第3章―【2】夏の香り
「口さけ女かな?」
サトシは腹が痛くなったと言って先に帰り、ゴッちゃんは父親が迎えに来てそのままバッティングセンターへ行った。
ボクは初めて、学校から帰る道筋をユミとふたりで歩いていた。
アスファルトから溢れ出る熱にほだされる中で、ユミが言ったんだ。
それは今年になって急激に噂の広まった口さけ女という、なんだか判らない人型の何からしい。
「そんなわけないよ」
ボクは思わず笑ってしまったが、もしかしてそうなのか? とも思った。
周囲の人々に追い詰められて、あのボロ小屋に逃げ込んでいるのかもしれない。
妖怪なのかなんなのかわからない口さけ女なら、鍵のかかっている部屋にも入れるような気がした。
ユミは濡れた水着の入ったビニールバックをぶらぶらと大きく揺らして
「だって、普通の人間じゃないよ。きっと」
「かもね」
陽射しが目に入って、ボクは目を細める。
「ねえ、行ってみようか?」
「行くって?」
「ボロ小屋」
ユミはまだ湿った黒髪をかき上げる。ボクの短い髪の毛は、もう完全に乾いてパサパサになっていた。
「だって、誰か住んでたらどうする?」
「トモ怖いんだ」
「別に怖くはないけどさ……」
「じゃあさ、行ってみよう」
ユミはそう言ってバックを持ち直すと「お昼どうする?」
ボクは家には帰らず踏み切りを渡って、ユミの家に向った。
誰もいないから一緒にお昼を食べようと言うのだ。
ボクは何となく彼女に促されるまま、久しぶりにユミの家に向った。
玄関にはミキのものと思われる靴がある。
「ミキ、いるの?」
「たぶん」
ユミは自分のサンダルを脱ぎながら「でも、どっちでも変わんないよ」
それもそうだ。
ミキは部屋で読書をしていると、ほとんど外へは出ない。
誰もいないと言った中に、もともと姉のミキは入っていないのだ。と言っても、他は母親しかいないのだけれど。
ボクは茶の間に腰掛けてテレビを観ていた。
台所でユミが冷やし中華を作っている。まな板をたたく音はきっと、ハムを刻んでいるのだろう。
ボクたちは昼のバラエティー番組を観ながらズルズルと冷やし中華をすする。
「ミキの分は?」
「声かけといた」
とりあえず姉の分も作ったらしい。
ボクは台所の奥に通じる廊下をそっと覗いてみた。人の気配はしない。
蝉の声だけが、家全体を包み込んでいた。
扇風機の風が心地よかった。
スイカを一切れ食べて、ボクは何時の間にかウトウトと寝入っていた。
茶の間の窓からカーテンを揺らす風が、穂のかに熱い。
目を覚ますと扇風機の角度が変えられて、ボクに直接風が当たらないようになっていた。
ユミが気を利かせてくれたのだろうか。
ふと台所を見ると、ミキがお昼を食べている。
正確に言うと、食べ終わってボクの方をちょうど見たところだった。
それとも、暫く前からボクを見ていたのだろうか?
「おはよう」
ミキがおっとりと微笑む。
「えっ?」
彼女の冗談に、半分寝ぼけたボクはただ瞬きをするだけだ。
ボクはミキと仲が悪いわけではない。
以前ここへ来た時も意外と話しをしているし、近所の文房具店であった時も笑顔で言葉を交わしている。
何時の事だかあんまり覚えてないけれど。
ミキは茶の間へ入ってボクに近づくと
「よく寝てたね。プール疲れるでしょ?」
「疲れるけど、楽しいよ」
「そう」
ミキがボクの傍にペタリと腰を下ろしながら言った。
壁に寄りかかって、息をつくと再びボクを見てほんわかと微笑む。
ボクは彼女のほわほわした笑顔が嫌いではない。
何だか普通の人と生きている次元が違うと言うか、どこか違う世界にいる人みたいなのだ。
何時も本を読んでいるミキは、複数の世界を行ったり来たりしているのかもしれない。
ただ、今年中学一年生になった彼女は、ずいぶんお姉さんになったように感じる。
ショートカットの横髪が、後ろに向かってキレイに流れを作っているせいだろうか。
「ユミは?」
「さあ」
ボクの問い掛けに、ミキは悪戯な笑顔で小首をかしげる。
色黒のユミと正反対の彼女の頬は、白桃のように白かった。
「ねぇ、キスってしたことある?」
ボクは彼女の白い顔に見とれながら素直に小さく頷く。
「うそ」
「ほんと」
「誰と?」
ミキは瞬きをしながら、ボクの瞳の中を覗き込んでいた。
「それは、ないしょ」
窓の外から忘れていた蝉の声が響いていた。
庭木の緑の香りを、風が運んでくる。
「じゃあ、あたしともできる?」
ミキがグッとボクに顔を寄せてきた。
ボクは首を横に振ろうとしたけれど、その前にミキの唇がボクの口を塞いだ。
ぬるりと何かが口の中へ進入してくる。
生暖かい。
自分とは違う体温を口の中で感じた。
目は開いていたはずなのに、何も見えなかった。
ボクの舌先にミキの舌が触れた瞬間、背筋がせり上がる気がした。ボクは拳を握り締めて身体の震えを押さえる。
冷やりとした何かが触れた。
彼女の手が、ボクの拳を覆ったんだ。
そっと優しく、それはボクに触れていた。
ユミとは違った大人の香気が鼻孔を抜ける。
扇風機の風が、テレビの上の新聞をパタパタと仰いでいる音が聞こえた。
いま考えると、ボクを包み込んだあの甘酸っぱさは、冷やし中華の香りだったのかもしれないけれど……。