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しあわせのたくしー  作者: 月美てる猫
13/26

第一節 乗務員デビュー前 新人乗務社員研修 その6

初めて運転するタクシーの車両。研修の内容に不満を持つ二人。会社の欠点を共感しつつギンレイは同期新入社員、川岸の隠れた霊的才能を見出す。


第一節 乗務員デビュー前


新人乗務社員研修 その6 マニュアル車の精霊



 そんな話をしていると休憩時間はあっと言う間にすぎる。トレーナーの大林がやってきて、「それでは川岸さんどうぞ」と言われ、川岸は車の外周やボンネットの中など、午前中に行ったことを思い出しながら「日常点検」をこなし運転席でエンジンをスタートさせる。

 乗務員登録をし、指数の書き取りをし、「ではスタートしてください」という大林の指示で車を動かすが、


ガックン


 エンストをした。焦る川岸。

「川岸さん落ち着いて、クラッチはゆっくりあげてください」


ガックン


「川岸さん深呼吸しましょう。クラッチは半クラッチでスタートしてかまいませんからね」


ブオオオオオ


 空ぶかしの排気音を響かせ、ノッキングをしながら車が場内を出ていく。


「危ない!」


 車道に出ようというとき、左から自転車が車の前を通過する。

「右左折のときは左右の安全確認を必ずしてください。特に左からくる自転車は危険です。タクシーと自転車の衝突事故は左からくる自転車との衝突が多いんです」

 自動車は左側通行なので駐車場から車道へ出る際、ドライバーは右から来る車両への注意を怠らないが、左から来る歩行者や自転車への注意が散漫になることがある。


 川岸がヒラメを出した。運転席から後部座席に背びれが突き出てくる。


 川岸が車道に出て間もなくトレーナーから午前中にギンレイが進んだコースと同じコース指示が出る。

「川岸さん、次、左折ですから」

 ヒラメの目で安全確認をする。ヒラメの目は左を向いている。川岸は人間の目で右を確認する。左折はうまくこなす。


「川岸さん、次の信号、右折ですから」

 ヒラメの目で左を注視するが、信号のある交差点を右折する際はむしろ右に気をつけなくてはならない。

「気を付けて川岸さん、横断歩道のベビーカー」

 右折しようというとき、川岸はクラッチ操作に意識がいっていて、右後方から横断中の歩行者に気が付くのが遅れる。あわててブレーキを踏み、


ガックン


 交差点内でエンストする。焦る川岸。


ブオオオオオ


 空ぶかしの排気音を路上に響かせ、


ガックンガックン


 ノッキングをしながら車が交差点を右折で通過する。


「川岸さん、ギアが3速です」


 川岸はギアをローへ入れなおそうとするがクラッチペダルを踏み損ないまたエンストする。信号が変わり、後方から来る車からクラクションを鳴らされる。焦る川岸。後方からくる車が訓練車を追い越ししていくのを見送り、川岸は深呼吸して車を直進させる。


「川岸さん、次はコンビニを超えて次の信号を左へ。直進して空き地の横で停車です」

「はい」

「もう少しスピート出しましょう。後ろの車がイライラしていますよ」

 そう大林がイライラしながら言う。ルームミラーから後ろを見ると数台が訓練車の後ろについている。


 コンビニを超えて次の信号を直進する川岸。


「川岸さん通りすぎましたよ」

「はい、空き地を探しています」

「川岸さん、コンビニを過ぎたら左折ですよ」

「はい」

「川岸さん」

「はい、コンビニを探しています」

「川岸さん」

「はい」

「一旦会社へ戻ってやりなおし」

「・・・」


 川岸の運転する車は会社へ戻り、

「10分休憩しましょう、備え付けの地図でルートの確認をしておいてください」と、言って大林は社屋に入る。タクシー車両には地図の備え付けが義務付けられている。地図を取り出し会社から空き地を経て佐藤さん宅まで行くルートをヒラメと一緒に確認する。ギンレイが、

