砂糖
窓の外はいい天気だ。
立派な常緑樹と、高い高い青い空と、そこに浮かぶもくもくとした白い雲のコントラストはまるで夏のようだけど、もうずいぶん肌寒くなった。
何かパジャマの上に羽織らないと風邪をひきそうなくらいには。
それでも窓は閉めたくない。
僕の意地のようなものなのだ、きっと。
「やあ」
「…また来てくれたんだ」
また彼がやってきた。
僕より少し年下にも見える彼は、最近何故か現れた少年。
男子にしては長い髪を、いつも鬱陶しそうに払っている。
切ればいいのに、毎回のように忘れてたとそのままだ。
ある日唐突に見舞いにきた彼は、たまたまだと言った。
なんとなく病院の中を散歩していたとかなんとか。
言い訳がましいその台詞に、僕と同じ入院患者なのだろうと思ったのも記憶に新しい。
毎日同じような日々だから、彼と出会ってどれくらい経つのかなんて忘れてしまった。
お見舞い、と言って数日に一度は来る彼は、お土産を持ってくるでもなく、話を盛り上げるでもない。
ただ、黙って座っている。
「……いい加減名前、教えてよ」
「だから、田中太郎。毎回そう言ってる」
そんな偽名らしい偽名信じられるわけがない。
名はその人を作るとよく言われる。
彼は太郎なんて名前ではない、と思うのだが、毎回毎回名前を尋ねるのに、毎回毎回はぐらかされている。
「じゃあ、太郎。来るならなんか土産話でも持ってきてよ」
「なんで」
「暇だから」
「…そう」
そう言ってまた彼はおし黙る。
彼との無言の空間が居心地悪いというわけではない。
寧ろ、聞き分けることのできない微かなざわめきに包まれ、無言だからこその僕たちだけの世界はとても心地がいい。
あの空に浮かぶ雲に乗っかっているように、僕の気分はふわふわしている。
ただ、僕が乗ってるのは多分綿菓子みたいな雲。
お祭りで売ってる甘い甘いそれなんて、スプーン一杯の砂糖で出来てしまう安物。
甘さに溺れて口に含み、あっという間に消えていく。
僕はそれを嬉々として買う子供のようだ。
わかっているけど、知らないふりをしてる。
この時間がもう長くはないことなんて、自分でよくわかっている。
そんなもの、知りたくもない。
太郎。
そう名乗る彼は、いつまで生きているのだろう。
出歩けるんだったら、重い病気でもなんでもないのかもしれない。
君が、僕と一緒に来てくれればいいのに。
そんな、望んではいけないことを望む。
この心地よい世界は、天国にもあるだろうか。
そもそも天国に僕がいけるかだってわからない。
この病気のせいで、大切で、愚かで、優しいあの人達を殺してしまった。
地獄に落ちても、自由に動けるのならそれでいいかもしれない。
「僕は天国に行けると思う?」
口をついて出た言葉。
「さあ。そもそも天国がいいところとも限らない」
「…それもそうだね」
彼らしい。
思わず笑みがこぼれた僕を見て彼は訝しそうな視線を送ってくるが、この笑いは止められない。
彼の彼らしさが僕を安心させてくれる。
「……何かおかしなこと言った?」
「ううん、なんでもないよ」
笑いを止められない僕を一瞥して、彼は鼻で溜息をついた。
外から、微かなセミの鳴き声がする。
僕たちの間に特に話すことはなくて、暫くすれば彼は立ち上がった。
背凭れのない丸椅子が、キイと音を立てた。
「そろそろ帰る」
「うん。ありがとう。また来てね」
「ああ。」
彼が何かを言いかけた、気がした。
彼にしては珍しい、はっきりしない語尾。
笑ったせいで滲んだ目元の湿りを拭って、僕は彼に問いかけた。
「何?」
「…何って?」
椅子に座ったせいで寄ったシャツのシワをくいと引っ張りながら、いつもと変わらない表情で問い返してくる。
これで問いかけられたことに焦っているなら、余程強固なポーカーフェイスだ。
彼とババ抜きをやったら勝てないと断言できる。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。
「何か言いかけたでしょ?」
彼までいつもと違う様子を見せたなら、僕はどうにかなってしまう。
僕はベッドの中で何も出来ないのに。
周りだけが変わっていく。
置いていかないで。
僕を、1人で行かせないで。
僕と一緒に、変わらないままでいて。
「……明日になったら、わかる」
彼は少し目をそらしながら、言った。
大したずれではなかった。
それでも僕にとっては、何処かよそよそしく感じるほどのずれだった。
「……そっか」
いつもする、優しく見える笑み。
細身で色白な僕がこうやって笑うと、とても優しそうだと言われる。
実際、子供にしては癇癪を起こしていないと思うし、大人しくて従順で、看護師たちにとっては助かる患者なのだろうとも思う。
やはり厄介な患者もいる。
病院は戦場だ。
見えない敵と一生懸命に戦って、白い色を保ち続ける。
僕はもうここで、3年は過ごしている。
いつ止まるのかもわからないこの心臓で、ずっと。
彼ほどではないと思うけど、僕のポーカーフェイスだってそれなりだと思う。
だけど、彼は僕のハリボテの笑みを見て一瞬悲しげに眉を寄せて、じゃあと言って帰って行った。
悲しそうとか嬉しそうとか、目に闘志が宿ってるだとか、小説にはよく出てくるけど、そんなものを読み取れるなんて眉唾ものだと思っていた。
簡単に読み取れてしまったら、テレビは白々しくてみていられないし、警察は取り調べが楽になるだろうし、周りの人とのすれ違いだってなくなる。
それでもその時は、一瞬だけだったけど、悲しげに見えた気がしたのだ。
ーーー
ピーピーピー
煩くブザーがなっている。
鬱陶しい。
止めたいと思っても、腕が何故か上がらない。
拘束されているようではないのに、重い。
重くて、持ちあがらない。
太ったのだろうか。
いきなり?
