6:黒肌のエルフ
エルフの里は実に幻想的だ。幾つかの里を訪れたことがあるが、いずれも絵画に描かれたような素晴らしい場所だった。いつの日かエルフの里に再び訪れたいと考えていたが、できれば今すぐに処刑されるか否かの審判を仰ぐために行きたくはなかった。そもそも巻き込まれただけなのに。
白磁の2体の像が守護する城門を潜る。森の中心にある窪んだ深い谷から伸びる1本の大樹。周囲は滝のように水が流れ落ち、水面では妖精たちが歌を奏でている。空を手の平程度しかない妖精が舞い、複眼を有する甲殻魚が大気の海を泳いでいた。
ゆっくりと大樹へ掛けられた橋を渡り、巨木に彫られた階段を下る。枝と枝を渡す橋を渡り、時には巨木の中を潜り、ずっと下へと下る。最下層部に到着すると、広大な泉が広がっていた。
滝から零れ落ちた水がゆるやかに流入する。それは波紋を広げるも、幾重にも張り巡らされた根が波紋を塞き止める。
陽の光は殆ど入ってこないこの場所は、豊かな水苔が光を灯し、仄かに明るい。それは薄緑の優しい光であった。
そして泉の中央部に設けられていたのは1つの台座と、1つの社。女神を象った像の手の平からレーヴァテインの光が零れ、根を縫いながら生える細身の花木が、薄桃色の小さな花弁を散らす。
「Ich mine youter.(久しいな)
Woun bisut rs here? (何故そなたが此処にいる?)
Ich bist bath gmmer crat, war feus. (何用でこの地へ来た)」
黒髪に、赤を基調とした衣を身にまとうエルフは、ゆっくりと振り向く。その顔には厳しい色味が浮かんでいる。そして彼の肌の色は、先ほどのエルフよりもずっと黒かった。レイメはつい畏まってしまう。エルフにしてはずっと暗い、異質な存在に見えた。
「そう険しい顔しないでよ。僕らは寝床を探しに来ただけさ。それ以上それ以下もない。昔からの馴染みじゃないか、ユリウス。それに嘘だと思うなら心を覗けばいい。君ならそれくらい容易でしょ?」
ユリウスはため息を吐く。
イルヤがぐわわっと鳴き、ロームングルの肩から降りてユリウスの手に頬を寄せる。ユリウスはその頭を軽く撫でてやると、その龍は龍とは思えない声で鳴いた。
「イルにレイエルの血族に、ロームングル…またとんだ面子であるな。そなたは厄しか持ち込まぬ」
痛む頭を手で押さえ、再びため息を吐く。ユリウスの強張っていた表情は解れ、むしろ厄介ごとを持ち込まれた心労が露わになっていた。どうやら以前にもあったらしい。
「分かってるじゃないか!」
正解だった。
「因みに僕はイルじゃないぞ、エマだぞ。名前はママから貰った大切なものだから、くれぐれも間違えないように」
明らかに目上の人に対して、この子供の態度は大きすぎる。エマが失礼過ぎることは今に始まったことではなかったが、それにしても目に余る態度だった。
「お前な……」
「それは失礼なことをした、心からお詫びしよう」
ユリウスはいとも簡単にエマに頭を下げた。そこには年齢や種族、身分階級の差異はなく、お互い同じ線に立つ存在であった。
「僕を敬いたまえ」
ない胸を張り、尊大な態度を取るエマに対して「それは出来ぬ話よ」とユリウスはからっと笑った。この答えに納得のいかず抗議の声をあげるエマの頭を乱暴に撫る姿は父と娘のように見えた。
今度はレイメに振り向き、頭を下げる。
「私はサナルの都の長、ユリウスだ。そなたの先祖には世話になった。礼を申し上げる」
「いやいやいや、俺は関係ないですよ?! あっ、俺はレイメです」
レイメは照れくさそうに後頭部を摩る。ユリウスは優し気な笑みを浮かべた。
「それにしても随分と厄介な者達に囲まれたものだな、レイメよ」
「何それ?! 僕が厄介者ってことなの?!」
笑うユリウスに、食いつくように怒る。しかしユリウスは扱いに慣れているのだろう。軽やかにあしらった。
「マウレニア!」
先ほどの黒肌のエルフを呼び出す。彼は怪訝な顔を浮かべ、跪く。
「部屋へ通し、豪勢にもてなしてやれ」
「しかし……ユリウス様……」
ユリウスは一瞬だけ表情をくぐもらせる。イルヤは敏感に、その変化を感じていた。
「今ここで……」
「……これは命令だ、マウレニア。そなたの考えも分からなくはないが、処さぬということが、私の判断だ」
マウレニアは唇を噛みしめる。納得のいかないという表情を浮かべながらも、命令だからと言い聞かせて指示に従う。
