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期待なんてされない方が

 薄明るさがやけに目に眩しかった。真っ白なカーテン。白壁。魔力灯は目が潰れそうなほどの白色を発している。酸味の強い珈琲の香りがやけに鼻孔をついた。 


「やあジェーンくん。目が覚めましたね」


 マハットの声だ。

 ゆっくりとジェーンは身体を起こす。ぎしし、と軋むベッドの上。清潔そうなシーツ。訓練着のまま横になっていたようだ。


「先生、私、どうしてここに?」

「覚えてないのですか? エリサくんに、こてんぱんにやられたらしいですね。セシリアくんが血相抱えてキミのことを担いで来ましたよ」

「ああ、そうだったんですのね。――痛たたた」


 脇腹がジンジンとする。

 訓練着の裾を捲って見れば、そこは青紫色に鬱血していた。


「久しぶりにジェーンくんの怪我を看ましたよ。まあ、特別異常もなかったので治療いえるようなことは何一つしていませんがね。どうします? 活性化の魔法をかければ内出血も早めに消えますけど、副作用で痒みが止まらなくなるかもしれないんでおすすめはしませんね」

「ええ……、たぶん、大丈夫ですわ」


 ジェーンは鏡を覗き込み確認をする。地面に転がったときに腕や足には擦り傷がついたみたいだが、顔に傷は見えない。

 目も鼻も頬も、大丈夫、昨日と同じ。


 よかった。顔には傷が付かなかった。


「懐かしいですね。昔はよくジェーンくんの怪我を看させられたものです。伯爵殿下は僕の都合なんか気にせずに、君になにかあると僕を呼び出すんですから。いやあ、正直いうと良い迷惑でしたね。まあ、伯爵殿下にはたくさん研究費用を寄付していただいてるんで面と向かって文句なんて言えないんですけどね、あははは」

「研究費用……。ここが先生の研究室?」

「……いいえ、研究室は別の場所ですよ。ここは学舎の保健室です。僕は研究者であり、教師であり、軍医でもあり、そして養護教諭でもあるというわけですね。人使いが荒いですよねえ、本当に」


 マハットは笑いながら鉄製のカップに黒い汁を注いだ。彼の身体からいつもするのはこの飲み物の香り。帝国植民地、南方の熱帯地域の島々から取れる赤紫色の豆。その豆を焙煎し温水で抽出した珈琲は、現在、一部の帝国貴族で流行している嗜好品だ。


「ジェーンくんもいかがです?」

「結構ですわ。私は苦いのダメなんですの」

「砂糖やミルクを落としても美味しいですよ。うん、実にいい。この香り、いつまでも嗅いでいたいものです」


 ジェーンにはその味の良さが分からないが、マハットは浴びるようにがぶがぶと飲んでいる。部屋中にガラス製の機材が並べられていて、自分で豆を焙煎や粉砕の作業も行っているのだということが分かる。


「先生、そんなことより、私どれくらい眠っていたのかしら。演習初日からこんなところで休んでたら先生方に失望されてしまいますわ」

「失望だなんて、面白いことをいいますね」マハットはずるるとわざと音を立てるようにして珈琲を飲んだ。「キミがプロフィトロール伯爵の意向で入学したことは教師陣にとっては周知の事実ですよ。誰もジェーンくんに候補生としての期待はしていないでしょうね」


 ジェーンは口をつぐんだ。

 マハットは昔から良くも悪くも嘘をつくことがなかった。無駄に言葉を取り繕うこともなかった。それがジェーンの父伯爵に気に入られている理由でもある。彼がそういうのならそうなのだろう。ジェーンもそれは否定できない。娘の素行を問題視した父によって、自分は士官学校に送られた。その事情を知っている教師たちからしたら、ジェーンに期待などしないだろう。


「ずいぶん、はっきりいいますのね……」

「悪い風にとらないでください。僕はジェーンくんにとってはその方がいいと思ってるんですよ。変に期待なんてされない方が、ね」

「どういうことですの……?」


 マハットは冷却ボックスの中から瓶を取り出した。氷属性の魔法によって半永久的に飲み物を冷やし続ける箱だ。

 栓を、ぽんっ、と引き抜いてジェーンに手渡す。瓶入りの木イチゴジュースだ。


「期待値なんてされない方がいいんですよ。それはキミもよく分かっているでしょう。社交界の華。大陸一の美姫。そんな肩書きがキミに何を与えてくれましたか? 期待なんてされないほうがいい。その方がよっぽど自由ですよ」


 ははは、と小さく笑いながら、マハットはカップを口に運んだ。ジェーンもそれに合わせて瓶をくわえる。木イチゴジュースは酸っぱくて、甘くて、とても冷たかった。


 マハット・リュウ・エクレアはかつて神童と呼ばれていた。


 彼は魔法士の名家エクレア伯爵家の五男として生まれた。他の兄弟達も幼少から魔法の才能を開花させていたが、マハットの場合は文字通り桁が違った。


 ナイフやフォークよりも先に魔法を使って見せたマハットは、五歳で名門私立魔法学園に入学することになる。そこで通常十年をかけて学ぶ課程を彼は二年で修得した。魔法士としては最高の特等魔法士を名乗ることを許されることになったのは彼が十歳のときだ。最も等級の低い三等魔法士でさえ、平均して十七、八歳にならねば合格できない試験だ。


