第4章―【1】浴衣とラムネ
眩しさに溶ける水しぶきが塩化カルシュウムの香りを運んでくる頃、ボクは毎日放課後のプールで透明な枠の中で泳ぎ続ける。
五年生の夏、ボクは特設水泳クラブに入部した。
入部できるのは、体育の授業で学校が規定する水泳検定3級以上の者だけだった。
ボクは、もちろん1級を得て、入部を許された。
クロールを得意とするボクは、当然のように自由形の選手候補として放課後のプールで練習を続ける。
担任教師から連絡が行き、今年も顧問となった地主先生が立会いの元泳ぎを披露した。
直ぐにOKが出て、100メートル自由形選手の候補となる。
もちろん、六年生の選手もいるわけで、ボクの分誰かが枠から外れる事になる。
そんな事情から、ボクへの風当たりは少々強いような気がした。
部長はいたが、主導権は全て顧問にあり勝手な練習メニューなどは認められていない。
その為、中学や高校の部活にあるようなシゴキがないのは幸いだったような気がする。
五年生になると、三度目のクラス替えがあった。
もちろんユミとは同じクラスにならなかったが、千春とも違うクラスになってしまった。
同じクラスという同盟意識が繋いでいた彼女との縁は、あっけなく知らぬ間に薄れていった。
時ものようにボクはウォーミングアップの1000流しをやっていた。
1000流しとは、顧問の地主がくるまでに自主的に1000メートルを自分の競泳スタイルで流して泳ぐ事だ。
基本的には足を着いてはいけないのだが、ほとんどの連中は途中で一休みする。
ボクは絶対に途中で休まない事を自分の規約にかかげて1000流しをした。
しかしこの日、誰かがボクの横から歩いてきてコースを塞ぐと、避けるボクにわざとらしくぶつかって来た。
それでも泳ぎ続けるボクに、もう一人がさらにぶつかる。というか、よろけるフリをしてボクの背中に覆いかぶさってきたのだ。
たまらずボクは足を着いて立ち止まった。
六年生の誰かだった。
眼中にない奴らの名前なんて、覚えていない。
彼らは冷ややかな笑いを浮かべて、プールサイドへ歩いてゆく。
中には25メートルを数往復しただけで、1000流しを誤魔化す連中がいる。彼らはそういったサボリ組みだ。
サボリ組みに限って、努力者の邪魔をしたがるのは、何か心理的原因なのだろうか。
「ちょっと、今のわざとでしょ」
大きな声がしてボクは振り返る。
3つ離れたコースで立ち止まる女子がいた。
「上級生のくせにみっともない真似止めなよ」
彼女はプールサイドに上がる途中の二人組みの背中に声をぶつける。
山口ヨウコ……六年生の中で1000流しの途中、ひと休みもしないのは彼女だけだという事をボクは知っていた。
彼女は同じ学年の陰険な行動を見かねて声を出したのだ。
言い換えれば、ボクの為に足を着いたのだ。
「大丈夫?」
少し心配そうに彼女はボクの方を覗った。
ボクは上級生の女子に声をかけられて、上手く返事が出来ない。
小さく会釈だけをして、1000流しの続きに戻った。
彼女と言葉を交わしたのはそれだけだった。
夏休みに入っても毎日練習はあったが、上級生の女子と会話を交わす機会など何処にもない。
ただ、8月10日の市民水泳大会の応援席で、彼女はボクにレモンスライスを勧めてくれた。
選手控え室などのない大会会場では、応援席がそのまま選手の控え場になっていたのだ。
ボクは100メートル自由形で二位の表彰を受け、山口ヨウコは平泳ぎ女子100メートルで3位の表彰を受けていた。
夏の陽射しに舞う水しぶきが消えると共に、ボクのひと夏は終わったような気がした。
1位にはなれなかったけれど、毎日欠かさず練習に通った満足感がボクに燃え尽き症候群にも似た気だるさをもたらしたのだろう。
この夏、ボクは数年ぶりに祖母の家に遊びに行った。
山と海に囲まれた深い緑色の世界。
カッコウの声が朝靄の山々に響き渡り、蝉の喧騒が空気を染める。
雨水の水滴越しに観たような、透き通ったこの風景がボクは好きだった。
お盆に合わせて兄と共に来る予定だったが、急遽キャンプが決まったと言って彼はキャンセル。
結果、ボクだけが一人でこの山村のような町へ来た。
さすがに市に含まれるこの、地も村ではないのだ。
海辺の近くに文房具と駄菓子を売っている店が在って、そこの大きな敷地に盆踊りの櫓が建てられていた。
紅白の布で覆われた二階建てほどの高さを持つ櫓を囲んで、三日間盆踊り祭りが開かれるのだ。
婆ちゃんに連れられて、夜の七時前にボクは盆踊り会場へ向った。
車がやっと一台通れるような細い小道を歩く。
まだ完全に陽は暮れていないが、山に向って聳える杉林が黒々と壁を作っていた。
街路灯の無い小道では、懐中電灯が必需品だった。
そんな文明から少し遠ざかったような所が、ボクの心をドキドキさせる。
うねった小道を暫く歩くと舗装道路にでる。
少し手前から櫓に燈る提燈の華やかな明かりが目に留まった。
まだ音量は低いが、何とか音頭とかの歌が流れている。
それは夏の風物として、充分子供の心をくすぐった。
婆ちゃんは太鼓の係りを請け負っているらしく、少しすると背中を丸めて櫓に登る。
ボクはラムネを口にしながら、ぼんやりとその櫓に燈る提燈などを眺めていた。
気がつくとずいぶん人が集まってきている。
どこから出てくるんだろう……。
こんな小さな部落でも、総出でお祭りとなれば結構な人数がいるもんだ。
お盆休みと言う事もあって、東京などから実家に帰郷している人もいるようだ。
部落に住む人から見れば、孫にあたる子供の姿も沢山目につく。
もちろん、ボクもその中の一人なのだけれど。
ラムネを飲み終えたボクは、ソーダアイスを貰って口にくわえた。
別に盆踊りをするわけでもないボクにとって、食べ物や飲み物だけが目当てともいえる。
何と言っても、ここにいるだけで次々にアイスやジュースが廻ってくるのだ。
半分食べたアイスをくわえたまま、ボクはふと踊りの始まった輪に目を留める。
水色に赤や黄色の朝顔が散りばめられた浴衣が、視界の全てを満たした。
ボクが見る風景は、そこだけが丸く切り取られていた。
少し前から彼女はそこにいたのだろうか。
髪をアップにして後にまとめたお団子には、何か髪飾りが付いている。
それはボクの記憶にはない彼女の姿だった。
山口ヨウコ。
そう、水泳クラブで一緒だった六年生の彼女だ。
四方に張り巡らされたロープに提燈が吊るされて、淡い光で踊りの輪を照らしている。
その淡い光が彼女の浴衣の朝顔だけを、克明に映し出していた。
何時もさらけ出した彼女の素足は、今夜はすっぽりと浴衣に包まれて妙にお淑やかに見えた。
両手を遠慮気味に動かして踊る彼女の姿を、ボクはなおもぼんやりと見つめて、気が付くと融けたアイスが足元にぽたりと落ちた。