第5章―【5】呼び声
夏休みの間には、登校日という面倒なものがある。
まあ、ボクは毎日水泳部の練習で学校へ通っているけれど、やっぱり教室の机の席に座るのは野暮ったい。
八月九日。
学校へ行くと、昇降口でサトシに合った。
夏休みに入って、一度遊んだきりだったから、なんだかすごく久しぶりだ。
「トモ、千春の家……火事で焼けたって……」
サトシは開口一番そう言うと
「知ってたか?」
初耳だった。
千春は五年生の時に新しい家に引っ越してしまい、ボクの家から少し離れてしまった。
その新しい家が、火事でほぼ全焼したと言う。
彼女とはクラスが離れてからほとんど、いや……全く会話を交わしていない。
「千春は?」
「知らない。学校来てないんじゃない」
サトシの言うとおり、朝礼でも千春の姿は見当たらなかった。
体育館から教室へ戻る時、二組の教室を覗く。
「おう、トモ。どうした? 誰か探してる?」
ゴッちゃんが振り返って声をかけてきた。
「いや……ちょっと」
ボクは千春の事を言い出せない。
視線を教室に巡らせると、数人がこっちを見ていた。
ボクは直ぐに踵を返して自分の教室へ戻る。
やはり千春の姿は無かった。
ホームルームでは、担任教師からこの学校の生徒の家が火事で焼けてしまった事だけ話があった。
みんなも噂で千春の家だと知っているが、誰も突っ込んだ質問はしない。
結局ボクも、何も訊かないまま放課後の部活に向かった。
明日は市民水泳大会だ。
朝から気温は30度を越えていた。
家並の向こうから大きな入道雲が天高く立ち昇る。
一度学校へ行ってから、マイクロバスで会場の市民プールへ向った。
ボクたちにとっての一大イベントだけに、誰もが浮かれ、緊張にこわばった笑顔を見せる。
「トモ、今年は優勝しろよ」
隣のクラスの信彦が言う。
去年から水泳部で一緒の彼は、意外と仲がいいのだけれど……何でかプール以外では一緒にいる事はない。
ボクは信彦が差し出したうまい棒の封を切りながら頷いて見せた。
塩カルのニオイが漂う場所は慣れているはずなのに、やっぱりこの会場は特別だ。
25メートルプールと50メートルプールが並んだ大きな敷地は、緊張を誘発させるには充分だ。
見物のお客は去年より多いような気がする。
25メートルプールの周辺は小さな人混みが塊となって、あちらこちらに散らばっている。
ボクは施設されたテントに入って荷物を下ろすと、バックの上にバスタオルをかけた。
「朋也くん、誰か呼んでる」
女子自由形選手の美香子が背中から声をかけてくる。
ボクは怪訝な顔で振り返った。
「外のシャワーの所で」
美香子は、50メートルプールとこの25メートルプールの間に設置された外シャワーの在る水道場を指差す。
ボクは首を伸ばしてその方向を見るが、後に立つ人混みで何も見えない。
仕方が無いから立ち上がって、人を掻き分けるようにしてその外へ出た。
確かに誰かが立っている。
大きなつばの帽子を被った、ワンピース姿の人だ。
陽射しに煽られたコンクリートに立つ人影は、陽炎に揺れていた。
ボクは一瞬ヨウコさんだと思った。
ゆっくりと水道場に近づくと、その人が誰なのかが明らかになる。
「久しぶりだね」
未だに少しおかしなイントネーションは、やっぱり治らないのだろう。
でも、ボクはその喋り方が好きだ。
「うん……」
ボクは千春の目の前で立ち止まると、小さく頷いた。
黄緑色のワンピースが、若葉のように夏風に揺れている。
彼女は大きなつばの黒い帽子を被って、見知らぬ少女のような笑顔でボクを見つめた。
「転校する事になったから」
「転校?」
「ウチの事、聞いてるでしょ?」
「火事……?」
ボクはあまり口を動かさずに応える。
「ずっといるね。今日」
千春は懐かしい笑顔を見せる。
瀟洒な館で飼われているネコのような、限られた人にのみ向けられる人懐っこい瞳。
「引越しは?」
千春は応えなかった。
その代わりに「呼んでるよ」
ボクの後を小さく指差す。
開会式が始まるために、仲間が呼んでいた。
時間が欲しい時に限って、時間は無い。
「夕方、ウチの前の駅で」
ボクは彼女にそう言って、駆け出す。
千春が頷いたかはわからない。
黒い大きな帽子のつばが影を作り出して、彼女の表情はもう見えなかった。
お読み頂き有難う御座います。
のんびり連載してきたこの作品……。
おそらく次回が最終話です。