメーターが『迎車』から『賃走』に変わったかどうかで判断しています。センターでは電話注文を受けた後、車両の動きをモニターで確認し『空車』から『迎車』『賃走』状態になるところまでを注視しています。ドライバーがメーター機を迎車に変えるのを忘れていたり、モニター上での車両がなかなか『賃走』に変わらないのを見たら、『どうしましたか?』と確認のコールをすることがあります。ただ、無線センターもぎりぎりの人数で件数をこなしていますので、道がわからなかったり、お客様のご自宅を見つけられない、などのトラブルは早めにセンターへ現状報告をするよう心がけましょう。センターからお客様まで『遅れているようです』『いま向かっています』などのご連絡をしますので」
出発前、約1時間をかけてトレーナーの大林からは、こんなときはこう、そんなときはこう、なぜならばこうだから、と、丁寧な説明がされた。配布された資料も初日から渡されたまま何の解説もなかったが、いま初めて説明を受けて「そうだったのか」と理解、納得ができる。初日からあれこれ意見を言って申し訳なかった。大林の説明がおおざっぱだったのではなく、言われたことを少しずつ確実に吸収していけばよかったのだと、ギンレイは謙虚に反省する。
「テストの18ヶ所はだいたい2時間くらいでまわれます。それぞれのコースは2か所、公園の横を通るように組み立てられています。トイレに行きたくなったら公園の公衆トイレで用を足してください。その際は、無線センターにもわかるよう、無線機の『休憩』ボタンを押してください」
実際の乗務中、トイレや昼食で車両を離れる場合は無線センターからの緊急連絡や配車手配がドライバーに伝わらないことになる。ドライバーからの応答がない理由をセンターでは画面の『休憩』サインで確認している、とのことだ。
「無線センターでは休憩、迎車の状態ならば無線を発信しません。休憩、迎車の状態が長すぎる場合は、ひょっとしてさぼっているか、もしくは何等かのトラブルか、と想像します。休憩が終ったら休憩ボタンを押しなおして休憩解除をすることを忘れないように。また、迎車からお客様をお乗せしたあとは賃走にすることを忘れないよう、お願いします」
『賃走』はお客様との契約成立を意味する。タクシー利用の契約は「お客様を乗せて走り出してからお客様から代金を頂き降車させるまで」がそれにあたる。
「自分、年のせいかトイレが近いので助かります」
川岸は研修棟のトイレで用を足してから出発準備を始めますと言って外へ出た。
(川岸さんは魚類の精霊かと思ったらやはり人間なのか?)
タコになったり人間の姿で波動を放ったり分身のヒラメを出したりと、川岸の霊的な実態がいまひとつ理解ができないギンレイである。もっとも当の本人、川岸も自分が何者なのか分からなくなりかけているのだが。
ギンレイは人間の姿をしているとき、人間の臓器を使っての飲食をした場合はトイレで用を足すことにしている。人間になりきり人間のなんたるかを学ぶには「トイレで用を足す」は欠かせない営みだと思っている。精霊は人間の姿を借りたとしても飲食物の全ては霊的なエネルギーに変えることができるため、用をたさなくても生活ができる。川岸の場合は「トイレが近い」と言うからには「用をたさなくては生活ができない人間型の精霊」なのだろうか、と思う。
エンジン始動の音がして川岸の車がスタートした。中継地のトイレ付近では魔物が待ち構えているとも知らず。
*
二人はタクシー乗務員としてデビューを果たせるでしょうか。テストのルートに潜むものがあります。
*投稿後の訂正は主に禁則処理によるもので、
内容に変化はありません。




