第4章―【4】虫の声……。
カッコウの鳴き声を聞きながら目覚めた。
婆ちゃんの家は畳みの濃い匂いに包まれている。
古い木の香りが年季の入った柱のあちらこちらから匂ってくる。
そんな婆ちゃんの家が、ボクは気に入っていた。
ラジオ体操も無く、少し遅い時間に起きて朝ごはんを食べると爺ちゃんは何処かへ行ってしまう。
今思うと、何処かへ働きに行っていたらしい。
知り合いの畑を手伝ったり、漁を手伝ったり……昔の小さな部落は何かと手伝いの仕事が転がり込んだのだろう。
婆ちゃんの家に来たからと言って、これと言って何か目的が在るわけでもない。
少しすると、婆ちゃんも何処か知り合いの家に用事で出かける。
用事といっても、茶をすすりに行くんだろうけれど……。
ボクはひとりで、直ぐ傍を流れる小さな小川なんかを眺めにゆく。
全ての景色が何時もの日常とかけ離れて違うから、何処にいてもボクは退屈しない。
小さな小川は本当に小さくて、二跨ぎで越えられる。
ゴロゴロした石が透明な冷たい水に沈んで、ボクはその合間を流れる水に触れるのが好きだった。
暑苦しい蝉の声を聞きながら、冷たい沢の水に木片を浮かべて一人遊びをする。
木々の緑は、陽射しを遮って少しだけ澄んだ風が頬を撫で続けた。
お昼頃帰ってきた婆ちゃんとお昼を食べて、庭の植木の合間を舞うアゲハチョウを眺めながらスイカを頬張る。
午後は何をしようか考えた。
夜の花火大会までは大分時間がある。
ボクはヨウコさんの笑顔を想い出して、少しだけはにかんだ。
「今、中原のコウスケが帰って来てるんださ」
婆ちゃんが台所から、縁側のボクに言った。
「コウスケって?」
「中原の孫だよ。昔遊んでもらったの、覚えてねぇか?」
船着場を越えて小さな峠を越えた所に、婆ちゃんの古い友達がいる。
その中原バア(婆ちゃん)の孫らしい。
確かに昔、海で一緒になって遊んでもらった記憶は在るけれど、当時その年上の少年が何処の誰なのかあまり気に留めていなかった。
「ああ……」
ボクは気のない返事をしてから、眩しく澄み渡る空を見上げた。
コウスケは、ボクの住む町へ下りて何処かの中学に通っているらしいけれど、本人に逢っても直ぐに思い出せるかどうかも自信は無い。
蝉の声が山々を囲っていた。
ボクは高く上った太陽の陽を浴びながら、海沿いの防波堤に沿って歩いていた。
直ぐに船着場が見える。
昨夜のヨウコさんの残像に導かれるように、ボクは船着場に下りた。
漁に出ているのか、昨晩よりも停泊している漁船は少なかった。
カモメの声が、蝉に負けじと当たりに響き渡る。
船着場の横は山の岩肌が見える崖になっていた。
そのふもとには古びた小屋が幾つか並んでいる。
おそらく、漁師が個々に使っている道具小屋だろう。
ボクは何がない興味に引かれて、古びた小屋を眺めて歩いていた。
昔も覗いた事はある気がするけれど、何年前の事か覚えていないし、どんな風だったかも覚えていない。
薄っぺらなガラス窓が、汐風で風化していた。
三つ目の小屋を、古びたガラス越しに覗き込んでボクは息を飲む。
そんな瞬間は経験した事が無かったから、飲み込んだ息が逆流しそうになるのを必死で堪えた。
蝉の喧騒とカモメの歌声が、ボクの気配を消していたに違いない。
その小屋の中には、ヨウコさんがいた。
そして一緒にいたのは中原のコウスケ。
その男がコウスケだと、ボクはひと目で判った。
大きなナワの束に、ふたりは重なるようにもたれかかって座っていた。
コウスケの半身上に、抱かかえられるようにしてヨウコさんの身体があった。
ボクといるときに比べて、彼女の身体は小さく見える。
向日葵色のワンピースと日焼けした肌が、薄闇に浮き上がっていた。
彼女を抱かかえるコウスケの片手は、彼女のワンピースの小さな胸の隙間に消えている。
そしてもう片方の手は、向日葵色のふわりとした裾をたくし上げて、その中に消えていた。
ボクの思考は錯乱……いや、混乱した。
一瞬ふたりが何をしているのか判らなかったから……。
それが何の行為か解った途端、胃の奥から何かがせり上がって来そうになって、慌てて静かに唾を飲み込む。
コウスケの左手がぎこちなく動くと、ヨウコさんのワンピースの裾が動いた。
見慣れたはずの日焼けした太股が別の何かのように見えて、ボクは大きな息を吐き出しそうになるのを堪える。
淡い水色だった……。
薄汚れたガラス越しに、淡い水色の生地とそこに散りばめられた小さな赤い花模様が見えた。
煌々とボクを照らす陽射しとは裏腹に、小屋の中は薄闇に包まれていた。
それでも彼女の下着ははっきりと見えて、その中にコウスケの手は消えて膨らみを作っていた。
ヨウコさんは辛いような、何かを求めるような不思議に神秘的な表情をして目を閉じていた。
ボクは駆け出す。
蝉の喧騒も、カモメの歌声も聞こえはしなかった。
何処か別の空間にでも迷い込んだように、何も聞こえない真っ白な闇を、ボクはただ走っていた。
息を着いて立ち止まったのは、盆踊り会場の櫓の下だった。
息を弾ませて空を見上げると、そこには相変わらず眩しい陽射しが沈黙の中でボクを照らしていた。
蝉の喧騒が蘇える。
遠くでカモメの声が聞こえた。
熱い汐風が、堤防を掠めて雑木を揺らしている。
ボクはその風に逆らって防波堤に近づくと、やたら遠くに感じる船着場を眺めた。
波に揺られる漁船の姿が、蜃気楼のようにゆらゆらと霞んでいた。
その夜ボクは、盆踊りにも花火大会にも行かなかった。
夜の帳に、虫の声が悲しげに鳴り響いているのをただ聞いていた。
お読み頂き有難う御座います。
次回から、いよいよ最終章―小学六年生です。