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しあわせのたくしー  作者: 月美てる猫
14/26

第一節 乗務員デビュー前 新人乗務社員研修 その7

入社したタクシー会社での研修で人間界に潜む闇を精霊の目で見つめるギンレイ。タクシー乗務員の仕事について理解が深まると、会社やタクシー車両への愛着心が人間の意に反した本音として出てくる。


*このお話しは連載中の「しあわせのたぬき」  

 https://ncode.syosetu.com/n8347hk/

 シリーズもの別編です。



第一節 乗務員デビュー前


新人乗務社員研修 その7 生命を運ぶ乗り物



 研修二日目、研修棟の前で「おはようございます」と制服姿の川岸が元気よく挨拶をしてくる。制服姿のギンレイも「おはようございます」と答え、カギがかかっている研修棟の玄関を見て、本社社屋のほうをみつめる。就業30分前ではあるが、

「まだトレーナーさんは来ていません」

 川岸は早めに出勤して研修棟の前で大林が来るのを待ちながら予習復習をしていたようだ。昨日持ち返った研修のしおりを手にしている。

「資料の中に近隣の略図や無線機の扱い方や挨拶の仕方が載っていました。目を通しましたがよく理解できません。やはりトレーナーが言うように実務で慣れるのが近道かもしれませんね」

 研修の中身が薄いことを承知して妥協することにしたのだろうか。

「とにかく車の運転に慣れようと思います。だから今日は早起きをしてずっとクラッチやレバー操作のイメージトレーニングをしていました。マニュアル車も銀さんみたいにスムーズに動かせたら、きっと運転が楽しくなるなって、前向きに考えています」


 ギンレイもマニュアル車の運転には面白みを感じている。ロボットのコクピットに居るアニメの主人公になったような気分になる。「車を操っている感」がある。

 マニュアル車にも良いところがある。「操作ミス」による事故のリスクに関してはオートマ車特有の事故について軽減できる。つまり「ブレーキとアクセルの踏み間違い」「急発進による衝突事故」だ。もっとも昨今のオートマ車はハイテク化が進んで、後方の安全確認ができる「バックモニター」や衝突回避のセンサーによる警告音を発信する機能も装備されている。ただ、モニターも警告音も結局のところドライバーの感覚次第なところがあって、頼りすぎるとかえって目測を誤り事故となるケースもあるようだ。自動車学校でもハイヤー協会での研修も「目視確認」や「動作は最後、点検と合図が先」を強調して指導している。ギンレイはこれまで学んだことを忘れないためにもマニュアル車を使って乗務をしてみたいと思い始めている。


 大林がやってきた。

「おはようございます。川岸さん、空き地へのルートは覚えましたか」

「はい、覚えました。もう大丈夫です」

 大林は研修棟出入口の鍵をあけ、中へと入っていく。「免許証の確認をさせてください」と言って昨日と同様、二人から免許証を見せてもらい、「次にアルコールチェック」と、小型のアルコールチェッカーで呼気の検査をする。席についた二人に向かって、

「今日はたまたまジャパンタクシーが一台空いていましたので、それを使って車椅子を乗車させる訓練と、陣痛タクシーの説明をします」

 という。


 ジャパンタクシーは車椅子に乗ったままタクシーに乗り込むことができる天井が高い仕様の車両だ。欧米で車椅子ごと乗り込める車が量産されていることを受け、日本でもそれに習い、追いつこうとタクシー会社が盛んに導入を進めている。欧米の「車いすで乗れるタクシー」は後方の扉を開けてスロープを出し、車いすを前進させて車に乗り込むことができるものが多いが、日本のタクシーはガス燃料タンクを後部座席の後ろに配置する構造的な都合から後方から直線での乗車はできず、側面のスライドドアを開いてステップまでスロープを外付けし、横から車両に対して直角に車椅子が上がって、車内で90度車椅子を前方へ向きを変えるひと手間が必要となっている。

