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その日の夕餉(ゆうげ)は盛大に供されていた。普段はコース料理の品々が順番に並べられていくのがサチの家での常だが、今日に限っては違う。大皿にどんと盛った料理がテーブルにいくつか並ぶ。好きなものを好きなだけ食べて良いということだ。こういった出され方はサチの家では珍しい。

その中でも特に魚、その中でも海水魚だ。家畜と違い、貴重な水に大量の塩を添加しなければ飼育出来ない魚など下層に住まう市民からすれば狂気の沙汰だ。もちろん海に住まうものを捕ればその限りではないが、高濃度に汚染されたそれを食するというのは、あまり賢い選択肢ではない。

それがこうして食卓に並ぶというのは、それだけサチの父がコウタロウを気に入っているということだった。


「さすが婿殿だ」


サチの父は楽し気に笑う。先ほどの将棋(サ―チェット)の結果を褒めているのだ。勝ったのはサチの父だが、コウタロウは善戦した。それを称賛しているのだ。


「お父様、あまりコウタロウさんを苛めては駄目よ」


大皿とは別に個々に出された紙包み焼きの魚を上品に(ついば)んでいる妙齢の女性は、サチの姉であるマイカだ。彼女は将棋狂いの父に搾られたコウタロウを優しく労わる。サチよりも10才上のマイカは長い黒髪の美女だった。古くからサチの家に務める家政婦はよく「サチが小さいときのマイカに似ている」と口にするので、サチは密かに自分も姉のようになれるかもしれないと期待していた。


「苛められてなどいませんよ。お義父さんには楽しみながらご指導をいただいています。私も将棋(サ―チェット)は好きな方ですので」

「コウタロウさんが優しい方で良かったわね」

「そうとも。婿殿はこの国一番の婿殿だからな」


揶揄にもめげずサチの父は呵々大笑(かかたいしょう)と笑う。それを見てマイカは優美な曲線を描いていた眉を(ひそ)めて言った。


「そういう言い方はカズヒロさんに失礼じゃないかしら」

「ああ、そうだったな。すまん、すまん、カズヒロももちろんこの国一番の婿殿だ」


猪口に注いだ酒をグビリと飲み干してさらに笑う。その視線はマイカの隣に座る男性に向いていた。

カズヒロ――マイカの伴侶であり、サチの家に後継ぎとして婿入りした男性だ。

聞きようによってはひどい侮辱の言葉に聞こえるが、サチの父の人柄を熟知している彼は苦笑するだけで気を悪くした様子は見えなかった。むしろ「この国一番はコウタロウさんに譲りますよ」と、あっさりとその座を譲る始末だった。


サチはそんな家族の様子を見ながら、自分の前に出された魚料理に箸を伸ばす。幼少から厳しく躾けられた彼女の食べ方は姉のマイカに負けず綺麗なものだ。

酒を酌み交わして楽し気に笑う大人たちを見て羨ましそうに父母や姉夫婦達を見た。

そんな娘を見てサチの父は赤い顔をしながら問いかけた。


「どうだ? サチも一杯」

「アナタ!」


非難の声を上げたのはサチの母だ。

そして意外にも乗り気だったのは姉のマイカ、そしてコウタロウだった。


「あら、いいじゃない」

「マイカ!」

「もちろん、お猪口とはいえ一杯は多すぎね。でも半分くらいなら試しにいいじゃない。毒じゃないんだから」

「コウタロウさんも何か言ってあげてください」

「そうですね。半分でも多いとは思います。でも舐めるくらいならいいんじゃないでしょうか。私も小さいときは父や兄にこうやって勧められました」

「幕僚長閣下が?」

「ええ、そのせいでうちの家は私以外、呑兵衛ばかりです」


サチの母は不満そうに目を細めるものの、男たちにこれ以上意見するつもりはないのか娘の前に差し出された酒杯を半眼で眺める。サチはと言えば、猪口の底を僅かに満たす清酒を見て息を飲んでいた。


