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セシリア・カエデ・タルティア

 航空騎兵学部の学舎は大きく三つの区画に分かれている。


 正門から見て右手にあるのが座学のための教室区画。職員室や魔法実験室、図書館などが密集している。背が低い平屋が迷路のように立っている。

 左手に見えるのが生活のための寮区画。こちらは逆に二階建て以上の建物が点々と独立して立っている印象を与える。食堂や購買、大浴場などもこの区画だ。

 そして正面、最も広い面積を持つのが演習区画。厩舎と乗馬・飛行演習場がある。航空騎兵学部学舎の中心となるエリアだ。


 ジェーンとレイラの二人は寮を出発し中央広場を抜け、その演習区画へ向かおうとしている。広場にはいくつもの馬車が並び、まだ真新しい制服に身を包んだ貴族の令嬢たちが、ジェーンがそうであったように少しばかし緊張したような面持ちでいた。


「あれがプロフィトロール様よ」「あれが?」「ジェーン・マナカ・プロフィトロール?」「あの噂の――」


 ジェーンの姿は人の目をよく惹く。すれ違う人々は皆、彼女を見て声をあげる。


「なんであの娘が」「伯爵に家を追い出されたとか――」「殿方をとっかえひっかえしてるって噂よ」「聖天馬に乗れるのは処女だけよ」「好色令嬢」「淫売令嬢」


 社交界の華であるジェーンは貴族やその従者たちの間によく顔を知られていた。こそこそと噂話されるのは、それこそ慣れっこだ。

 だが、逃げ場のないこの学舎の中では少々居心地の悪さを感じざるを得ない。できる限り、下を向いて歩く。自然と早足になる。


「――きゃ」


 と、何かに衝突した。ジェーンは尻から地面に倒れる。目の前にどさりと束ねられた古書が落下する。


「ご、ごめんなさい……」

「――いえ、わたしも余所見してたから……」


 ぶつかった相手はジェーンと同い年ほどの少女だった。


 すらりした姿勢。身長はジェーンより少しだけ高いか。女性的な曲線美という意味ではジェーンに軍配があがるだろうが、それとは違う凜とした中性的な美が彼女にはあった。

 なによりもジェーンの目を奪ったのは、その髪の色だった。

 社交界ではあまり見かけない、墨を擦り込んだような漆黒の黒髪。瞳の色も石炭のような黒。

 闇夜に似た濃黒に、ジェーンは尻餅をついたまま息を飲んだ。


 士官学校の制服。聖天馬騎士候補生を示すエンブレムを胸につけている。


「あなた……」


 目の前の少女も何やらジェーンの顔を見て戸惑っている様子。じっ、とジェーンを見つめている。


「ジェーン・プロフィトロール……?」

「え、ええ、そうよ。貴女は?」


 少女は答えない。その瞳は鋭くジェーンの瞳を覗き込んでいる。


「ジェーン様、大丈夫ですか!?」


 慌てた様子でレイラが三つ編みを揺らして駆け寄ってくる。

 すると、黒髪少女は足下の本を拾い上げてぷいと方向を変えた。


「失礼」


 それだけを残して少女は去って行く。


「申し訳ありません、ジェーン様。あたしが気をつけていれば」

「大丈夫よ、レイラ。それより、あの子を知ってる?」


 レイラは横に首を振った。

 ジェーンは黒髪少女の後ろ姿を目で追った。学生寮の方へと歩みを進めるその背中。建物の影に消える寸前、ちらりと振り返ってジェーンと目が合う。


 真っ黒な瞳だ。

 吸い込まれそうなほどに黒。

 まるで催眠術をかけられてしまったように、その瞳の色が忘れられない。


「ジェーン様、着きましたよ」


 ハッ、とした。

 上の空だった内に到着していたようだ。


「ここが私たちの厩舎?」

「はい、聖天馬一頭につき一つの厩舎。つまりはジェーン様とあたしの厩舎です」


 それはレンガ造りの大きな建物だった。同じ造りの厩舎がいくつも等間隔で並んでいる。聖天馬を飼育するための厩舎は一般的な平民の住居と比べても大層立派なものだった。

 聖天馬はひどく繊細な生き物だ。ストレスを与えないように広く快適な環境で飼育しなければならない。一定の湿度と温度。明るさ。静かな空間。どれも欠かすことができない重要な要素。

