第1章―【3】ボート小屋
陸橋を渡ると運河の対岸沿いには松林が広がっていた。線路から段差を降りると細い遊歩道が何処かへ続いている。
その小道のもう一方も線路の下に在る洞窟のような細いトンネルを抜けて、これまたニョロニョロと何処かへ続く。
誰が通るのか、ひと気は全くなかった。
ボクは小道の先に在る、青い掘っ建て小屋に目を留めると、ユミを促してそこへ向った。
ユミはよいしょと仔犬を抱え直して歩き出す。
彼女の抱く仔犬は、再びユミの腕から後ろ足を零してブラブラさせていた。
トタンの壁で出来た青い掘っ建て小屋にひと気はなかった。
どうやら人が住んだり生活する場所ではないらしい。
小さなドアには鍵がかかっていたが、建物の角にトタンの裂け目が在って中を覗く事が出来る。
小さなボクたちは、難なくそこから侵入できた。
湿った黒い地面はひやりと冷たくて、あちこちの隙間から微かに風が吹き込んでいた。
屋根も所々穴が開いてるし壁も穴や亀裂があり、そこから日の光が注ぎ込んで小屋の中はほの暗い景色だ。
細い光の柱に、ホコリが白く浮かんでちりちりと舞っている。
そして、何より異様なのは無数に置かれた長細い魚のような、でももっと大きな何か。
ボートだ。
丸木で組まれた大きなラックのような物に、沢山ボートが収められている。
海もないのに、どうしてこんな場所に船がこんなに沢山あるのか、ボクは不思議だった。
だいぶ後で知ったことだが、近くの高校のボート部が所有するボートらしく、目の前の運河が彼らの練習場なのだ。
「涼しいね」
ユミは仔犬を地面に下ろして、薄闇に眠るように並ぶボートを眺めた。
仔犬はまだ心もとない足取りでウロウロと一人歩きしている。
「何だろうな、ここ」
「ボートの倉庫?」
「だって、海はずっと向こうだぜ」
ボクは当てずっぽうで港の方を指差す。
「川で乗るんじゃない?」
「こんな川でボートに乗って楽しいか?」
ボクはボートをスポーツとして乗る事を知らなかった。
確かに少し離れた大きな川でもボートに乗れるけど、川幅は運河の4倍は在るし近くに公園もあるきちんとした観光用だった。
「楽しい人もいるんじゃないの?」
ユミは壁際に立てかけてあるオールを撫でる。
河底の淀んだコケの、というかフナの死骸のような臭いがした。
ボクはふと、周囲を見渡す。
「ていうか、犬は?」
「あれ?」
ユミは辺りを見回すと「ここにいたよ」
ボクのつれて来た仔犬は常に手を触れていたが、気付くとユミが下ろした犬がいない。
ユミはこういうところが、やたらうっかりしているんだ。
「バカ、歩いてどこか行ったんだ」
ボクたちは慌ててボートが積まれたラックの下を覗きこんで探す。
「シロ、シロ」
ユミが勝手に名前を呼ぶ。
「何でシロなんだよ」
「だって、白いから臨時の名前」
「臨時の名前で呼んで出てくるかよ」
「じゃあ、何て呼ぶの?」
「知るか。とにかく見つけろ」
さすがにラックの下は真っ暗で、犬の姿は見つからない。
天井の穴から注ぐ光は、積み上げられたボートに遮られていた。
薄暗い中で二人はてんやわんや探し回る。
「外に出ちゃったのかな?」
ユミが泣きそうな顔をした。
「まさか」
よく見ると、ぼろい小屋の壁のあちこちに、仔犬が出てゆけそうな穴ぼこがいくつも開いている。
ボクは不安を打ち消すように、再びボートの下を覗きこんだ。
「どうしよう……ゴメンね朋ちゃん」
ユミはぐすんと鼻をすすった。
「大丈夫だよ」
ボクはそう言いながら彼女の頭を手のひらでポンとたたくと、小屋の外へ足を向けようとした。
クウウウウ〜ン。
どこかで仔犬が鳴いた。
ボクがつれて来た仔犬は今、ユミが抱えている。
どこか遠くで声がした。遠くで、といっても小屋のどこかだ。
「どうしたの?」
振り返ったボクにユミが言う。彼女には聞こえなかったのか?
「今、鳴いたよ」
「うそ? 何処?」
「シッ」
ボクは彼女の声を制して耳を澄ました。
クウウウウ〜ン。
再び鳴いた。
今度はユミにも聞こえたのか、ボクが声の方へ歩き出すとトコトコ後から付いてきた。
結局一番奥に在るモノ入れが積み重ねられた隙間に入り込んで、出られなくなっていた。
犬って、バックするのが苦手なようだ……。
二匹の仔犬を抱えてオンボロ小屋の外へ出ると、一瞬景色は白色に霞んで陽射しが眩しかった。
ユミの睫毛はまだ濡れていた。
暗くてよく見えなかったけど、けっこう泣いていたようだ。
ボクは気付かないフリをして
「さぁて、帰るか」
「うん」
ユミが身体イッパイに頷いたから、上半身だけ抱えた仔犬の後ろ足がぶら〜んと揺れた。