「わが社ではマニュアル車からジャパンタクシーへの切り替えを進めています。セダンタイプの従来車両では車椅子の乗客については一旦、車いすから立っていただき後部座席へ座っていただいたあと、車いすをたたんでトランクに乗せるということをしています。時間的にはその方が早く乗車していただけます。ジャパンタクシーの場合は、サイドステップにスロープを設置し、後部座席と助手席をたたんで車椅子のスペースを作り、車椅子のお客様を車内へ入れたあとで向きを前方へ向かせ、更に、車いすが車内で動かないようベルトで固定する、という作業をするため、乗車から発車までは少しの時間が必要になります。ですからジャパンタクシーの乗務員にはいつ車椅子のお客様がついても手際よく対応できるよう定期的な練習が必要です」


 マニュアル車をスムーズに運転しようとイメージトレーニングをしていた川岸が複雑な表情をしている。ジャパンタクシーはオートマ車だ。


「陣痛タクシーについてはいわば、いまにも産まれそうな妊婦さんをタクシーで運びます、というお約束のようなものです。産まれそうな妊婦さんは119番通報して救急車を呼んでも基本的に救急車は病院まで運んではくれません。タクシー会社も過去に破水しそうな妊婦さんを乗車させることをためらうことがありました。陣痛タクシーの対応をしますと宣言をしたタクシー会社では乗務員に対して、妊婦さんをお乗せする心得についての指導をしています」

 陣痛タクシー、またはマタニティタクシーと呼ばれる制度については全国的な広がりを見せている。この会社ではジャパンタクシー専門で乗務する乗務員に対してその指導を丁寧に行っている。ただ、この会社はマニュアル車とジャパンタクシーの両方をシフトで乗務員に割り当てているためどの乗務員にもジャパンタクシーで乗務中に妊婦を乗車させる機会があるといえる。新人の二人に対してもこの研修中にその実務内容について教育しようという意図のようだ。


 三人は研修棟を出て、本社社屋前に停めてあったジャパンタクシーの車両前に立つ。

「私が手本を見せます。先ずは助手席と後部座席をたたみます。観光バスの補助席のように」

 そう言って、助手席の背もたれを前方へ倒し、更に座席を前方のダッシュボードへ向かって倒す。助手席と後部座席の間にスペースができる。

「続いて、後部座席をたたみます」

 後部座席の下部にあるレバーを引いて、後部座席を後方トランクに向かって倒す。

後部座席がなくなり、広々とした空間ができる。そして後部座席の下に置かれていた金属製の板があらわになる。

「後部座席をたたむとこの板が見えます。これを取り出し車椅子が通るスロープにします」

 アルミ製の軽い板だが丈夫そうだ。二枚の板を連結させてサイドステップに固定する。

「川岸さん、そこの車いすに乗ってスロープを登って車内に入ってください。銀さんは川岸さんを後ろから押してください」

 車両のかたわらに用意してあった車椅子へ川岸が座り、ギンレイが後ろから押して川岸の乗った車椅子が車内にすっぽり入る。

「それでは銀さんも手伝って、車いすの向きを前方へ向けてください」

 ギンレイが手伝い川岸の乗った車椅子は前方を向く。そして、車いすが動かぬよう、備え付けのベルトで複数個所を固定する。

「これで乗車完了です。それでは交代でやっていただきます」


 慣れればそれほど難しいことはない。ただ、備え付けのベルトや、アルミのスロープが所定の場所に無い場合は焦るだろう。定期的な点検が不可欠と思われる。

 このくらいの軽作業は板前であった川岸にしても、ホテルで丁稚のように働いていたギンレイにしても難なくこなせる。

「では器具類を片付けてシートを元に戻してください」 

 川岸とギンレイが協力してスロープのセットを片付け、席を元通りに戻す。

「二人とも車椅子の扱いは大丈夫そうですね」

 ジャパンタクシーに触れるのは初めてだが、車いすの扱いについては自動車学校でもハイヤー協会の講習でも習っている。

 

