8:黒髪の剣士
全てを焼き尽くすが如く、灼熱の陽が照り付ける。微かな砂塵が吹き荒び、人工的な砂埃が舞い上がる。
砂煙が少しずつ静まると、そこには鋼の様な鈍色の装甲を有する、巨大な毒弓がしなっている。
「お前らと居るとロクなことがない!!」
白髪の青年、つまりレイメ・ドルミエは嘆く。
その悲しみを砂漠の蠍”エスガリオン”に叩きつける。いくら鋼の装甲を有しているとはいえ、関節部分は柔らかい肉がむき出しになっている。そこを狙えばいい。しかし、事はうまく進まなかった。
エスガリオンは盾の様な鋏を大きく振りかぶり、力任せにあらゆるものを薙ぎ払う。咄嗟に大典太の矢で受け止めるが、より強硬な装甲が、その衝撃を更に倍増させて見せる。レイメの体は吹き飛ばされるが体制を立て直し、大典太を砂漠に突き立てることによって己を止める。しかし、金属伝いに骨まで鈍い痛みが走った。
「くっそ……」
エスガリオンの毒針が細かな砂に突き刺さる。
ただでさえ灼熱の光に晒され、それ自身も身の外側を深く熱されているのに、エスガリオンの毒針のせいで、細かな固形の熱風となってレイメに叩きつけられる。
ロームングル、イルヤと高みの見物をしているエマが杖を砂漠に叩きつける。するとレイメの体は一瞬でエスガリオンの背後に転移。自然落下による衝撃の倍増を利用して、力を大典太の切っ先に集約させる。その刃先はエスガリオンの頭と首の関節部分の肉を簡単に貫き、刀身は中ほど以上に浸かった。すかさず刀身を抜き、飛翔。
それと同時にエスガリオンは甲高く啼き叫ぶ。地を抉るようにして脚の刃先を突き立て暴れる。何度も何度も砂漠を抉り、自らの体液を撒き散らしながら朱色の砂塵を舞い上げる。その身を朱い砂に隠し、いつしか錆びた金属を擦り合わせたような鈍い音以外の情報が得られなくなってしまった。
「もっとスマートに殺してよ」
エマは偉そうに文句を言う。舞い上がる砂煙を鬱陶しそうに衣の袖で防ぎながら、紫水の瞳で睨みつけてくる。
「口の中が砂の味だよ!」
エマは口を開くものだから、余計に口の中で砂の味が広がる。
次第にエスガリオンの悲鳴も、砂塵も止む。
動きを止めたエスガリオンの肉体は、体の内から水蒸気を発し、その身の装甲を強酸で溶かし尽くした。
「本当、食料にならないから、労力に見合わない。おかしい。」
レイメの腹が鳴る。「エスガリオンは滅多に遭遇するような巨獣じゃないし、何故エスガリオンよりも個体数の多い砂漠兎が出てこない?!」ただでさえ口の中の水分が減っているのに、しかし叫ばずにはいられなかった。
「ユリウスさんから頂いた食料も尽きてしまった!!」
嘆きが吐き捨てられる。
この広大なリディウラ砂漠を歩くこと早8日目であるが、ユリウスは食料を少なめに渡したわけではなかった。むしろその逆だった。それをレイメが寝ている最中、エマが夜食にと食べてしまった。更に腹立たしいことに、全ての罪はエマだけでなくロームングルにもあった。ロームングルは目の前で貴重な食料を盗み食いするエマを止めなかったのだ。その結果が今だ。
とはいえ、リディウラ砂漠は砂漠とは言えども、食料に困るような砂漠ではない。むしろ食料に困らないはずだった。何故ならアクベレと呼ばれる砂漠兎が生息しているからだ。アクベレは砂漠の民がよく食べる肉だ。なのになぜ、一体も遭遇しないのか、レイメは嘆かずにはいられない。いや、もうすでに嘆いていた。その代わりによく出会ったのが、食用にならない上に、倒すのにそれなりに時間を要するエスガリオンだった。
「もう嫌だ!!」
嘆きは天まで轟く。すると嘆きを聞き届けたのか、今度は新たなエスガリオンが姿を現した。
「……は?」
つい乾いた疑問の声が上がる。神は無情だった。無情な神はレイメにエスガリオンという破壊の使徒を派遣したらしい。心の底からの嫌悪が、レイメの血の気を引かせる。
