貴女は美しい
「貴女は美しい」
マダム・マドレーヌことウルゥ先生はそれをまるで「一足す一は二」とでもいうような声色でジェーンに言う。
「おおよそ大陸中を探しても貴女ほどの美貌は見つけることはそうできないでしょう」
それはジェーンにとって何より嬉しい言葉だった。現に、階段を上る彼女の姿は文字通り絵になるような光景だ。真っ黒なタイツに包まれる足はすらりと伸びている。一段、一段、まるで体重を感じさせないようなに階段を上がっていく。
「ですが、お分かりでしょう? 身に余る美しさは必ず貴女を滅ぼします。貴女はその美しさに相応しいだけの強く品位ある女性にならねばなりません。貴女の美しさは貴女の武器であるとともに貴女の敵にもなり得るのです」
私の、敵。
階段の踊り場の姿見に映る自身の影。制服を着込んだ少女の姿。
きっと、何より美しい。誰よりも美しい。美しくなりたい。美しくあらねば。
そう信じてきた。
ねえ、鏡よ、鏡。
私は強い女になれるのでしょうか。私を助けてくれた、あの素敵な聖天馬騎士のように。なれるの、かしら?
ジェーンは呪文を唱えるかのように、そっと、息を吐いた。
「品位です。何よりも品位。お分かりいただけますか? レディ・ジェーン」
「はい、マダム・マドレーヌ。もちろん分かっていますわ」
「貴女は誉れ高き聖天馬騎士を目指して血を吐かなくてはなりません。淑女として、そして聖天馬騎士候補生として、祖国と自分の心に恥じぬ振る舞いを心がけてください」
品位。
それがウルゥ・マドレーヌ先生の口癖なのだとジェーンは知った。
その言葉が上面だけではないことを示すように、先生の振る舞いから立ち姿、言葉に至るまで貴族的な品位に溢れていた。
ジェーンはこれほどまでに綺麗な上流階級発音の統一語を久しぶりに聞いた。
帝国で話される統一語には様々な方言がある。いくつもの小国を併合して成り立ったという経緯があるからだ。東と西ではアクセントが違い、北と南では語彙も違う。会話が成立しない、ということはないが、それでも時折齟齬が生じてしまうほどには地方性がある。
貴族たちは幼少の頃から統一語から方言を消すべく、綺麗な言葉とされる上流階級の語彙や発音を徹底的に叩き込まれる。政治に参加する貴族階級で方言によるコミュニケーションの障害などあってはならないからだ。
ジェーンの言葉の端々にも南東地方の方言が混ざっている。言語学者が彼女の話し方を聞けば、ぴたり、とその出身地を当てることができるだろう。
しかし、ウルゥの発音、言葉使いにはそういった地方性は感じることはできなかった。
「食堂。ランドリー。大浴場。共有施設の案内は以上です。何か質問はございますか?」
「いいえ、ありませんわ。マダム」
「よろしい。では貴女の部屋にご案内しましょう。レディ」
学生寮はひとつの大きな主屋と、多数の小さな離れに分かれている。
候補生たちの居住スペースはその離れの方だ。
学生寮の主屋からしか入れない裏庭。貴族の別荘地を思わせるような造り。中央からまっすぐ伸びるレンガの道の脇は、美しい花々が飾り立てる。
今も庭を飾り立てる木々や草花を、庭師が丁寧に剪定している。
「マダム。噴水の改修工事の予算なのですが――」
「書類は拝見いたしました。十分でしょう。話を進めて下さい」
「マドレーヌ夫人。花壇の整備が終了しました」
「あとで確認に参ります。ご苦労様です」
ウルゥが歩く度に庭師たちが声をかけてくる。そのすべてにウルゥは的確に返答している。まるで全ての情報が頭に入っているかのようだ。
「庭の管理も先生のお仕事なのですか?」
「わたくしの監督官としての仕事です、レディ」
ウルゥの性格を表すように実に几帳面に整備された庭だ。花の色。樹木の高さ。庭石の感覚。芝の生え具合。見事に計算されたシンメトリックな造りになっていた。
「さあ、レディ。こちらです」
それがこれからジェーンの学生生活を見守る家だった。プロフィトロール家の従者たちはもう既にすべての荷物を運び込んだようで、その家の前に整列していた。
二階建ての白い家。