「川岸さん、ヒラメをもう一匹出して右のほうを見てもらうことはできますか?」

「できなくはないですが、ヒラメは右を見るのが苦手です」

「ではカレイを出すことは」

 ギンレイは「左ヒラメに右カレイ」というのを思い出した。


「出てくる精霊は一種類だけなんです。今日はヒラメの日なんです」

 そう言いながら落ち込んでいるヒラメを慰める川岸。


「ヒラメが助手席のトレーナーを見るのが嫌だと言っていますし、ちょっと座りにくいかもしれませんが、身体を正面に向けて座らせて前方の安全確認に集中してもらいます」

「・・・それは・・・いい考えですね・・・」


「でもね、銀さん」

「はい」

 駐車場に停まっている乗務員募集とプリントされた車両を見つめ、

「応募してくる素人への研修ってみんなこんな感じなんでしょうかね」


 確かにそうだ。ハイヤー協会で知り合った同期で他社の人達も研修期間は最速で10日と異口同音であった。研修はスケジュール同様、内容もみな同じなのだろうか。タクシー会社各社は乗務員を募集して育てる気風にはないのだろうか、とさえ思ってしまう。


 休憩時間中にヒラメと運転席の体制を整える。ヒラメの背びれは助手席を向き、身体が正面を向く。後部座席のギンレイからも、運転席の川岸からも前方の視界が遮られているように見えるのだが、

「視界良好、これでいきます」

 川岸が振り向いてにっこり笑った。ヒラメが身体をピクピクと細かくゆすり張り切っている。


 大林が助手席に乗り込み「それではエンジンをかけてスタートしてください」と言われ、訓練が再開される。

 ヒラメの精霊から見える景色は川岸にも連動しているようだ。ヒラメの目と川岸の目、四つの目で安全確認をする。ヒラメに前方を見てもらいながら川岸は左右やカーナビの画面を見ることもできる。


 しかしヒラメは運転を手伝うことができない。ドライバー歴の浅い川岸はマニュアル車のクラッチ操作に手間取り、信号待ちで停車しては、


ガックン


ブオオオオオ

 

 を、繰り返す。

 

 大林はイラだち、

「川岸さん落ち着いて。また4速のままですよ。停止したらギアをニュートラルにして」

 

ブオオオオオ


「川岸さん、ニュートラルのままですよ、落ち着いて」


ガックン


「川崎さん、ペダル踏まないとギアチェンジできませんよ」


ブオオオオオ


「川崎さん、後ろから車が・・・」


「トレーナー、少し黙っていてください!」


「・・・」

 

 運転はたどたどしくはあったが、何とか川岸が運転する訓練車が空き地の横にたどりつく。無線機が鳴って次の目的地が示される。


「あれえ、このナビ、直進してゴールになっていますが・・・」

 川岸が地図を取り出して地図を見、ヒラメがナビの行先と無線機の住所を見る。


 ナビシステムに表示された佐藤さん宅が真っ直ぐ前方にあることになっている。無線機の液晶表示に出ている住所と異なる。


「まあ、とりあえずナビの通りに進んでください。進んでいるうちに再計測してルート変更になると思いますから」


 ナビシステムにはドライバーがナビの示すルートからそれるとルート変更をして新なルートを画面に示す機能がついている。「はいわかりました」と川岸は直進する。背びれを助手席に向けて正面を見ているヒラメも直進はわかりやすいようだ。

 ナビが示したゴール地点に着くとナビのルート変更がかかり、左へ直進となる。左折して直進する川岸。次のゴール地点に着くと、またナビのルート変更がかかり右折して直進する。

