3/4
その日、サチは使用人であるミサキの前で何度も服を着替えてクルクルと回って見せていた。
「ミサキ、どうですか?」
「大変、可愛らしく存じます」
「もう、さっきからミサキはそればかりです」
サチは頬を膨らます。選んでいるのは来月の誕生日会で着る予定のドレスだった。一着は先日仕立てたばかりの紺色のもの、もう一着の淡い桃色のものは普段からのサチのお気に入りだ。
「そうですね。やはり先日仕立てたものがよろしいかと思います」
「そ、そうですか?」
「はい。サチ様の今の背丈に合わせて作ったものですから」
「そうですか……でも、去年からあまり背も高くなっていませんし」
聞慣れている淡い桃色のドレスを見て、いくぶん残念そうにサチは言う。以前、コウタロウから「可愛らしい」と評されて以来、このドレスが気に入っていたのだ。
そのことを知っていたミサキは心の中で苦笑しながらサチを諭した。
「確かにその桃色のドレスもよくお似合いですが、いささか可愛すぎるかと」
「可愛いと駄目なのですか?」
「駄目なことはありませんがサチ様も来年には大人の仲間入りをします。そのためにも今から装いを変えてみるのは良いことだと思いますよ」
そうして最後に「コウタロウ様もサチ様の新しい一面を知りたいと思います」と付け加えるのも忘れない。サチは桃色のドレスと紺色のドレスを見て小動物のように唸り声を上げる。
「これを着ればサチもマイカ姉さまのようになれるでしょうか?」
「そうですね。すぐには難しいかもしれません」
「そうですか……」
「ですが、サチ様が二十歳になるころ頃にはマイカ様のようになられていると思います」
「本当ですか?」
不安げに問うサチに、ミサキは「ええ」と首肯する。古株の使用人たちは口をそろえて昔のマイカとサチが似ていると言う。だからそういうものなのだろうと、ミサキ自身も考えていた。
「サチ様は気にしすぎです」
「でも……コウタロウ様も本当は私のような子どもではなく、マイカ姉さまのような方と結婚した方が良いのではないでしょうか?」
サチはすぐれない表情のまま言う。すると逆にミサキは声を上げて笑い出した。最近少しずつ大人びてきたように思えたが、やはりまだまだ子どもだとミサキは思った。
「ミサキ……ひどいです」
「ええ、でも――」
ミサキは肩を震わせたまま答える。サチは大切なことをひとつ忘れているのだ。だからミサキはそれをサチに教えてあげることにした。
「マイカ様も10年前はまだ子どもだったのですから」
それは当たり前の事実だった。確かにマイカはたまたま年の近い男性と結婚することになったが、こういう家の女性は少し年齢の離れた男性と婚姻を結ぶことが多い。もっとも、それでもコウタロウは初婚にしては結婚相手の年齢が離れているが、それでも全くない話でもない。
「コウタロウ様とサチ様はよくお似合いだと思います」
「本当ですか?」
「ええ、もちろんです」
自信満々を装いミサキは頷いて見せる。それを鵜呑みにしたサチは決心する。
「分かりました。こちらの紺色のドレスを着ます」
「それがよろしいかと」
「はい、サチももうすぐ大人ですから」
そう言っているうちはまだまだ子どもなのだが、そんなことは億尾にも出すことはない。代わりに何かを誤魔化すように窓の外を見た。サチもつられて外を見る。汚染物質が大気に満ちた空の色は赤みを帯びた紫色だ。かつて空は青色をしていたらしいが、ミサキの祖父の代にはすでに空は赤かったらしい。
「ミサキは空が好きなんですね」
「ええ……それもありますが、コウタロウ様がいらっしゃるのは、日が暮れてからのようです」
「そうなんですか……」
「サチ様?」
「ううん、何でもありません」
ミサキに呼ばれ、ハっとする。細い指先は髪の毛に隠れた耳に触れていた。
◇
訪れたコウタロウは常のようにサチの父や娘婿であるカズヒロと杯を交わした。将棋は指していない。今日は一泊するので、明日いっぱいの時間を使って相手をするのだ。
今、コウタロウとサチは一緒に応接間にいる。サチの父も自分の娘がコウタロウを好いていることを知っているので、さすがに将来の婿殿を娘から取り上げるようなことはしない。
「お疲れ様です」
「はい、とても頑張りました」
サチは酒宴の間、余興としてピアノを弾いていた。幼少の頃から稽古を積んでいるサチの腕は名手とは言い難いもののそれなりのもので、サチの家族も、コウタロウも、上層の人間として教養を持つ人間だ。家族の身びいきもあり、コウタロウ達は十分に演奏を楽しんだ。
「上手になりましたね」
コウタロウの分厚い手の平がサチの頭を撫でる。サチはそれを心地よさそうに受け取った後、すぐに不機嫌そうな顔に変わった。
「もう、コウタロウ様はすぐにそうやって……」
「ハハッ……ついね。申し訳ない。サチさんが可愛らしいものでつい……ね」
桃色のドレスを纏ったサチの姿を見て薄く微笑む。以前、同様に褒めたときにサチが喜んだのを覚えていたのだ。だがコウタロウの狙いとは違い、サチはその言葉を聞くとしたり顔で言い返した。
「分かりました。許してあげます」
「え、ええ……」
思った反応と違うことにコウタロウは少し驚く。いつものサチと様子が違っていたからだ。その理由が解るのはドアの傍で控えているミサキだけだ。
それが何だかやり込められたような気がして、コウタロウの目が細められる。その視線の先には火のついていない暖炉があった。