 明るい室内。中は魔力灯が常に光を発している。当然、空調設備も完備されている。外から新鮮な空気が入ってくる。張り巡らされたパイプからは定期的に霧状のミストが噴出する仕組みになっている。


 入り口は聖天馬が翼を広げてもくぐれるほどに大きな扉。人の手では押せないほどの重さ。扉脇のレバーをレイラが押し下げるとゆっくりと門扉は開く。


「パフ、来たよ」


 言いながら、レイラは天馬笛を短く一回鳴らす。


 ――Grr。


 成人女性の肩ほどの体高。背中には白鷺のような翼。額には鋭く尖った角が光る。

 ゆっくりと二人の前に現れたのは紛れもなく聖天馬だった。


「パフ?」

「はい、彼の名前です!!」


 こつん、こつん、とその蹄で床を叩きジェーンの前に立ったパフ。

 そしてその鼻先を、ジェーンの腹部にこすりつけた。


「ひぃッ!!」


 急なことに思わず悲鳴じみた声をあげてしまう。


 ――Ghuhu。


 何度もにおいを確かめるように鼻を鳴らした。

 ひとしきりそれを済ませてから、パフはゆっくりと翼を広げた。左右に大きく広げられた翼は、まるでシーツをかけるようにしてジェーンの身体を包み込んだ。


「な、なに!?」

「それは承認行動です。パフがジェーン様のにおいを覚えようとしてるんです。聖天馬が自分が乗せる人間を認めるために必要な行動なんです」


 パフの名前が示すとおり、その翼は空気を含んだようにふわふわとしていた。まるで羽毛布団のような柔らかさ。


「く、くすぐったい」


 羽の一枚一枚が意思を持っているかのように、ジェーンの身体のあちこち撫でる。

 小鳥が何羽もじゃれついてくるかのような感覚。


 ――Buhuhuhu。


「ちょ、ちょっと!!」


 それはいきなりだった。

 パフはもぞもぞと、ジェーンのスカートの中に顔を入れた。

 ものすごい鼻息がジェーンのスカートの中に吹き込まれる。


「これも承認行動ってやつなの!?」

「……た、多分」


 頬を、胸を、尻をもぞもぞと翼が撫でる。

 そして、


 ぺろん。


「――な、舐め」


 ぺろぺろぺろぺろ。

 スカートの中でパフの舌が何度も動く。まるで巨大な蛇が暴れるかのよう。


「スケベ馬!! スケベ馬だ、この子!!」


 ばたばた、とジェーンが身体を動かそうとするほど、パフはさらに力強く翼で彼女の身体を拘束する。


「ジェーン様!?」

「レ、レイラ助けて!! ちょっと、この子に襲われてる!? 襲われてるわ、私!!」


 と、


「おーっほっほっほ、お久しぶりねジェーン」


 高らかな笑い声が小屋いっぱいに響いた。

 ころん、ころん、と何か丸い物が転がってくるのが視界の隅に見えた。


 途端、


 ――Pufu!!


 パフは翼をはためかせ後方へ跳躍した。そして慌てたように厩舎の奥へと引っ込んでいった。


「相変わらず、殿方に色目を使うのがうまいのね。まさか、人間だけではなくって聖天馬でもお構いなしとは思いませんでしたけれど」

「セシリア!?」


 ふわっとカールのきいた髪を左右に二つ結わえて仁王立ち。

 士官学校の制服は着ているものの、その足を包むタイツには輝かんばかりに宝石が散りばめられている。胸元も指定のネクタイではなく大きなリボンだ。

 開いた扇で口元を隠しながら高笑いを続ける少女。


 セシリア・カエデ・タルティア。


 タルティア公爵家の末女。ジェーンと同い年のセシリアは自称ジェーンの「永遠のライバル」。幼なじみの彼女は小さい頃からよくプロフィトロール家に出入りをしていた。そしてその度にジェーンに様々な勝負を仕掛けてきた。


「どうして貴女がこんなところにいるのよ!!」

「見て分からないのかしら? わたくしも、貴女と同じく航空騎兵学部の生徒になりましたのよ。偉大なる聖天馬騎士の誕生というわけですわあ!! おっほっほっほ!!」


 ふん、と鼻息大きく胸を張るセシリア。両手を腰に当ててふんぞり返るのがセシリアのお決まりの格好だ。

 ジェーンはそんな彼女に詰め寄る。


「そうじゃなくって!! どうして士官学校に入学したのかってこと!! 貴女が士官学校に入学するだなんてそんな話聞いてないわよ」

「あら、それはジェーン、貴女も同じではなくって? わたくしに何も言わずに士官学校に入学して」セシリアはくすすと笑う。「それに勘違いしないでいただけます? わたくしは、貴女がここに入学するからって追いかけてきたわけではなくてよ。わたくしは貴女のライバルよ。貴女より優秀な聖天馬騎士になれるということを証明しなくてはなりませんのよ」