「あ、あの、コウタロウ様」

「はい?」

「本当に飲んでも大丈夫なのですか?」

「厳密に言うと駄目ですが、ここにいるのは身内だけですから」


コウタロウは「だから大丈夫ですよ」と続ける。そしてサチの耳元で「私達だけの秘密ですね」と(ささや)いた。

その言葉に後押しされるようにサチは清酒の匂いを嗅いでみる。

酒は刺激が強いが、どこか甘い匂いがした。酒を飲んだ父の息はあんなに臭いのに、酒自体の匂いはそこまで悪くない。それがサチには不思議だった。

舌の先で思い切って舐めてみる。


「ゴホ! ゲホッ!……苦いです」


舌の先で舐めとっただけだったのだが、酒精に舌と喉を焼かれて大いに咳き込んだ。


「どうですか?」

「ゴボッ……美味しくありません」


サチの答えを聞き、父や姉達は大笑いする。母親さえも口元を隠してクツクツと笑っていた。

サチは子どもだからと、父は笑う。

サチにはまだ早かったわねと、姉は笑う。

サチも大きく大人になったらねと、母は笑う。

そんな中、コウタロウはサチに言う。


「これが大人の味ですね」

「大人はこれが美味しいのですか?」

「人によりますね。私も昔は嫌いでした。飲んでいるうちに慣れるんです」

「大人は大変ですね」

「大人になるのは我慢するということですから」


その言い回しが愉快だったのか、サチの父は大きな声で笑う。それに誘われるように姉夫婦達も笑っていた。


「サチは早く大人になりたいです。あと2年したらサチもお酒が飲めるようになるのでしょうか?」


僅かな酒精でもサチには多すぎたのか、少し眠そうな目で問う。コウタロウはそれに「そうですね……」と曖昧に答えた。





赤々とした暖炉の火が躍る。薪を燃やす暖炉。もちろんこんな骨董品に頼らずとも空調は効いている。それでも暖炉が赤々と燃えているのは、黒煙の処理設備と高い税金を払って大量の二酸化炭素を排出する暖炉を所有することは超々高層建造体(メガストラクチャー)に住む人間にとって一種のステータスだからだ。そんな暖炉の火に頬を照らされながら、ソファに座るサチはコウタロウにもたれかかるようにして眠っていた。


「やっぱりお酒は早かったわね」


コウタロウの向かいで艶然と笑むのはマイカだ。


「そうですね。次に飲むのは祝言を上げるときでしょうか」

「2年……ううん、1年と少しなんて、すぐね」

「サチさんには長く感じるでしょうけどね」

「コウタロウさんは大人ですものね」

「ええ」


崩れ落ちそうなサチをそっと支えると、自然とサチを膝枕するような格好になってしまう。その状況にコウタロウは「参りましたね」と苦笑した。


「あら、仲睦まじくていいじゃない」

「それは……そうなんですがね。何だか昔を思い出しますね」

「昔?」

「ええ、私が小さい頃、暖炉の前で眠っていると、よく兄に悪戯されたんです」

「お兄様に? 何をされたの?」

「耳を……ね」

「耳?」

「ええ、耳にこよりを入れられたんです。驚いて飛び起きましたよ」


その時のことを思い出したのか、コウタロウはむず痒そうに自分の耳を触る。長身の男がそんな仕草をするものだから、マイカも童心を思い出したのか楽し気に笑い席を立つ。

コウタロウはそんなマイカの様子を訝しく思っていると、彼女はティッシュペーパーを一枚とって戻ってきた。


「マイカさん?」

「コウタロウさんの話を聞いて、何だか私もやってみたくなったわ」


唇が妖しく弧を描く。コウタロウは、そんな彼女をどうしたものかと困った顔で見る。

白い指がゆっくりと薄い紙を裂いていた。それを指先でくるりと捻じると一本の細い紐になる。先は開いており、如何にも(くすぐ)るための造作になっていた。


「カズヒロさんに叱られますよ」

「大丈夫よ。まだお父様と飲んでいるもの」


マイカは笑ってコウタロウの膝の上で眠るサチに顔を寄せる。こうして見るとサチとマイカは確かによく似ているとコウタロウは思った。あと10年すればサチもマイカのような美しい女性に成長するのだろう。もっともいつもはにかむように笑うサチが、こんな艶やかに笑うところまでは、さすがにコウタロウも想像出来なかった。


「コウタロウさん、動かないでくださいね」


膝の上の妹を見てマイカは楽し気に笑むと、小さな耳にそっと手を添える。

白いこよりの先は微かに震えていた。それがサチの耳の穴にそっと差し込まれようとしたときだ。

ドアをノックする音が聞こえる。現れたマイカと同年代の女性は使用人のミサキだ。


「マイカ様。旦那様がお呼びです」

「そう、すぐ行くわ」


言われてマイカは立ち上がる。そうして「残念」と悪戯っ子のように微笑むと、自作のこよりをコウタロウの手渡して言った。


「続きはコウタロウさんがやってくれていいわよ」

「善処します」


苦笑して答える。マイカはそれを背中で聞きながら小走りで父の元へと向かっていた。取り残されたコウタロウは手渡されたこよりはしげしげと眺めながら、サチの白い耳を見比べた。