「それではこれでジャパンタクシーの車いすについての研修は終了です。次に陣痛タクシーについてです」

 二人をトランクに招き、トランクを開けて奥の方に「マタニティツール」が装備されているのを示し、麻袋の中身を二人に見せる。主にビニールシートと吸水シートだ。

「妊婦さんには陣痛タクシー対象者としての事前登録をしていただくことを推奨しています。ただ、事前登録をしていなくても陣痛タクシーのご用命とあれば近くを走行している車両を向かわせます」

 ギンレイが質問をする。

「事前登録すれば確実に車両を向かわせることが保障されるのですね」

「いえ、そういうわけではありません。それ専用の車両をいつも妊婦さんのそばに待機させているわけではありませんから」

「では、事前登録をするメリットというのは?」

「キャンペーンでグッズをプレゼントしたり、無線センターもそろそろ予定日、という日には意識的な配車をします。事前にかかりつけの病院の所在地も聞いておくので送迎がスムーズです」

「それだけですか?」

「ああ、それと、車両の中で破水しても清掃料金は請求しません。陣痛タクシーと言っても特別な料金は頂戴しません。通常メーターの料金です」

「他には?」

「24時間365日対応できます」

「年中無休も通常料金も他の車両と条件は同じですよね」

「まあそうですが・・・」

「週末の繁忙日などは時間帯によっては配車が困難になることはないのですか」

「・・・それはありえます」

「ジャパンタクシーの空車が近くにいない場合はセダンタイプが行くことになりますか?」

「・・・そうです。・・・お客様のご要望次第ですが」


 なんとなく納得をしていなさそうなギンレイを尻目にトランクをパタンと閉めながら大林は早口になる。

「陣痛タクシーは助産師さんからの講習を受けたドライバーが対応します。いまはそういうものがあるということだけ知っておいてください」

 パタンと閉めたトランクを指さし、ギンレイが、

「そのビニールシートや吸水シートは何のための敷物ですか?」

 うんざり気味の顔をして大林が、

「いや、だから車内を汚さないためです。お客様が気を遣ってタオルなどを持ってくる場合もありますが」

「車内が汚れて何がいけないのですか?」

「は?」

「汚れたってかまわないではないですか?普通のセダンタイプが急行する場合はそれらのグッズは装備していないんですよね?」

「・・・」

 川岸が口をはさむ。

「僕ら飲食店ではお客様が汁物をひっくり返しても、体調不良で口から汚物を吐いても、清掃費用を請求しようなんて発想はありませんよ。まるで汚いもののような扱いではないですか。そんなものを用意すること自体、妊婦に対して失礼ではないですか」

「いや、だから、中には気を遣ってタオルなどを用意される妊婦さんもいて、タオルに代わるものを用意しておくサービスは必要でしょう」

「何と言ってそのシートを敷くのですか。車内が汚れますからとでも言うのですか。そのシートを用意する発想をするあなたは、すでに妊婦さんを迷惑な客と決めつけているのではないですか」

「いや、別に私の発想ではないので。でも車内を汚したくないお客様もいるでしょう・・・」

 ギンレイはハラハラしながら二人のやりとりを見ている。川岸が続ける。

「だいたい陣痛タクシーという呼び名自体に不快感を持つお客様もいるのではないですか。どうして全てのお客様を平等に、扱えないのですか。失禁しそうなお年寄りや、やんちゃな子供、泥酔者、車内を汚しそうなお客なら他にもいるではありませんか。陣痛タクシーだかマタニティタクシーだか知りませんが、どうしてお客様にタオルを用意させるような肩身の狭い思いをさせるのですか。車内を汚したって別にかまわないではないですか」

「・・・」

「だいたい陣痛で苦しんでいる妊婦の手助けは優先と考えるのは当たり前のことでしょう。当たり前のことを当たり前に毎日こなすのがサービス業の本質なのではありませんか。車内を自分の家のように当たり前に感じていただける真心にまさるタオルはないでしよう」