「何それ!? そんな理由で士官学校へ!?」

「あぁら? では貴女はどんな理由で士官学校へ入学したっていうんですの?」


 そのことに関しては、ジェーンはぐうの音も出なかった。

 士官学校への入学はジェーンが決めたことではない。父伯爵とマハット先生が相談もなしに決めたことだ。

 ジェーンはセシリアの入学理由をとやかく言える立場ではなかった。


「ぐぬぬ」

「ライバルであるわたくしと競い合えるのよ。嬉しいでしょ? 嬉しいわよね? 嬉しいに決まってますわ」

「ライバルだなんて貴女が勝手に自称してるだけでしょ!! 嬉しくなんてありませんわよ!!」


 それは少しだけ嘘だった。


 セシリアは気が強くて、口うるさくて、すぐにちょっかいをかけてくる。物心がついた頃にはお互いに泥団子をぶつけ合ったり、お互いの人形を隠したり、つかみあって殴り合ったりもしてきた。


 けど、一番同じ時間を共有してきた相手であることは確かだった。


 ひとりぼっちで知らない環境に放り込まれるのと比べたら、彼女がいることは、ちょっとだけ、心強い、かもしれない。


「これは、オニオ草?」


 二人のやりとりを余所に、レイラが何かを手に取った。転がっていたそれは、先ほどセシリアが投げ込んできた球状の物体だった。

 オニオ草とは肉の臭みを消すためによく用いられる野草だ。広く一般家庭にも浸透した香辛料。独特のツンとした臭いを放つ球は、確かに良く嗅いでみるとその臭いに似ている。


「オニオ草は聖天馬が嫌う臭いを放つのよ。わたくしが手作りしたのよ。躾のためにね」他にも、とセシリアはポーチから次々と道具を取り出す。「こっちは聖天馬が落ち着く香り。これは興奮する香り。全部、わたくしが抽出した成分ですのよ」


 セシリアは昔から香袋や香水を作るのを趣味にしていた。曰く、「香りこそが女の最大の武器」だと。社交界ではそれを体中に振りまいては自分のオリジナルの香りだと自慢していた。


「貴女たちにもわたくしの作品を分けてあげてもよろしいんですのよ」


 ふんす、とまた大きく胸を張り出す。十五歳にしては成長著しい膨らみが、制服のボタンを弾き飛ばそうとするかのようにぐんと弾んだ。


「いらない! 結構! お断りよ!」

「あぁら、そう? 親切で言ってあげているのに、素直じゃないのね」


 と、セシリアは今度はジェーンの後ろに隠れるように立っていたレイラに目を向けた。


「貴女がジェーンのパートナーになる調教士候補生ね」

「は、はい。レイラと申します……」

「ふん、泥臭い顔」セシリアは無遠慮にレイラの頬を撫でた。「肌のケアもしてない。日に焼けた肌。将来シミだらけになってしまいますわ。これだから平民は嫌ですわね。しっかりしなさいな」


 そう言いながら、セシリアは手製の鞄の中から次々と小瓶を取り出してはレイラに押しつける。


「こ、これは……?」

「朝晩、毎日丁寧に顔に塗り込みなさい。女の美しさの八割はお肌の綺麗さで決まるんですのよ。わたくしのような美の女神に愛されていない貴女は、それくらいの努力をしなければいけませんわ」

「そんな、こんな高価な品いただけません」

「ふん、実に平民らしい発想ですわ。いいですこと? どれだけの金塊であっても買えないのが乙女の美しさですわ。逆をいえば、どれだけの代償を支払ってでも守る価値があるものが女の美というもの。それに、貴族が与えたモノを平民が突っ返すなんてそれこそ無礼極まりなくって」

「……分かりました。ありがとうございます」


 レイラは、ぺこりと頭を下げた。

 セシリアが彼女にあげたモノはすべて自身が調合した化粧品だった。彼女の部屋には錬金術師や魔術師から譲り受けた怪しげな調合器具が所狭しと並べられている。植物や動物、鉱物、あらゆるものから香りを抽出し調合し、辺りにまき散らす。