「もう、嫌」
視界が歪む。視界の隣でロームングルの衣が翻る。
イルヤはロームングルの肩から降り立ち、今度はエマと二人で見物に入る。レイメの存在そのものを空気扱いして。
怨刀グラムスの、大地を流れる血液のような黒々とした赤が大気を熱する。それだけでなくグラムスの周囲にも陽炎が揺らいでいた。
「本当に限界」
レイメは膝から崩れる。それを気にすることのないエマはきゃきゃとはしゃぎ始める。
エスガリオンは呻く。
ロームングルの足が砂の海を蹴り、大きく飛翔。エスガリオンの毒針がしなり、一矢放たれる。
「甘い」
グラムスの刃は毒針を切り落とす。鈍い音を立てて毒針が落ちるよりも早く、エスガリオンの怒りが思考を支配し、猛るままに、盾のような鋏で薙ぎ払う。しかしロームングルは鋏を足場にして後ろへ後退。エスガリオンの第二矢たる鋏での突きを繰り出した時、蠍の口腔から生温かなものが零れる。
「流石僕の家来」
エマの口元が歪む。
グラムスの呪いの刃が、エスガリオンの口腔に突き立てられていた。一瞬にして高温に熱されるグラムスの刃に、蠍はうめき声を上げることも許されず、ただ空しく宙を搔き切っていた。そしてそれは、何事もなかったかのように、突然動きを止めた。
エマはロームングルの腕に勢いよく抱き着いた。イルヤもそれに倣おうとするが、エマという先客がいるせいで中々できない。それでも強引に定位置に戻ろうとする。
「イルヤ痛い! やめてよねーっ!」
エマの抗議の声に反発し、威嚇する。ロームングルは些かめんどくさそうだった。
レイメにとってその声は少し遠くの場所から、風に伝って届けられる。空腹の限界を迎えたレイメなど忘れ去られ、一人哀しく砂漠の上で伸びていた。
「急がないと今日も野宿する羽目になるぞ」
ロームングルの正論に、エマとイルヤのくだらない喧嘩がぽつりと止む。
「確かにもう野宿はやだ!」
「なら歩け」
「え……ちょっと、待って……」
レイメは腕を精一杯伸ばす。もう立つことのない脚を引きずって、腕を伸ばすも、誰もレイメに気づかなかった。
「真面目に歩けば、夕暮れまでにはハルスに着く」
「うん、分かった……頑張るよ僕」
「俺のことは……?」
消えかかりそうな世界の中で、ただ一人忘れ去られるという最悪の結末を全力で否定する。しかしそれは最早現実と化し、実際に二人と一匹の影はもうそろそろ陽炎が消し去りそうなほど遠くにいた。
「俺たち仲間だろ? なぁ??」
その声は全く届かない。
ついに腕にも力が入らなくなり、腹の音が盛大になった後で、レイメの世界は暗闇に包まれた。
***
パチパチと火の粉が弾ける。その臭いが鼻を劈く。
ここはどこだと瞳を探らせても十分な情報が手に入らない。その上、頭も冷静に回らなかった。
「レーイーメー」
聞きなれた声がレイメの名を呼ぶ。
どうやら先ほどの、砂漠のど真ん中で皆に置いていかれたアレは夢だったのか。桃髪に紫水の瞳を有するエマの姿が、レイメの視界を支配していた。
「お小遣い」
沈黙が流れる。
ようやくまともに晴れる視界の中で、この子供は何を言っているんだと若干の怒りがこみ上げる。
「お小遣いちょーだーい!」
「第一声それっておかしいだろ……」
痛む頭を押さえ、体を起こす。
辺りには特にこれといった物があるわけではないが、小汚いたれ布や、粗末なテーブル、極めつけはあまりにも近すぎる粗末な壁板だった。つまり、粗末すぎる小屋、純粋な感想がそれだった。
「粗末で悪かったな」
聞きなれない低い声が鼓膜を震わす。
声の主の方へ視界を移すと、今や少し長めの黒髪に黒目の男が寝台の傍らに腰を掛けていた。レイメは言葉を詰まらせる。
「んだよ、助けてやったのに喧嘩売ってんのか?」
瞳が細まる。至極不愉快だと言わんばかりの表情だった。
