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「コウタロウ様!」
自動ドアが開く。
サチは現れた青年を見て声を上げた。
背の高い青年だ。鋼のような色をした髪は短く刈り上げられている。頬がこけて見えるが、それは元々の顔立ちであって別に痩せているわけではない。濃紺の背広を着ているので分かりにくいが、むしろその身体は鍛えられたものだった。
「いい子にしていましたか?」
彼の年齢の半分にも満たないサチの背は低い。コウタロウは屈んでサチの頭を撫でた。
サチは最初、それを心地よさそうに受け止めるが、子ども扱いされているのに気づくと、すぐに不満げに頬を膨らませる。
「もう、コウタロウ様」
「ハハ、ごめん、ごめん」
「もう、知りません。それよりもお父様にはお会いしましたか?」
嗜められたコウタロウはそっとサチの頭から手を放す。それを名残惜しく思う自分に気づきながらも、サチは精一杯怒った振りを続けようとする。しかしコウタロウの答えに、今度は本当に憤慨した。
「ええ、お義父さんには先ほど。さっそく将棋の相手をしろと対戦を申し込まれました」
コウタロウは苦笑する。将棋は赤と黒、それぞれ18種、114騎の駒を交互に動かし、相手の陣地を攻略する古典的な遊びだ。今の時代ではほとんどが盤上に立体映像を浮かべたものを操作盤で操作するものが主流なのだが、熱狂的な愛好者であるサチの父は昔ながらの本物の駒や札、賽子を使っての方法を好んでいた。
それらも見事な年代物で、売ればひと財産するほどの代物なのだが、この本物の盤の上に駒や札を並べる方法には大きな欠点があった。自動で駒を配置したり、点数を計算してくれる現代式のものと比べて、勝敗が決まるのに恐ろしく時間がかかるのだ。
「もう、お父様ったら。またコウタロウ様を独り占めするつもりね」
「公式ではなく、略式ですから、夜には勝負がつきますよ」
窓の外を見るとまだ空は明るい。軍の中でも格別の名家であるサチの一族は超々高層建造体の中でも上層に居を構えることを許されている。それはかつてこの国の首都と呼ばれていた都市の全域に根を下ろし、上層を見れば雲さえも貫く、今やこの国の人間の1割が住まうという超巨大建造物。そんな夜になれば星空のような地上を見下ろすことが窓からの景色も、今はまだ薄っすらと白い雲が煙るのみだ。
「わざと負けて、早く終わってください」
「そんなことをしても、もう一戦挑まれるだけですよ」
「うぅ……でも」
仕事が忙しいコウタロウはなかなかサチに会う時間が取れない。こうして会うのも1カ月ぶりなのだ。
「夕食が終わったら、ゆっくりお話ししましょう」
「……約束ですよ?」
「ええ、もちろんです」
そう言って、またサチの頭を撫でる。それにサチは再び頬を膨らませようとして、すぐにそれを止める。両膝をついた濃茶色の瞳に自分の姿が映っていることに気づいたからだ。
「約束です」
頭を撫でていた手の平がサチの右の頬に触れる。指が長く骨ばった無骨な手だ。それがゆっくりと頬を這い耳朶に触れる。見た目の印象に反してコウタロウの手は温かく、指先の感触にサチは思わず熱い息を漏らした。
「あの……コウタロウ様」
頬が熱くなる。
「はい、何ですか?」
「あ、いえ……何でもありません」
「そうですか」
親指と人差し指がゆっくりとサチの柔らかな耳たぶを摘まむ。それが僅かな痛みと心地よさをサチに伝える。
爪の先が耳の溝を這う。
低い擦過音が聞こえると、サチは自分の背中に電流が走ったかのような錯覚を覚えた。
爪の先がゆっくりと耳の縁をなぞっていく。外側から内側へとゆっくりだ。
外から内へ。
コウタロウの指がサチの耳孔の淵へと達しようとしたときだった。
「………え?」
不意の喪失感にサチは声をあげた。
彼女の耳に触れていた指の感覚が突然消えたからだ。
「どうしましたか?」
「いえ……その」
先ほどまで自分の耳に触れていたコウタロウの右手をゆっくりと視線で追う。恐らくは無意識だろう。サチの指は自らの耳たぶへと向かっていた。
コウタロウは彼女の仕草を視界に収めながらも、むず痒そうに破顔する。
「ではまた夕食のときに。マイカさんも、その時にはいるんでしょ?」
「は、はい……お姉さまも、帰っていると思います」
「わかりました」
折っていた膝を伸ばし、すっと立ち上がる。並んでいたコウタロウの顔はもうサチの遥か上だ。
「ではまた夕食で」
「は……はい」
それから二言、三言を交わした後、コウタロウはサチの部屋を出る。名残惜しそうに閉まったドアを見るサチの指先はやはり右の耳に触れていた。