 

 しばらく大林は無言でじっと川岸を見つめる。


 しばらくの「間」は川岸に「しまった、言ってしまった」と気づかせる。


「以上ですか?」

「はい、・・・以上です。すみませんでした!」

 深々と頭を下げる川岸。ギンレイも横で一緒に頭を下げる。


「おっしゃることはごもっとも。まだまだもっと妊婦さんに対しても高齢者や泥酔者に対してもいいサービスができないか考える必要はあると思います。ちなみにわが社ではいかなる時もわざとでなければ車内をお客様が汚しても清掃費用は請求しないことにしています」

 大林は時計を見て、

「それでは休憩します。休憩後は昨日の車両で近隣をまわります。ジャパンタクシーでの走行訓練はまた後日行います。先ずは川岸さんに昨日の車両で昨日の空き地まで行っていただきます。休憩後は車両の点検からお願いします」

 そう言って大林はそそくさとその場をあとにする。


 大林の背中を見送り川岸が、

「また言っちゃいました」

「いえ、言い出したのは私ですから」

 ギンレイと川岸が顔を見合わせてため息をついた。マタニティタクシーはよい取り組みなのでそこまで目くじらを立てて意見を言う必要もなかった。お客様が気を遣ってタオルを用意することがあるのならばこちら側からも進んで敷物を用意しておくのはよいサービスだ。ただ実態として多くの妊婦さんにとって信頼してもらえる配車や敷物の運用がされているかどうかが不安であった。妊婦や子育て世代にもっとタクシーを快適に、気楽に利用してもらえる工夫はないものかと思案する。そして、川岸が、

「こうやって考えるきっかけにもなっているし、マタニティタクシーの取り組みはよい取り組みですよね」

「その通り、ですね」


 トレーナーの大林が来る前に車両の点検をする。傷だらけであるのは知っているがボディに新な傷やへこみがないかを見る。ギンレイが川岸に問いかける。

「川岸さん、今日も精霊を出して安全確認を手伝ってもらってはいかがですか」

「ああそうですね」

 川岸がうなずくと川岸のまわりの空気がゆがみ、川岸の中から二匹の魚が出てくる。

「今日はニシンの夫婦です」

「いまが旬ですね」

 ニシンは春告魚といわれる。北海道では春先が旬の魚だ。川岸の顔の前をくるくると嬉しそうに2匹でまわっている。メスと思われる方が少しお腹が大きい。卵である数の子を抱えているようだ。

「うーん、お前達少し元気がないか、無理はするな」

 特にメスの方が身体が重そうだ。卵を抱えているせいか。

 ボンネットを開いて中の点検をしていると大林がやってきて、

「日常点検が終わったら昨日のように川岸さんは運転席、銀さんは後部座席に座ってください」

 そう言って、助手席に入る。


 車両の点検が終わってギンレイは後部座席に、川岸は運転席に着く。昨日と同様、エンジンをかけ、メモリーカードをメーター機に差し込み、乗務員登録をして出発の準備をする。

「昨日と同じコースで、賃走で先ずはコンビニを過ぎて信号から左折して空き地へ行ってください」

 ニシン2匹は川岸の顔の前に浮かび、前方、左右の安全点検を担当する。川岸の走りは昨日よりだいぶなめらかだ。エンストもノッキングもしない。順調に進んで空き地の横で停車し、「支払」「合計」「空車」のボタンを押す。


ププー ププー ププー

 