眠っている間に太ってしまう病気にでもかかったのかも。
そんなありえないことをつらつらと考える。
太ってしまう病気、なんて女子のようで笑ってしまう。
視界がぼんやりと波打っている。
忙しそうに動く人影は輪郭を何処かへやってしまったようだ。
ああ、水飴みたいだ。
どろどろとしたお祭りで売られているあれは、大して美味しいお菓子ではなかった。
ただ甘ったるいだけの、液状の砂糖。
僕の眼の前では、カラフルなそれがゆらゆらと揺れている。
「やあ」
「あれ、昨日来たのに」
また来たの?
なんで今日来るのかな。
こんな情けない姿、君にはあんまり見せたくなかったよ。
でも彼だけがはっきり見える。
水飴みたいに輪郭を置いてきた姿じゃない。
それだけで、何故か安心した。
「昨日俺が言いたかったこと、分かった?」
「え、なに」
「……これから死ぬんだよ、お前」
「それが何?」
なんでもないように、問う。
そんなことくらい分かっている。
それがどうした。
人間は死ぬために生きている。
僕はその死ぬための準備期間が少し短かっただけだ。
「死ぬ前に、何でも一つ叶える。死にたくないなら死にたくないと言えばいい」
「別に、死ぬのは怖くないよ」
そう。
嘘はついていない。
死ぬのなんて怖くない。
だって毎日数え切れない人が死んでいる。
死はありふれたもの。
だからこそ葬儀場は成り立っているし、墓だって新しい形態のができる。
「それに、君、不老不死になりたいとでもいったら叶えられるの?神様だとでも言うつもり?」
「神は俺の上司。俺は天使」
「……似合わない!」
「……言うな、自分でもわかってる」
彼はどう転がっても天使とは思えない。
顔は確かに整ってるし、僕にとっては天使みたいなものなのかもしれないけど(別に天使のように愛しい存在とかではない)、普通の人間に見える。
天使といえばあれだ、金髪に碧眼の、とても美しくて綺麗なイメージ。
丁度キューピッドのような。
実は天使じゃないとかいう話も聞くけど、僕にとっての天使といえばそれだ。
間違っても目元までを隠すような黒髪ストレートの無愛想な少年ではない。
彼に羽根が生えたりなんかしたら笑ってしまいそうだ。
いや、絶対笑う。
だから、
「羽根生やしてみてよ」
「無理。羽根出せるのは上級の純粋な天使だけ。俺は下っ端の下っ端だから、無理」
「えー、見たかったのに」
「……出せたとしてもお前には絶対見せない」
嫌そうに眉をしかめる彼。
からかうような表情になっていたのは否定しないが、そこまで剣呑な視線を向けてくる必要はないのではなかろうか。
だけどやっぱり、彼といると安心する。
まあこの数週間、僕の心の拠り所なのだから仕方ない。
冷たいけど、暖かい。
そっけないけど、優しい。
そんなところが大好きだ。
口でなんて絶対言えないけど。
記憶の中の白いカーテンが捲れて、窓の外の緑が見える。
どうしようもないくらい、いつも通りの静かな日。
そこに現れた彼は、顔を元に戻して言った。
「望みはないのか」
「んー……そうだね、なんだろ」
毎日の望みは、次君に会うときまで生きること。
最期に君に会えたなら、もうその望みは叶った。
君には言わないけど、望みを持つのは未来を信じている人だけだと思うんだ。
僕は未来を確実なものとは思っていないから、大した望みなんて思いつきやしない。
「君は?」
「何」
「君だったら、何を望むの」
「……さあ、なんだろうな」
彼の開けた間は、何か感情を含んでいた。
懐かしい耐えきれない感情。
それがどういうものなのか僕にはわからない。
悲しそうに目を伏せるのに、表情は優しい。
やっぱり、僕は彼のことが大好きだ。
この彼について何のことより知りたいという欲はきっと、僕の中で彼が一番大事だという証。
知れば知るほど深みにはまっても、抜け出せなくていい。
望みを叶えてくれるなら。
「君も一緒にいこうよ、太郎」
___________蝉はどこかへ飛んで行った
ありがとうございました。