第4章―【2】見知らぬ知人
婆ちゃんの叩く太鼓の音が、連なる提燈の明かりの枠を超えて闇に溶け出していた。
次から次へと流れる盆踊りの曲は、ボクの頭の中を素通りして直ぐ後の防波堤の向こうへ消える。
微かな波の音が、鳴っていた。
ボクはぼんやりと浮かぶ踊りの宴の中に視線をさ迷わせる。
半周するとヨウコさんの姿は消え、再び円の中から現れるのをボクは待ち続けた。
近づいて行きたかった。
でもボクは、気が付くと後ろへ下がっていた。
その夜、ボクは敷地の外れから提燈の明かりの中に浮かぶ盆踊りの櫓を眺め、ヨウコさんの姿を眺めていた。
満ち切った潮の香りが背後からボクの心に沁みて、何だか塩辛い想いがした。
* * *
潮が引いた海は砂浜が広く現れて、養殖用の黒い樽のブイが海面に接触して横向きに転がっている。
ボクは防波堤の上に肘を着いて、遠く離れた水面を眺めていた。
幾つも並んだ棒杭の上に、一羽ずつカモメがとまっている。
「朋也君?」
ボクは空耳だと思った。
婆ちゃんの家のあるこの小さな部落で、若い女性がボクの名を呼ぶという事は、考えられなかった。
ボクの記憶に在るヨウコさんの声が、風の悪戯で耳を掠めたのだと思った。
でもボクは振り返る。
レモン色のワンピースを着たヨウコさんが、手を後ろに組んでボクを珍しいアライグマでも見るように見つめていた。
「あっ……」
「やっぱり。朋也君だった」
少し離れた場所に立っていた彼女は、そう言ってボクに歩み寄る。
汐風にスカートの大きな裾がヒラヒラと揺れた。
「昨日の夜、いたでしょ」
「えっ?」
「盆踊り」
ボクがいたのは、佐藤商店の裏だった。
昨晩盆踊りを行った敷地に立つ店の、直ぐ裏側だ。
盆踊り祭りは明日まで行われる為、櫓は佇んだまま日中の陽射しに照らされて沈黙している。
「うん」ボクは短く応える。
「朋也君も遊びに来てるの?」
「婆ちゃん家が、すぐ近くで」
ヨウコさんは、ボクと並んで防波堤に背を着けた。
髪をかきあげる時、袖なしワンピから脇の下が見える。その中の素肌には、白いレースがチラチラと見え隠れしていた。
彼女はもう大人になりつつあるのだと思った。
「今夜も来る?」
海に背を向けると、視界に入るのは遠くまで連なる山々。
深い緑に囲まれた木々の隙間を縫うように、鳥の囀りと蝉の声が聞こえた。
「うん。たぶん」
「お婆さんの家は近く?」
「この先の、突き当たり」
盆踊りの敷地とその先の細い国道を跨いだ正面に見える小道を、ボクは指差す。
「ああ、そうなんだ」
ヨウコさんは笑った。
「知ってるの?」
「山菜採りに行くとき通るよ」
突き当りとボクは言ったけど、車で入れる突き当りであってその先にもさらに細い小道は山の尾根に沿って続いている。
確かにボクも、婆ちゃんや兄貴と一緒にその小道を登って山菜を採りに行った事がある。
「あたしのお母さんの実家はね、トンネルの手前を入った集落にあるんだよ」
去年山をくり貫いて、近くにトンネルが出来た。
ヨウコさんがその手前を入ると言った道は、トンネルが出来る前は道なりだった所だった。
婆ちゃんの知り合いが住んでいるので、その集落もボクは知っていた。
小さな山々と海に囲まれたこの部落は、あちらこちらの山のふもとや海岸沿いに小さな集落がチリジリになって構成されている。
ボクはよく解らないけれど、きっとヨウコさんのお婆さんもボクの婆ちゃんと顔見知りのはずだ。
ボクたちは少々曖昧に約束を交わしてその場で別れた。
本当はもっと一緒にいたかったのだけれど、ヨウコさんの親類がお昼の仕度が出来たと迎えに来たから仕方がなかった。
軽トラックの助手席から小さく手を振るヨウコさんの姿は、まるでこの地で知り合った見知らぬ知人に見えた。
ここで出逢った彼女は、同じ小学校のヨウコさんではないような気がしたんだ。