「ジェーン、貴女も欲しい? 頭を下げたら譲ってあげなくもないんですのよ」

「いらないって、いつもいってるでしょ」

「意固地は悪癖ですわ」

「喧嘩売ってる?」

「あ、そうですわ。マニィ、貴女も御挨拶しなさいな」


 黄色のヘアバンドを頭に乗せた少女が厩舎に入ってきた。調教士候補生の制服を身に纏いもじもじ、といった感じで扉の影から飛び出た。


「ジェーン、こちらがわたくしのパートナーとなるマニィですわ」

「セシリアお嬢様と同室させていただく、マニィ・チューインです……。どうぞ、よろしくお願いいたします……プロフィトロール様」


 ぺこりとお辞儀するマニィ。顔を真っ赤に染め、手を低いところでこすり合わせている。緊張の音が聞こえてきそうな程にガチガチだ。


「セシリアと同室だなんて大変ね。いじめられたら遠慮無く私に相談していいんですのよ」

「ちょっと、変なこと言わないで下さいます!? わたくしほどの人格者がそんなことするはずないでしょ!?」

「あ、あの、セシリアお嬢様には大変良くしていただいて……」

「冗談よ。私の数少ない幼なじみですもの。変な子だけど、そういうことはしないわ、きっと、多分、おそらく……」

「そこは断言なさい!!」


 んもう、と頬を膨らませるセシリアと、その姿に他の三人はくすすと笑う。その声に合わせて「Pufu」と厩舎の向こうでパフがひと鳴きする。

 ごほん、と咳払いをするセシリア。気を取り直して、といった感じで腰に手をあててふんぞり返る。


「まあ、そんなことはどうでもよろしくってよ。マニィ、ジェーンと少し二人きりで話がしたいの。そこのレイラを連れて外で待っててくださる?」

「はい……、セシリアお嬢様」


 セシリアはいいながら、レイラにも目で同意を求める。

 公爵令嬢の言葉に逆えるはずもない。マニィとレイラは厩舎の外へと去って行く。残されたジェーンはセシリアの顔をじっと見つめる。


 大きな瞳に、くるんとカールした睫毛。

 見飽きた顔だ。ひょっとしたら親の顔より見た顔かもしれない。


 ジェーンが乗馬を始めたと聞いたら、次の日にはセシリアも馬に乗り始めた。

 著名な剣士がプロフィトロール家で剣術の指導をしていると知るや、セシリアは大陸一の剣聖を雇い剣の修行を始めた。

 アップルパイがうまく焼けたとジェーンが使用人達に手作り菓子を振る舞っているのを目撃しては、自分は巨大なスポンジケーキだとセシリアも料理の勉強を始めた。

 

「それが何よ。今度は士官学校まで追いかけて来て、私の真似っこ?」

「ふん、何のことかしら? わたくしが貴女の真似などしたことはなくってよ。ライバルとして、貴女よりわたくしのほうが優秀だと証明する、それだけですわ」ジェーンはオーデコロンを首元に振りかけながらいう。「何度も貴女に手痛い敗北を喫してきましたのは認めますわ。けど、それもこれまでですわ。貴女より先にわたくしは立派な聖天馬騎士となって、華々しい活躍をしてみせますの!! そして帝国中にセシリア・カエデ・タルティアの名を轟かせるの」