大きな窓とバルコニー。
屋根には風見馬が雄々しく立っている。
「いいですか、レディ。聖天馬騎士への道は弛まぬ自己研鑽の末にこそ辿り着くものです。泣きたくなる日も訪れるやも知れません。ですが、決して忘れてはいけません。品位です。貴族として、乙女としてそれだけはゆめ忘れてはなりませんよ」
ウルゥは静かに、しかし力強くジェーンに語りかけた。
「ありがとうございます、マダム・マドレーヌ。私、期待を裏切らないように努力いたしますわ」
「「「お嬢様、武運を願っております」」」
御者と四人の女騎士も深々と礼をする。しばらくは彼らともお別れだ。小さい頃から近くにいた従者たち。
やはり、寂しい。
聖天馬騎士候補生としての生活がこれから始まる。心臓が弾む。それは期待と不安を半分半分、ちょうどぐちゃぐちゃに混ぜたような気持ち。
「では、どうぞルームメートとも仲睦まじく」
バタン、と扉がしまり最後にウルゥが発した言葉だけがジェーンの耳に入った。
もう、あとはジェーンの呼吸音だけが聞こえる。家の中。
ん?
ルームメイト?
※※※
ジェーンの士官学校生活の幕が開ける。
その内の少なくない時間を過ごすであろう、この家。プロフィトロール家のお屋敷に比べれば実に質素だが、それでも日常生活には全く不便を感じさせないような造りにはなっている。
一階は生活空間。ダイニングと簡易キッチン。それにバスルームとトイレ。大きな窓からは中庭が一望できる。日の光も十二分に入ってくる。
二階にあがると、そこは寝室。ベッドはひとりで寝るにはあまりあるほどの大きさがあるし、勉強机は年季が入ってはいるがよく磨かれている一級品。バルコニーに面した窓からは心地よい風が入り込む。
「よっ、と」
ぽい、と手荷物を部屋の隅に放り投げてベッドに、ぼんっ、とダイブする。ぱふんぱふんと弾む。シーツからは心地よいお日様の匂いがした。
ああ、いけないわ、こんなはしたないこと。
ジェーンはすぐに起き上がり身なりを整える。
初めて親元から離れて生活するということに、不安ながらもどこかで興奮を感じていたのかもしれない。思わずはしゃいでしまった。彼女もまだ十五歳の少女なのだ。
「口うるさい御父様もいない。意地悪する妹もいない。メイドも執事もいない。私は自由よ!! わふー!!」
ジェーンは手荷物を解いていく。お付きの騎士たちには任せられなかった私物。
まずは枕元にぬいぐるみを置く。本当はもっとたくさん持ってきたかったのだけれど、流石にもう子供ではない。厳選して大切なお友達の中からこの子だけを持ってきた。丸い羊のぬいぐるみ。とってもふわふわで抱いて寝ると気持ちがいい。
それからお気に入りの鏡。小さいけれど、初めてひとりでお化粧をする時に使った思い出のもの。勉強机の端っこに置く。
最後に、普遍教の聖典を一番目立つところに立て置く。良くなめされた動物の皮革が表紙。ジェーンの手になじんだ本。
普遍教は帝国だけではなくこの大陸で広く信じられている宗教。聖典といえば、普遍教の女神が信徒たちに語った言葉をまとめた書物のことを指す。帝国臣民はその貴賤を問わず幼い頃からその言葉を教え込まれる。
プロフィトロール伯爵は特に熱心な普遍教の信徒として有名だった。教会への寄進を怠らず領内にいくつもの立派な教会を建設させた。娘であるジェーンも幼少の頃からその教えを忠実に守り、信じてきた。
「これでよし、っと。さて、お茶でも入れましょうか」
とんとん、と足音軽やかに一階へと降りる。
キッチンには小さめながらも立派な魔石炉があった。魔石の熱で部屋を温めたり簡単な調理が出来るものだ。伯爵令嬢ともなれば本来は自分で料理をする必要はないのだが、ジェーンは趣味でよくキッチンへ入り浸っていた。それはもちろん気に入った殿方に手作りの料理を振る舞うため、という下心がそうさせたわけだが。
「『汝、よく料理し、よく食せよ』ってね」
女神の言葉を暗唱しながら、ジェーンはヤカンに水を汲み炉にかけた。お気に入りのカップとポット、それにお茶菓子。ちゃんとお屋敷から持ってきている。忘れてない。
ん?