 無線機が鳴り、機械の音声が入る。

『西区末広西5条1丁目5-20 西本通を北へ進み末広川を越えて信号を右折して2本目を左へ入り3件目左手宅前にて待機』

「何ですかこれは?」

「昨日は空き地の次は佐藤様宅でしたが、今日は違うパターンです。ナビシステムに従って先ずは末広西の方へ向かってください」

 空き地の次は佐藤様宅でイメージトレーニングしていただけに少しパニック気味の川岸。そのまま進もうとするが、

「ちょっと待った、ここでメーターは何にしますか」

「えーっと、迎車です」

 メーターを迎車状態にして、「次は何だったか」と考えていると、

「発進です」

 と大林に言われ、慌ててギアチェンジせずにアクセルをふかすと


 ブオオオオオ


 と空ぶかしのエンジン音が住宅街に響き、あわててクラッチを踏んでギアをサードに入れてアクセルを踏むと、


ガックン、ガックン、


 とノッキングする。ギアをローへ切り替えて前進しようとすると、


「危ない!」


 もたもたしている訓練車を後ろから車が追い越して行く。

「発進するときは必ず左右後方の確認してウィンカーを右に出して更に目視確認の上ハンドル操作、でしょ?」

 一呼吸ついて川岸はミラーと目視で安全確認をし、方向指示器を右に入れて窓の後方を確認して、


ガックン


 またエンストする。


「川岸さん落ち着いて、もう1回」


 一呼吸ついて川岸はミラーと目視で安全確認をするが、


「ニシンが・・・」

「川岸さん、住所ですか?西5条ですよ、ナビに出てるでしょ」

「ニシンが・・・」

「川岸さん頭大丈夫ですか、また後ろから車が来ていますよ」


 車中に浮かんでいるメスのニシンがフラフラしながら苦しそうにもがいている。雄のニシンが近寄って身体をさすっている。下腹部からキラキラしたものが出てきた。産卵が始まったのだ。


「これは・・・」

 後部座席のギンレイも目を見はった。キラキラと光る無数の粒が車中に舞って幻想的な光景になった。宝石がちりばめられたようだ。ひとつひとつの輝きを目を凝らしてみると光の粒の中に美しい精霊が宿っている。


 ニシンの姿もこの幻想的な光景も助手席の大林には見えない。一向に進まない車両に業を煮やし大林が苦言を並べる。


「川岸さん、あなたやる気があるんですか。屁理屈や能書きばかりで肝心なことはひとつもできていないじゃありませんか。人の言うことを何一つ聞けない、小学生でもわかるような道順を理解しようともしない。ほら、またギアをサードに入れている。何度言われたらわかるんですか。そもそも会社を出たときから・・・」


 あまりの美しい光景にみとれたまま大林の言葉は何も耳に入らない二人であった。


 メスのニシンの様子がおかしい。川岸が心の中でニシンに話しかける。


(ありがとう、よく頑張った。何もしてやれなかったが、大好きだったよ)

メスのニシンが倒れゆっくりと川岸の膝元へ落ちていく。雄のニシンもふらふらしながらメスのニシンを追うように倒れていく。

(ふたりともありがとう。ずっと忘れない、ふたりとも大好きだよ。ありがとう、さよなら)


「うっ、うっ、うっ・・・」


 川岸が男泣きに泣いた。苦言を吐いていた大林が意表をつかれ助手席で驚いている。


「か、川岸さん、どうしました・・・」


「ううううっ、・・・」


 川岸がハンドルに身体を預け、おいおいと泣いている。


「少し言いすぎたか・・・」


 大林が声を荒げたことを後悔している。


 ギンレイが念を入れて問いかける。


(川岸さん、気持ちはわかるが仕事中です。そのニシンはどうしましたか)


(ぐすっ、死にました。産卵を終えて、たくさんの子供達に見送られて、旅立ちました)


(川岸さん、2匹とも生きていますよ)


(うううっ、死にました。産卵したら魚は死ぬんです)


(川岸さん、鮭じゃないんだから、ニシンは何度も産卵しますよ)


(・・・えっ?)