そんな彼に控え目に声がかけられる。

ミサキだ。


「コウタロウ様、それは?」

「ああ、いや……何でもないんだ」


ミサキからすれば「押しつけられた紙屑を捨てましょうか?」と聞いた程度のことだったのだか、彼女の存在を失念していたコウタロウの声音が柄にもなく上ずった。


「左様ですか」

「あ……ああ、下がってくれていいよ」

「かしこまりました」


珍しいコウタロウの狼狽する姿に訝しく思いながらもミサキは丁寧な所作で一礼し、部屋を後にした。

暖炉の前にいるのはサチとコウタロウの二人だけだ。


「参ったな……」


コウタロウは一人呟く。

マイカの笑みを見た後だからだろう。久しく忘れていた悪戯心がふつふつと湧き上がってくるのを、コウタロウは感じていた。膝の上では一回り以上年の離れた少女が眠っている。

かつて自分の耳に悪戯した兄もこんな気持ちだったのかもしれないと、愚にもつかないことを考えてこよりを指先で弄ぶ。

そして誘惑に抗いきれず、彼はこよりの先をゆっくりと耳へと近づけた。


膝の上ではサチが静かな寝息をたてていた。何か良い夢でも見ているのか、唇はわずかに緩んでいる。

そんな彼女の耳にゆっくりとこよりを近づける。薄い紙で作ったこよりの先がほんの僅かに耳介に触れた。


「…………っん」


小動物を思わせる声でサチは小さく息を漏らした。

飛び起きると思っていたサチの目が開く様子がないことに意外に思いながらも、コウタロウは耳介の外から内へと、ゆっくりとこよりの先を滑らせていく。

薄紙で出来た細い軸の先は開いており、それがサチの耳介をすぅっと撫でる。


「…………ぁ……ん」


もう一度小さな声で鳴く。やはり目が覚めることはない。コウタロウは「ふむ」と小さく息を漏らす。

彼はよくこの小さな娘の耳を触る。最初はからかうつもりでやっていた。良い趣味ではないと理解しつつも、どこか周囲に対する意趣返しのようにやっていたのだが、存外にこの娘はそれが気に入ってしまったらしい。そうしてやはり良い趣味ではないと思いつつも、彼はそれを今日のようにときおり行っていた。


コウタロウは手に持ったこよりをしげしげと眺める。そうしてむう一度「ふむ」と小さく息を吐いた。

そういうのも悪くないかもしれない。そんなことを考える。

膝の上ではサチが再び静かな寝息を立てている。酒精の所為かまだ小さな耳には赤みがさしていた。そんな彼女の耳に手を添えると、コウタロウは針に糸を通すように狙いをすませてサチの耳の穴へこよりを差し込んだ。


ディッシュペーパーで出来たこよりの軸は細く、開いた先も薄く、何とも頼りない。しかしそれでもゆっくりと穴の中へと入れたこよりからはザリザリとした荒い手触りを感じた。薄い紙の部分がサチの耳道の壁に当たり、ゆっくりと耳孔の中をかき混ぜているのだ。


「…………っ……あ」


今度は先ほどよりも大きな声がした。しかしそれでもサチが飛び起きる様子はなかった。それを見てコウタロウは三度「ふむ」と息を漏らす。

そして短い思惑の末に指の腹の部分でこよりの軸をクルクルと回す。それに連動してサチの小さな耳の穴に収まっていたこよりの先端がガサガサと音を立てながら回転した。


「っ…………んぅ」


身じろぎする。こよりを動かすと、その度にサチは小さく身体を(よじ)らせた。

コウタロウは膝の上で身体を振るわせるサチを見て、四度(よんたび)「ふむ」と息を漏らした。

ひょっとしてサチは起きているのだろうか?

そう勘ぐり声をかけ肩を揺する。


「うぅ……あ? コウタロウ様??」


寝ぼけ眼がコウタロウの姿を捉えた。その目が頼りなく泳いだ後、自分が膝枕されていることに気づいたのか弾かれたように身を起こす。その後、所在なさげに視線を伏した時、コウタロウの右手で止まる。そして思い出したかのように自分の耳を触り、言った。


「コウタロウ様……それは?」

「ああ、すいません。年甲斐もなくサチさんのお耳に悪戯をしてしまいました」

「悪戯……?」

「はい、悪戯です」


そう言って、ソファの下に脱ぎ捨てられていた靴をそろえた。サチはそれを履きながら得意げに言う。


「何だか、今日はコウタロウ様が子どものようですね」

「そうかもしれません」

「ええ、そうです」


いつもの意趣返しなのか、サチはコウタロウの目を見て言った。普段はサチよりも上にあるコウタロウの顔だが、ソファに座ったままなので目線の高さがちょうど合う。


「でも、サチもすぐに本当に大人になります。それまで待っていてくださいね」

「ええ、サチさんならきっと素敵なレディになれますよ」

「はい」


コウタロウに認められたのが嬉しかったのか、サチの表情が(ほころ)ぶ。そんなサチの顔を見てコウタロウはもう一度、今度は先ほどよりも小さな声で「素敵なレディになれますよ」と呟いた。



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