 少しずつ目的地、佐藤さん宅前に近づきつつあるものの、トレーナーの大林が苛立ち、

「ちょっと停めてください」

 と言って車両を路肩へ停車させると、ナビの画面をいろいろと触り始める。

「変だなあ、無線機と連動していないのかなあ」

 そうつぶやいていると、


ブオオオオオ


 突如訓練車は空ぶかしの排気音を路上に響かせ、


グオオオオオン


 スピードを制限速度まで上げて右左折を繰り返し、ピタリと、佐藤さん宅に止まる。


「・・・」「・・・」「・・・」


 ナビを操作するのをやめてトレーナーの大林は助手席から佐藤さん宅を見、そして運転席の川岸の顔とハンドルを握る手と、クラッチやブレーキのへダルがある足元を見る。


「川岸さん、表札の確認」

「は、はい」


 川岸は運転席から外に出て、表札を目視し、無線機を手に取って、

「訓練車よりセンターどうぞ」

『センターから訓練車』

「訓練車より目的地は佐藤さん宅です」

『訓練車その通り』


 しばらく「何が起きたのか」と、ポーッとしている大林。

「トレーナー、どうしますか、帰庫しますか」

「ええ、はい」


 川岸が運転する車は会社の大きな倉庫へ入って、車両の閉局と、メモリーカードの指数をメモし、清算を終えて駐車場に戻る。その後、訓練棟に入って、営業日報の書き方、現金処理の仕方などの説明を受ける。


 就業時間終了の時刻が近づき、大林が、

「今日おふたりに教えたことについて明日以降教える機会はありませんから。それぞれで復習しておいてください。明日と明後日は佐藤さん宅以外に試験で立ち寄る場所をまわって、停車する際の注意事項をお教えします。佐藤さん宅はじめ、立ち寄り場所についてはそれぞれお住まいの方には許可を得ています。いずれも無線センターにとってはお得意様です。とにかく無線が入ったらその指示に従って確実に乗務をこなすことをマスターしていただきますから」

「はいわかりました」

 午前中は大人げなかったと反省するギンレイが素直に返事をしたが、


「トレーナー、質問があります」

「川岸さん何か」

「洗車の仕方、ゴミの分別、シートカバーの交換、無線以外でのお客様対応の仕方などはいつ教えていただけるのでしょうか」

「それぞれ実務の中で覚えてください」

「納得できません」

「はっ?」

 休憩時間はギンレイと「組織に従う」ような確認をした二人だったが、川岸の硬化した態度を見て少しギンレイは戸惑う。まさか運転がうまくいかない自身へ苛立った態度を見せた大林への腹いせではないだろうが。


「この研修はテストを無難に終えるための研修なのでしょうか」

「テストを無難に終えたほうがいいですよね」

「内容は無線のことしかないのでしょうか」

「無線の使い方以外は車を動かして接客をするくらいですから、無線さえマスターしてもらえたらいいと思いますが」

「接客をして大切なお金を預かる、タクシーの仕事はサービス業ですよね」

「その通り」

「では挨拶はじめ接客の訓練も必要です。お金の受け取り方、お金の管理の仕方はいつ学ぶのでしょうか」

「実務をこなしていくにつれて身に付きます」

「そもそもこれは研修と言えますか。会社の生い立ちや関連会社含めた概要、社長以下の組織図、具体的な部署名、役職者氏名などの紹介が最初にあるべきではないでしょうか」

「各部署の仕事は各部署で完結していますからね。何かわからないことがあったら聞きに行けばいい」

「組織が縦割りということですか」

「その通り」


 開き直っているのだろうか、面倒くさいのだろうか、大林が「だからどうした」という表情で見ている。

「その通り?それであなたはいいと思っていますか。実務をこなして覚えるだなんて、定期的に教育をするカリキュラムはあるのですか」

「この研修が新人教育の機会ですが」

「これで教育と言えますか。会社を取り巻く情勢、強みや弱み、外的な脅威などを分析している人はいるのですか?組織が縦割りだから各部署間の交流もなく、せっかく得られている無線による顧客情報や、苦情に関するケーススタディのとりまとめなどもされていないのではないですか?だからこんな薄っぺらいカリキュラムであとは適当にやってくださいレベルの指導なのではないですか?」