 ぴしり、とジェーンを指さすセシリア。


「そんなこというために二人を外に追い出したの? じゃあ、もう帰っていい?」

「ち、違うわよ!! これ!! これを渡したかったんですの!!」


 そういって取り出したのは、またもや小さなガラス製の瓶だった。中身の桃色の液体がたぷんと揺れる。

 ジェーンはそれを受け取り、訝しげに眺める。何これ? という具合に軽く振り、開封する。


「……あ」


 それは嗅いだことのある香りだった。というよりもいつも側にあった香り。プロフィトロール家のバラ園の匂い。


「貴女のお屋敷のバラを使わせていただきましたの。その香水は入学祝いと思って下さいな」

「…………ありがとう」

「ふん、首元にでも振りかけるが良いわ」


 腕を組んで顔だけそっぽに向けるセシリア。その頬はちょっぴりだけ赤く染まっていた。


「わたくしに何も言わずにいなくなるんですもの。驚きましたわよ。いきなり聖天馬騎士にだなんて。訳分かりませんわよ……」


 きゅっと口の端を噛んだようなセシリアの表情は、長い付き合いのジェーンも見たことのないものだった。


「だからって、こんなところまで追ってこなくたって」

「だって……。約束でしたもの。わたくしたちはどこに行くのもずっと一緒だって……」

「……そう、でしたわね」


 ジェーンは、左右の手首に一滴ずつだけ香水を垂らした。ふわりと広がる香りのヴェールは哀愁の香りといってもいい、肺の奥深くを刺激するような重たい香りだった。


「ごめんなさい、セシリア」

「ほ、本当ですわ。本来ならば不戦勝でわたくしの勝利になるところだったのに、慈悲深いわたくしがこうやって来たことによって、まだ勝負を続けることができるんですもの。ジェーン、貴女は感謝してもしきれないはずですわよ


 そういって笑ったセシリアの目尻からは、ぽろり、と水滴がこぼれたようにも見えた。




※※※




 プロフィトロール家の屋敷には大きなバラ園がある。季節になると紅白のバラが咲き乱れる。父伯爵が時間と金と手間を惜しみなく注ぎ込んだ大庭園だ。


 初夏。

 太陽の光は日に日にその強さを増していく。

 十歳のジェーンはそんなうっすらと汗をかきそうな季節。昼の三時、バラ園の東屋で飲む氷入りのミルクティが大好きだった。水出しの紅茶に新鮮な牛の乳を混ぜて、それからたっぷりとお砂糖を溶かした、甘いお紅茶。

 それさえあれば熱い夏もへっちゃらだった。


 しかし、その日のジェーンは違った。

 バラ園の隅で泣き顔を腫らして、うずくまっている。


 マハット先生の魔法の授業で失敗をしてしまったからだ。それだけではない。その失敗を先生のせいにしてしまった。そしてその現場を父に目撃された。怒鳴られた。


 炎魔法がうまく出せなかった。

 四大属性。炎、水、風、土。それに属する初等魔法を身につけるのは貴族の嫡子としては当然の教養だった。

 特に暗闇を照らす灯火を生み出す初等炎魔法は、何よりも最初に覚えるべき魔法とされていた。


「でないものは、でないのよ!! 私のせいじゃないわ!!」


 どうしても炎が出せなかった。

 怖かったのだ。火が、炎が、その熱さが。


 まだほんの五歳の時だ。庭で使用人と一緒に遊んでいたときにわか雨が降った。それは次第に激しさを増し、雷雨になった。目の前の納屋に落雷した。

 メキメキと音を立てながら崩れていく納屋。炎が雨空に高く昇っていく。

 その光景が忘れられない。立ちこめる焦げた臭い。熱。納屋が崩壊する不気味な音。


 魔法に最も重要なのは想像力。

 炎を出すには炎をイメージしなくてはいけない。

 でもどうしても恐怖がその邪魔をする。


「――ぅう、ぅぅぅう……」


 自分は悪くない。出来ないのは自分のせいじゃない。それなのに御父様は叱る。

 十歳の少女にとってそれはどれだけ悔しいことだろうか。


 だから逃げ出した。勉強部屋を飛びだして、大好きなバラ園へ。きっとマハット先生達が探しているだろう。御父様は、どうだろう? でもいい。もう知らない。


「ここにいましたのね。見つけましたわ」


 びくり、と身体を震わせた。誰もいないはずのバラ園で知らない声を聞いたから。

 振り向くと、そこにはキラキラと輝くドレスを身にまとった女の子が腕を組んで立っていた。


「セシリア……」


 幼なじみの少女。

 子どもには知り得ない事情でセシリアの父公爵は何度も、プロフィトロール家へ足を運んでいる。その度に連れられてやってくるのがタルティア家のセシリア。プロフィトロール家のジェーンと同い年の女の子だ。


「炎魔法が出せないくらいで、べそべそべそべそ。それでもわたくしのライバルかしら?」

「……うるさい」


 ジェーンは見られないようにシルクのハンカチで涙をごしごしと拭った。力を入れすぎて鼻先がスモモのように真っ赤に染まった。

 ライバル、とはいつだったか急にセシリアが使い始めた言葉だった。絶対に負けられない相手だという意味でセシリアがジェーンのことを呼び始めた。


「貴女がそんな情けない姿だと、ライバルであるわたくしの品位まで疑われてしまいますのよ。しゃきっとなさいな」


 そう言って、セシリアはジェーンの顎を持ち、くいっ、と上を向かせる。地面を見つめていたジェーンとばっちり目が合う。涙の溜まったジェーンの青い瞳と、鋭く光るセイシアの瞳。