(ちょっと疲れて休んでいるだけだと思いますよ)


「・・・」


「川岸さん、私が悪かった。ついかっとなってしまって。私はお二人に無事にこの研修を・・・」


「よかった、生きていた。そういえば、そうだった、てっきり終わったと思って」


「・・・」


 ニシンの父親に誘導されて子供達は川岸の耳や鼻や目から川岸の中へ入っていく。ニシンの夫婦は再び川岸の顔の前に浮かんで左右前後の安全確認をする。


 ブオオオオオ


 突如訓練車は空ぶかしの排気音を路上に響かせ、


 グオオオオオン


 スピードを制限速度まで上げて右左折を繰り返し、ピタリと指定された番地の「3件目左手宅前」に止まる。


「・・・お疲れ様でした。・・・無線センターへ、連絡してください」

 半ば放心状態の大林がつぶやく。川岸が車外へ出て左手宅の表札を確認。表札には「佐々木和夫」とある。運転席に戻って無線機を手に取る。


「訓練車よりセンターどうぞ」

『センターから訓練車どうぞ』

「佐々木和夫様宅へ到着しました」

『訓練車その通り』


 その日とその翌日、二人は交代でこの訓練車を運転し、大林と無線センターの指示する訓練地点への走行をこなした。またオートマ車であるジャパンタクシーの運転についても経験した。明日をテストの前日に控えた就業時間終了間近の研修棟で大林が、

「お二人とも無線の取り方、メーターの扱い方は大丈夫のようですね。川岸さんの運転もだいぶ安定してきました」

「いやあ、そうでしょうか・・・」

 照れる川岸。

「明日のテストはお二人とも合格するでしょう。それほど難しいことではありません。ただ、安全運転でお願いします。明日は車両を2台使います。銀さんは今日まで乗っていた3999号車、川岸さんについてはオートマ車を用意します。私は無線センターでお二人の動きを見ています。明後日は社長面談があります。また、無線機以外の細かい業務内容についてお伝えします。それと」

 そう言って少し大林は間をおいて、


「これまでお二人からいただいていたご意見については可能な限り実現させる方向で検討しています。明日と明後日は清掃や挨拶の練習の時間も設けます。それではお疲れ様でした」


 大林はお辞儀をし、

「訓練棟の鍵を銀さんに預けます。バスなどの都合もあるでしょうから、早めに会社へ着いたときにはここの鍵をあけて中へ入っていてもかまいませんから。今日も退社のときには鍵をかけてお帰りください」

 そう言い、また頭を下げて大林は研修棟を出て本社社屋へと行く。


 研修棟の出入口に鍵をかけて、ギンレイと川岸が外へ出る。朝夕はまだ肌寒いが心地よい早春の風が二人とあの3999号車へ吹き抜ける。


「川岸さんは気が付かなかったかもしれませんが・・・」

「え、銀さん何ですか」

「この車、目があるんですよ」

「目、ですか?」

 川岸が訓練車に近づき中を眺める。

「あ、ニシンの子がまだ中に。おい、もうおうちに帰るぞ」

 車の中で遊ぶニシンの子を眺める黒い点が2つ、天井にあるのだが。

「えーっ、目なんかありますか?あれ、あそこ、ナビに何か?」

 ナビには精霊が宿っていた。ネズミの精霊だった。ネズミの精霊はナビのなかから少し身体を乗り出してニシンの子を眺めていたが、川岸の視線に気が付いてナビの中へともぐりこんだ。この車とネズミは大の仲良しだった。


 もう帰るよ、と言いながら川岸は車内で遊ぶ子供達を見ている。産まれてきたばかりの生命はけがれが無い。とてもキレイでとても美しい。

 ギンレイも川岸も車もネズミも、そう思いながらこのキズだらけの車の中で遊ぶ子供達を眺めていた。




ギンレイも川岸さんも、タクシー会社での研修と実務で少しずつタクシーの仕事が好きになっていきます。トレーナーはじめ会社の「人間達」も3999号車も、少しずつ2人に心を開いていくのかもしれませんね。


*このお話しは連載中の「しあわせのたぬき」  

 https://ncode.syosetu.com/n8347hk/

 シリーズもの別編です。

 

*投稿後の訂正は主に禁則処理によるもので、      内容に変化はありません。

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