と、そこで気がついた。玄関の脇に梯子があった。しかも、どうやらそれは地下へと続いているらしかった。
ジェーンの好奇心に火がついた。
お屋敷にも地下室はあったけれど、それは従者たちの部屋になっていた。小さな子供の頃、一度だけわがままをいって入れて貰ったことはあったけれど、それ以来一度も地下室というところに彼女は立ち入ることができなかった。
それが、今なら自分のもの。行こうが行くまいが自由。
御父様や御母様の目を気にする必要ないのだ。
ぎしり、ぎしり、と足をかけるたびにその梯子は軋む。
ああ、はじめての感覚だ。とその音にジェーンは快感を覚えた。
なんだかおてんば娘になったみたいで気持ちいい。
えい、とはしごを下り切ると薄暗い、それこそイメージ通りの地下室然とした空間があった。
高いところにある換気用らしき小さい窓からは、外の明かりがわずかに差し込んでいる。
灯魔石も安物らしく、オレンジ色の光を弱々しく発するばかりだった。
歩いて回る、というほど広くはないが、這うようにして中を探索してみる。すると、畳まれた服や、食器の類、書物などが整頓されて置かれていた。埃っぽくもない。むしろ明らかに誰かがきちんと掃除をしている形跡もある。
「あら?」
もぞもぞと動く影をジェーンは見つけた。
それはぷっくりと太った蓑虫のような姿で部屋の隅に転がっていた。
近づいてよくよく見てみるとそれは毛布に丸まった少女だった。
綺麗な亜麻色の髪だと思った。それを左右に器用な三つ編みで結わえてある。肌はジェーンのそれとは違って健康的に日焼けしているし、頬っぺたにカサブタも見える。
「もし、もしもし?」
ゆさゆさ、とジェーンは屈んで彼女の肩を優しく揺さぶる。
「んー、んみゃ」
少女は気持ちよさそうに口を動かす。起きる様子はない。まあ、無理に目覚めさせる必要もないだろう、とジューンは考えた。きっとウルゥ先生がいっていたルームメイトというのが彼女のことなのだろう。お茶を入れたらきっと香りで目を覚ます。
と、立ち上がろうとした時に何かが手に当たった。
「これ、何かしら?」
見たことないものだった。
石を削り出して作られたようなそれはすっぽりと掌におさまる大きさをしていた。指先のような形をしていて、所々に穴が開いている。
何気なく、ジェーンはそれをいじくってみると――。
ピーン!!
「――あひッ!!」
猛禽が腹を空かせた時の鳴き声のような甲高い音が部屋中に響いた。眠っていた少女も変な声を上げて跳び起きた。
「んな、な、何!?」
パチパチと目を瞬かせた少女と、ジェーンはバッチリと目があった。
「ご、ごめんさい。起こすつもりはなかったんだけれど」
「ふぇ?」
「思わず鳴らしちゃったの。何かしら、これ?」
「あ、えっと、天馬笛です。馬に、合図する時に使う……」
そこまで言って、ようやく完全に目が覚めた様子。はっ、と少女は自分の身体から毛布を引き剥がした。
「も、もしかしてプロフィトロール様ですか!?」
「ええ、ジェーン・マナカ・プロフィトロールよ。貴女は?」
ひええ、と少女は目に見えて狼狽する。
「も、申し訳ございません!! 少しお時間をください!! すぐに身なりを整えますから!!」