「ふん、相変わらず憎たらしい顔。涙でぐしょぐしょですわね」


 絹のハンカチーフで涙を拭う。それはもう水たまりに落としたのかと見紛うほどにぐしょぐしょ。

 と、突然それをセシリアがジェーンの手からひったくる。


「な、なにするの!?」


 ジェーンの声を無視しセシリアは囁き始めた。


「――《炎・出でよ・此処に》《其れは・決して・×・害す》」


 それは詠唱。魔法と呼ばれる超常現象をこの世に再現するための手段。


 一節ごとにそれぞれ意味を持つ魔法言語を唱える。

 力ある言葉は世界に一時的に新たな法則を与える。それはまさにルールブックに赤インクで注釈を書き加えるようなもの。魔法とは世界に自分の定めた法則を適応させるための技術だ。


 空気無きところに炎を生み。水無きところに花を咲かせる。


 セシリアの最初の三節で、何もないところから炎が生まれた。そして次の四節でその炎がハンカチーフを燃やした。しかし、ハンカチーフは灰にはならない。その炎は決してその絹布を害することがないという法則をもって生まれたからだ。


 ぴっ、ぴっ、とセシリアはハンカチーフを叩き、炎をかき消す。もうすっかり濡れ布は乾いていた。


「これが貴女の出せない炎魔法ですわ」

「……」

「こんな小さな炎がどうして怖いっていうんですの?」


セシリアは次の瞬間、炎をジェーンの目の前に生み出した。


「きゃあ!!」


 その炎はみるみるうちに広がり、瞬く間にジェーンの身体を包み込んだ。んん、ともはや叫び声さえも出ない。身体が震える。がたがたと歯が音を立て始める。


「熱い? そんなはずはないわよ。それは錯覚。貴女がそう思い込んでいるだけ」


 それは害無き炎。決して人を傷つけない。

 けれど、

 熱い。焼けるように熱い。

 頭では分かっている。これは本物の炎ではないと。

 けど、どうしても、心は恐怖でいっぱいになる。


「《消えよ》」


 跡形もなく、炎は姿を消す。

 はあ、はあ、とジェーンが肩で息をする。冷や汗が滝のように流れている。手足、身体のどこを見ても火傷をしていない。痛みもない。


「――や、やめて……よ」

「ふん、いい気味だわ。貴女にも苦手なものがあるのね」


 ジェーンは何でも出来た。剣も馬も勉強も踊りも。それが、セシリアには面白くなかった。可愛く、それでいてすべてを自分よりそつなくこなす幼なじみのことが、憎たらしかった。

 けれど今、目の前で泣きべそを晒している少女はセシリアが見たことのない姿だった。


「ほんとに、いい気味」


 と、ジェーンは押し倒されていた。背中はべったりと地面につき目の前にはセシリアの顔が合った。涙越しに見える世界はゆらゆらと淡く揺らいでいた。


「――ん、な……に……?」

「わたくしのライバルがそんな顔見せないで……」


 何故か、セシリアの目にも涙が浮かんでいるのが、ジェーンには見えた。

 何で泣いてるの? なんていえない。

 ジェーンはただセシリアのそのつらそうな表情が心に苦しかった。


「炎が怖いなら、わたくしが貴女の前を塞ぐすべての炎をなぎ払いますわ。だってわたくしは貴女より優秀なんですもの。炎なんて全然怖くないんだもの。貴女なんかより、ずっとずっと凄いんだもの」

「そう、かも」

「肯定しないでよ!! 貴女は、そんなことない、って言わなきゃダメなんですのよ、ライバルなんだから!!」


 ぎゅっ、とセシリアはジェーンの上に覆い被さった。

 あ、バラの香り。

 バラの匂いはセシリアによく似ていた。上品で情熱的で、それでいてとても甘い香り。


「わたくし、決めましたわ」

「……何を」

「貴女がわたくしに負けを認めるその日まで、わたくしはずっと貴女の側にいるって、どこに行っても、追いかけ回してあげますわ」


 だから――。


「わたくしより先に、他の人に負けるのだけは許しませんのよ」

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