 特等魔法士になった後のマハットは、特定の機関には所属せず、実家のエクレア邸で魔法学の研究を行って過ごした。そこでは魔法士界隈に大きな影響を与える魔法理論をいくつも生み出した。


 誰もが、マハットこそが二十年後の魔法学会を率いる逸材だと信じていた。

 その日が来るまでは――。


 悲劇というのは唐突に起きるものだ。

 発見したのはエクレア家の使用人の一人。その日もマハットは一人、屋敷にある大きな研究室に籠もっていたはずだった。使用人が彼の姿を認めたのは、屋敷の裏の運動用のプールだった。

 プールサイドに寝ころぶマハット。確かにその日は天気もよく、昼寝にはもってこいの陽気だった。自分も早く仕事を済ませ、使用人部屋で昼寝でもしようと思った。とはいえマハットをそのままにしておくわけにもいかない。風邪をひいてしまうかもしれない。使用人は魔法の才には満ちているが身体が強いとは言えないマハットを心配しながら近付いた。


 錆びた鉄の臭い。黒々とした粘液。

 瞬時にそれが何かを理解するのは難しかった。


 胸部、腹部には無数の切創。背中には重度の熱傷。闇属性の呪詛魔法を何重にもかけられた状態のマハット。

 到底、生きていられる状態ではなかった。


 しかし、首の皮一枚がどうにか繋がったとでも言おうか。彼は生きていた。

 自身の身体に刻んだ自動回復の術式が血液を生成し、傷ついた肺と心臓を動かしつづけていたのだ。助かった。命は守られた。命だけは。


 失ったのは強大な魔力。

 魔力とは、生命力に等しい。死に瀕したマハットは命を得るのと引き換えに魔力を生成する能力を失ってしまった。わずかに残った魔力ソースも傷ついた内臓の機能維持に使用されている。

 今や、彼の保持魔力は三等魔法士以下になってしまった。


 事件の記憶も失っていた。彼の命を狙った刺客がいたことは確かだ。しかし、呪詛魔法の効果か、あるいは心理的なショックからか、事件前後の記憶はマハットの中からすっかり抜け落ちてしまった。

 今を持って尚、犯人は判明していない。彼の才能を妬んだ魔法士か、あるいはエクレア家に恨みをもつ貴族の誰かか。


 果たして神童と呼ばれた少年の才能は、何者かによって潰されてしまった。


「ジェーンくん、社交界では間違いなくキミが一番だったでしょう。でも、当然ながら士官学校ではキミより凄い人はたくさんいる。それは幸せなことですよ。期待されている内は失望されることにおびえなければならないでしょう。でも、今のキミはこれ以上失望される心配なんてしなくていい。ただ、がむしゃらに自分の思ったままに士官学校生活を楽しむといいですよ」


 終業の鐘がなった。朝と夕方の二度、ケルテル学長が鳴らしている鐘の音。

 ああ、とため息をつく。

 午後の講義は終わってしまった。講義初日だというのに。士官学校生活のスタートをベッドの上で過ごすことになってしまった。散々な出だしだ。

 演習のために後ろ手に結わえていた三つ編みを、ゆっくりと解いた。綺麗な髪はふぁさりと音を立て柔らかく広がっていく。


「ありがとう、先生。私、そろそろ行きますわ」


 ことり、と瓶をサイドテーブルに置く。


「そうですか。まあ、また怪我をしたらいつでも僕が看てあげますよ。存分に怪我して下さい」

「もう怪我なんてしませんわよ」

「はっはっは、そうですか。じゃあ、そういうことにしておきましょうかね」


 珈琲の香りをばらまきながらマハットは笑った。

 ジェーンはきりりと痛む脇腹を抱えて部屋を出た。窓のない部屋から出ると、外がもう夕闇に沈んでいるのが分かった。茜色に染まる空。真っ白な雲が静かに浮かんでいる。


「あっ、」


 ため息のような声。

 ゆっくりと視線を投げると、そこには黒髪の少女が立っていた。


「……エリサ……さん?」


 彼女は紐で縛った教科書の束を脇で抱えていた。その漆黒の髪は窓の外から漏れ入る夕焼けの色を跳ね返している。


「もしかして……、私の様子を見に来てくれたの?」

「まさか。そんなんじゃないわ」エリサが漏らす息は色に例えるのならば青色のように、ジェーンには思えた。「一応、顔でも出しとかないと外聞が悪いと思っただけ。貴女に逆恨みでもされたら敵わないもの」

「逆恨みだなんて、しないわよ」

「どうだかね」


 エリサはそれっきり黙った。無言で窓の外を見つめる少女。ジェーンよりわずかに高い背丈。すらりと長い手足。彼女の足を包むのは、彼女の髪と同じ色のタイツ。

 沈黙は低く響く。二人以外に人の気配は感じない。目を閉じたら眠ってしまいそうなほどに静かな空間。ぽっかりと自分とエリサだけがそこに浮かんでいるかのような錯覚を、ジェーンは覚える。