「……なんか、むしろごめんなさい……すぐ出てくので許して下さい」
何故か心の底から申し訳ない気持ちが溢れ出す。もしも仮にレイメを誰かの許可なしに勝手に助けたのだとしたら、この男が何かしらの咎めを受けるかもしれない、そう思った。だとしたら、完全なる善意で助けてくれたに違いない。こんなに粗末すぎる小屋に住んでいるのだからきっとそうだ。誰かに仕えているのだろう。
「俺のことを奴隷か何かだと勘違いしてねぇか? そっちの方が失礼だぞ」
土を焼いて作った甕から水を杯に注ぐ。それも若干ひびが入っていて、何も気にせずに仰ぐと唇が切れるのではないかと、失礼ながらに思ってしまった。
ぶっきら棒に水を渡す。心なしか水が濁っているが、気にせずに飲んだ。しかしこのことを口に出すと、きっとお前の方が失礼だと言われる。
「別にあんたらを助けたから何か起こるわけじゃあない。この町で俺のことを気にかける奴は1人もいないからな」
「ぼっちってやつ?」
エマは笑いをこらえようとしているが、明らかに馬鹿にしている。そんなエマには、もれなくロームングルのゲンコツが見舞われた。
「酷い!」
「育ちの悪さが目立つテメェがクソだ」
「ロームングル、さり気なく悪口言われてるよ」
お前が教育者だったのかと、男はため息を吐いた。
「ところで、あんた名前は? 俺はレイメ・ドルミエだ。助けてくれてありがとう。いや、ほんとありがとう」
レイメは件の2人を睨む。死にかけた仲間を見捨てて先に行こうとした当人は知らん顔を決め込んでいる。
「僕はエマ! ただのエマだよ! 因みに僕ら何も持ってないから、せびっても無駄だよ! 見返りを渡せるほどないからね!!」
あたかも見返り目当てで助けたと言わんばかりの言い方だったが、別に本人に悪意はない。むしろふざけて言っているだけだ。
「残念だが、俺も患者とその友人たちに食料提供できるだけの余裕がねえからな。暫く寝床を提供してやってもいいが、水と食糧は自分でどうにかしろ」
「ガーン」
エマは悲しみに沈んだ。
「……私はロームングル・バスティオンだ」
簡潔に自己紹介を済ませる。どうしようと狼狽えるエマの事を気にもかけていなかった。
ロームングルの肩に乗ったイルヤが、ぎゃぎゃと鳴く。
「……イルルヤンカシュだ」
「イルヤって呼んでいるよ。ところで君は?」
男は黙り込む。「悪いが、名乗れる名前がない」淡々と答えた。
「あんたらと、俺は対等な身分じゃあない。卑民を名前で呼ぶ必要はないだろう?」
「そのわりには、言葉遣い酷いけどね」
余計な一言を付け加える。男の眉間にしわが寄せられた。
「おい白髪」
「しらっ……」
酷いなんてものではなかった。礼儀を欠いている。親の顔と主人の顔が見たいと心の中で毒を吐いた。
「次、俺が帰ってくるまでに、このクソガキの躾をちゃんとしておけ」
レイメは少しばかり声を低めて応答する。
「どこかへ行くのか?」
「ちょっとデカブツを狩りにな……」
男は簡単に身支度を済ませる。帯に剣を下げるためのベルトを通し、少ない水と食糧を革製の小さな入れ物に入れる。そして壁にかけられたマントを羽織る。
「まさかそれだけで行くのか?」
「これだけあれば十分だ。白髪と違って軟弱な体をしていない」
僅かに口元を緩ませ、簡素なドアに手を掛ける。
「あぁ、俺が帰ってくるまでに白髪の体調がよくなったなら、勝手に出てってくれても構わねえからな」
そう言って静かに扉を閉めた。エマはテーブルの上で頬杖をつきながら、足をぶらぶらさせる。
「なんか、近い将来死んじゃいそうだね」
「……そういう不吉なことを言うなよ。それに一応助けてもらったんだからさ」
「レイメがね。」
的確な答えにレイメは反論する言葉が思い浮かばなかった。
「ロームングルは何か感じた?」
エマは愉快そうに唇を歪ませる。しかしそれに対して、ロームングルは何も答えなかった。