ふと思い出す。
それは先日の出来事だ。
コウタロウは薄く微笑んだまま、サチを手招きしてソファに座った。
「何でしょうか?」
サチは小首をかしげてコウタロウに近づく。そんな彼女を隣に座らせると、コウタロウは薄い笑みを浮かべたままミサキに言った。
「ミサキさん」
「はい」
「今からサチさんと内緒話をするので、人払いをお願い出来ないかな?」
コウタロウは言う。
その言葉にミサキは思わず聞き返した。彼女の記憶にある限り、コウタロウがそんなことを言ってきたのは初めてだったからだ。
「はい? 人払いですか?」
「ええ、お願いします」
言葉は丁寧で懇願の形をとっているが、その声音は命じるようなものだった。コウタロウの細めた目とミサキの視線が絡み合った後、コウタロウはもう一度言う。
「構いませんよね」
「……はい」
「ありがとうございます」
視線を伏せて答えるミサキに満足したのか、コウタロウは微笑を浮かべてサチに向き合った。
「コウタロウ様?」
「サチさん、こちらに」
「はい?」
言われるがままにサチはソファに座る。コウタロウはその隣に座ると、先ほどと同じくサチの頭を撫でた。先ほどと同じ動作だ。サチは再び頬を膨らまそうとするのだが、今度はその手がサチの耳に触れた。
「ミサキさんがいると恥ずかしかったもので」
理由らしきものを言う。その間もコウタロウの指は動き、サチの耳を優しく撫でた。
ミサキもこうして耳を触られるのは嫌いではない。骨ばった指が優しい動きで耳の淵を這う。そこまではいつも通りだった。しかし次の瞬間、サチは思わず声を上げた。
「え?」
するりと腰に手が回され、ふわりと浮遊感に包まれる。気づけばコウタロウの膝の上に頭を乗せていた。
「あの??」
「少し悪戯したくなってしまいました」
手には薄い紙が一枚あり、それが短冊のように破られていく。それは指で捩られると一本のこよりになった。
コウタロウは何も語ることなく、こよりをサチの耳の穴へと導いていった。
ずずぅ……っと引きずるような音が耳洞で響く。
体の内側が擽られる感覚にサチの喉から小鳥のような声が聞こえた。
「擽ったかったですか?」
「いえ……そういうのじゃなくて」
擽られたのだが、擽ったいわけではない。だがそれを言葉にすることが出来なくてサチは言い淀む。そこに拒絶の色を感じなかったコウタロウはこよりを持つ手に力を加えた。
ザリ、ザリ、ザリリ……
こよりの先が耳の穴の中で回る。扇のように開いたこよりの先端が音を立ててサチの中で響く。
恐らくは耳の中の垢がこそぎ取られているのだろう。薄紙が耳壁を通り過ぎるたびに、心地の良い痛痒感が頭の中を通り過ぎる。それはどこかで覚えのある感覚だった。
「痛くはありませんか?」
「はい……気持ちいいです」
「それは重畳ですね」
「は、はい……ぅ」
サチの答えが気に入ったのか、コウタロウの指先に捻りが加えられる。すると、その度にこよりの先端で耳道がこすられて、得も知れぬ感覚がサチの背筋を這いあがってきた。そんな身じろぎするサチを見て、コウタロウは「ふむ」と鼻を鳴らす。
「昔、こんな風にして兄に悪戯されたんですよ」
「コ……コウタロウ様のお兄様ですか?」
「ええ、よく暖炉の前でうとうとしていると、こんな風に耳の中にこよりを入れられてね」
「そ、そうなんですね……」
「ええ、困った兄でした」
昔のことを思い出したのか、コウタロウの微笑が苦笑いに変わる。しかしその間にもこよりは何度も耳の中と外を行ったり来たりして、サチの耳を擽り続けていた。その手つきは繊細で傷つけまいとする慎重さと、別にそうなっても構わないような大胆さが見て取れた。
「私の場合は擽ったくて飛び起きたんですが……サチさんは違うみたいですね?」
「よ、よく分からないです……」
「そうですか」
膝枕されているサチからは、コウタロウの表情は見えない。耳の奥の部分にこよりの先が当たると、そのゾクリとした感覚にサチの背は震えた。それは未知の感覚で彼女を大いに戸惑わせる。
他人に耳の中を触られるという経験はサチにとって初めての経験だ。どことなく背徳的な快感に頭の中で「これはひょっとしていけない事なんじゃないのか?」そんな疑問が鎌首をもたげる。
「サチさん、知っていますか?」
「はい?」
「今では一般的ではありませんが、昔はこうして耳を掃除するというのは家族間でよく行われていたそうです」
「そ、そうなんですか……んぅ」
「ええ、古典では散見されるんですがね」
コウタロウの言葉に「それならば、そんなものなのかもしれない」とサチは納得する。彼とは遠からず正式な家族になるわけだし、いつも優しいコウタロウが自分に危ないことをするはずがないという信頼もあり、サチはどこか背徳的な快感に身をゆだねることにした。
ザザ、ザザッ、ザザ……
先ほどまでとは違い、掃き掃除をするように耳の中が撫でられる。先ほどは「よく分からない」と答えたが、心の中では「もっとして欲しいな」などと考えている自分がいることにサチは気づく。
「あの……」
「はい」
「な、なんでもないです……」
「そうですか」
結局、何も言い出せなかったサチだが、コウタロウは意を酌んだとばかりにこよりを指の腹で捩る。すると、開いた先端の部分がガサガサと音を立ててサチの耳孔を掻き混ぜた。
コウタロウは錠前を開けるようにして、何度もそれを繰り返す。その都度甘い痺れがサチの全身を支配し、体の自由を奪っていった。