「貴女、やっぱり弱いのね」


 静かさを破ったのはエリサだった。挑発をするような口ぶりでいってくれれば、幾分かジェーンにとってはマシだったろう。まるでそれは一足す一を二とでもいうような調子でいうものだから、ジェーンの心はひどく揺れた。


「……悪かったわね」

「いいえ、別に悪くないわ。ただ少しがっかりしただけ」

「がっかり……?」


 ジェーンはエリサを見つめた。


「どういうこと? 私のこと知ってたの?」

「……知らない人間の方が少ないでしょ。貴女のことなんて」

「それは、悪い意味で……?」

「……そうかもね」


 エリサはそっと髪をかき上げる。彼女の腕は、髪の色とは違い雪のような白さ。ジェーンにはどうしてこんな綺麗な腕から、あんなに鋭い突きが放たれるのか不思議で仕方が無い。彼女につけられた脇腹の痣がきりりと痛んだ。


「あ、貴女!!」


 セシリアだった。どすんどすん、と大きな足音を鳴らし駆け寄ってくる。


「油断も隙もあったもんじゃありませんわ!! エリサさん、貴女!! わたくしが居残りさせられている内に深手を負ったジェーンにとどめを刺しにきましたわね!!」


 ぐいっ、と今にも鼻と鼻がくっつきそうな距離までセシリアはエリサに詰め寄った。


「セシリア、初日から居残りさせられたの……?」

「ふん、どうして士官学校で古典文学の勉強なんてしなくてはならないんですの? 居眠りして差し上げましたわ。……て、そんなことはどうでもいいんですのよ。ジェーン、大丈夫ですの? エリサさんにいじめられてましたわよね!? 見てなさい、わたくしが拳で解決してさしあげますわ!!」

「馬鹿じゃないの、タルティアさま」


 エリサの言葉に、セシリアは鬼のような形相に変わる。


「ば、馬鹿!! き、聞き間違いじゃなければ、エリサさん、こともあろうにわたくしに馬鹿とおっしゃいましたの!? なんという屈辱。許さない。乙女のパンチを食らい遊ばせ!!」

「ちょ、ちょっとセシリア!!」


 セシリアが大きく振りかぶる。渾身の拳。エリサの顔に向かっていく。

 エリサがゆっくりと動いた。少なくともそのようにジェーンの目には映った。飛んでくる拳をゆっくりと横に避け、迫り来るセシリアの勢いを利用して、投げた。


「へ……?」


 ずっどーん、と大きな音を立てて壁に激突するセシリア。くるりとひっくり返り、制服のスカートもめくれ上がり、下着まで晒している。


「セシリア、大丈夫!!」

「……ゆ、ゆるさな、い……」死にかけの虫のように床をのたうつセシリア。「ぶ、ぶっころして差し上げますわ!!」

「ちょっと、何をやってるんですか、キミたち」


 がらら、と引き戸が開いて中からマハットが現れる。すっかり忘れていたがここは保健室の前だった。


「先生、止めないでくださいませ!! 今、この女をぶっ殺すところですので!!」

「え、えぇ……」流石のマハットもセシリアの言動に顔をしかめる。「それは困りますねえ。僕の部屋の前で面倒ごとは……」


 マハットの冷ややかな視線も関係なし。セシリアはバッと立ち上がり、再びエリサに突進する。

 その足がつるんと滑る。


「ぐべ……!!」


 見れば、床の一部分が凍っている。マハットの魔法だ。


「元気なのは結構ですけど、喧嘩でしたら別のところでやってください」

「はい、先生。失礼しました」


 床で伸びているセシリアに代わり、エリサが頭を下げた。


「ええっと……、ああ、キミがエリサくん……。ジェーンくんを打ちのめしたっていうね。ええ、ええ、キミのこと噂で優秀な候補生だと聞いていました。僕も講義で会うのを楽しみにしていましたよ」

「……光栄です」

「うん、まあ、そういうことだから。あんまり騒がしくしないでください。僕はちょっと寝るのでね」


 いうだけいってマハットは部屋の中へと引っ込んだ。後に残されたのはジェーンとエリサと床に転がるセシリア。


「なんだったのかしら、この人は」エリサはセシリアを見下ろす。「本物の馬鹿だったのかしら」

「セ、セシリアはちょっと考える前に行動しちゃうようなところあるから……」

「まあ、いいわ。わたしはこれで行くわ。その人のことは貴女に任せるわ」

「ちょ……、ちょっと待ってよ」


 去って行くエリサを追いかけたい気持ちはあったが、気絶しているセシリアを放っておく訳にはいかない。


「あ、ありがとう。私の体調を心配してきてくれたんでしょう。嬉しかった」


 エリサは足を止めて、ちらり、と振り返った。落ちかけの夕日が目に眩しい。もう夜は近い。


「その人は馬鹿だけど、貴女は大馬鹿ね」


 最後に一言、エリサは残し去って行く。くすり、彼女の言葉に笑いが籠もっていた、そんな気がした。

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