「・・・」

「だいたい現場経験のない人間が無線を入れて顧客を現場に任せている、『その通り』だなんて、高飛車な態度で現場の乗務員を動かしている。こんなことでいいとあなた、思いますか?」

 しばらく大林は無言でじっと川岸を見つめる。しばらくの間が川岸に「しまった言ってしまった」と思わせる。


「以上ですか?」

「はい、・・・以上です。すみませんでした」

 深々と頭を下げる川岸。


 川岸は郷に入り手は郷に従え、と自身に言い聞かせ、投げやりとも思えたトレーニングの仕方に堪えていたのだ。川岸としても研修のありかたへのジレンマを感じていた。運転がうまくいかない自分への苛立ち、なによりヒラメに肩身の狭い思いをさせたことを悔いていた。板前だったときは後進の指導は整理整頓や清潔、清掃と、論理的に筋道をたてて丁寧に教えていたのだろう。そうギンレイは思った。

 新入りには適正があるなしにかかわらず「わからない」相手の立場で「こうだからこう」と理解納得を得ながら、まずは基本中の基本である掃除を見につけさせ、掃除をすることによって何故その道具がそこに置いてあったのかを感じてもらい、それが安全で安心な調理、お客様にご満足をいただくことにつながる、最初の行程であることを理解してもらえる。

 ギンレイが生まれ育ったホテルの厨房もそうだった。料理長のヒグマは厳しくとも優しい指導者だった。よく新入りの意見を取り入れ、人間のコンサルタントも入れてチームで業務改善に取り組んでいた。タクシーのように個人プレーがあたりまえと言われる業種と、チームプレーの厨房とは勝手が違う。だが、今日の無線センターとのやりとりを実感して、タクシーも決して個人プレーではないことがわかった。何らかの連携、コミュニケーション力の強化という視点で、もっといい運営を目指せるように思う。


 机に着席して頭を下げている川岸を直視せず、立ったままの高さで視線を前に大林は、

「それでは今日の研修は終了します。川岸さんについては無線以前にマニュアル車の練習が必要と思いましたので明日のメニューは、無線の取り扱いよりも運転技術向上の内容を少し取り入れようと思います」

 多少は川岸の提言を聞き入れる姿勢なのだろうか。


「当社の車両は全てがマニュアル車というわけではありません。むしろオートマ車の保有台数の方が多い。ですが、シフトの交代制で車両を使いまわしする都合から既存のマニュアル車も乗りこなしていただいたほうがありがたい。それに、新人さんには新車を与えないという悪しき慣習もあって、訓練車両も最初に乗務する車もマニュアル車であることが普通です。まあ、川岸さんにはオートマ車に乗ってもらうよう、向こうの支店長には話しておきますが」

 川岸が恐縮してまた頭を下げる。


「当社に社員用のロッカーはありません。制服は持ち返ってください。制服を着たまま帰宅してけっこうです。明日は朝から制服姿で出勤願います」


 大林は先に立って研修棟を出る。二人は机の上の書類を鞄に詰め、制服を着て脱ぎっぱなしだった私服を抱えて研修棟を出る。大林は無言で研修棟にカギをかけると本社社屋の方へ歩いて行った。


 大林の背中を見送り、二人は研修車の前へ行く。川岸がため息まじりに、

「つい言っちゃいました」

「いいと思いますよ。きっとこの会社はまだまだよくなりますよ」

 はあっと息をついて川岸は、

「さきほどは運転ありがとうございました」

「運転?」

「ええ、私のかわりにコースを運転してくれたんですよね」

「ああ、それはこの車とナビですよ」

「え?」


 無言の車に夕日がさしている。二人の長い影が車へ伸びている。気のせいか、傷だらけの車がため息をついて笑ったように見えた。




タクシー乗務員の研修初日が終わりました。この会社の運営、営業部門はどちらかといえばカイゼン意識が希薄な社風のようですが、少なくとも車の1台とカーナビの1台は2人の奔放なふるまいに付き合ってくれそうです。

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