「……畏まりました。ついて来い」
敵に対して向ける視線をレイメたちに送る。マウレニアの瞳には深い闇が灯されていた。また、レイメ自身も気づきはしなかったが、ユリウスの瞳にも黒曜石より深い黒を湛えていた。
***
ハープの音が村全体に響き渡る。とても心地の良い音は深い睡魔を伴って鼓膜を震わす。レイメは枕に顔を埋め、そのまま仰向けになる。
「まともな寝床だ……」
嫌いな部類の節足動物たちと添い寝しなくて済んだことを心の底から喜ぶ。
「それにしてもな」
蔦が無造作に伸びる天井に手を伸ばす。
「イルの魂を持つ者か」
空から落ちる水が光を反射し、幻想的に輝いている。
脳裏に浮かぶのは屍に埋もれるエデンの姿。もしもあの時、その中の1つになっていたらどれほど楽だったことか、俺はこの時から何度も思っていた。いっそのことセシリアもその1つであったらとすら思っていた。しかし生きながらえてしまったからにはセシリアを助けねばならない、それくらいは分かっていた。そのためにエマを利用しようと頭の中にあった。
エマの歌声が響く。
炎が空を包み 闇が光を抱く
エルの光が イルの闇を呼んでいる
古の楽園が 闇を誘う
静かながらも力強い歌声は月明かりの下、ハープの音に混じり運ばれる。その歌声は風に乗ってかつての仲間であるヒルディエントたちのもとまで届けられた。馬の足を止め、その歌声に合わせる様にして誓いを紡ぐ。
ラーヴァナの焔を忘れるな
ラーヴァナの闇を忘れるな
今こそ絶とうぞ 古の闇を
エルの光をこの剣に
イルの誓いをこの胸に
聞こえるかエルが息絶える音を
ラーヴァナが笛口を切る音を
炎に埋もれ 闇が支配する音を
闇を断ち切れ エルの子よ
光へ導け ヴァルザリンの子よ
気高きハザドの子よ 道を切り開け
偉大なるユミルの斧をその手に
立ち上がれ イルの光よ
命尽きるまで その光を灯せ
***
「イルは処刑された。その仲間も皆、処刑された。しかしそなたらの誓いは果たされた」
「でも彼らは裏切られた。そして君もマウレニアも」
ユリウスは怪訝に顔をしかめる。
「……あれは私のことを父と呼ばなくなった。妻が亡くなったのも、一族の殆どが亡くなったのも自分のせいだと思っている。……弟と同じだ」
静かに流水が零れ落ちる。水と水が弾けて鳴る音、せせら流れる水の音、これらが嫌なほど明確に鼓膜を震わす。
「イルは何も間違っていなかった。これは明確なことだ。イルは誰よりも優しい心を持っていた。だから我々はそれを信じ、イルを止めようとした。その選択が結果的に人間からの迫害を招き、トゥリオからも追われ、皆死んだ」
「でもその憎みをどちらへ向けることが出来なかった」
「だからこの最果ての地で、ひっそりと暮らすことを選んだ。人もトゥリオも同じだ。トゥリオ……”悲しき幼子”とはよく言ったものよ。故に憎むことができなかった。……滑稽とはこのことよ」
ユリウスは自嘲気味に笑う。どこか疲れたかのような笑いだった。
「……もうこれ以上我らを巻き込むな」
「でも僕はイルを助けたい。イルを妣の許へ還してあげたいんだ。そして皆も」
エマの紫水の瞳がユリウスを見据える。とても子供とは思えないその眼差しはユリウスにとって、かつてのイルを彷彿させる。
『トゥリオは哀れむべき子供。この長らく続く争いに本当の正義はない。でも終わりを迎えなくちゃいけない。悲しみの連鎖を断ち切るために、それが魔導士として生まれた意味さ。……多分だけど』
かつてイルはそう言った。背丈はエマよりもずっと高く、顔だちも大人びていたが、紫水の瞳は静かで強い色を帯びていた。
しかしユリウスは昔と同じように、言葉を紡ぐことは出来なかった。一族の長としての決断から逃げていたのかもしれない。事実、ユリウスは逃げた。失うことを恐れて解を出せずにいた。
「僕はエルの扉を開く。僕が全ての悲しみを終わらせる。ウルもラーヴァナも皆を救う。其れが魔導士として生まれた意味だ」
2対の花弁が一斉に羽ばたく。1つでは何の力を持たないそれは、ユリウスの頬をなぞるほどに強い旋風を巻き起こした。同様にエマの頬もなぞり、僅かに髪が宙を舞い踊った。
空高く光を放ちながら旅立つ花弁は、すぐにその光を隠し、新たな地へと向かった。
「僕には君が必要なんだ」
いつも通りの笑みを浮かべて手を伸ばす。
「イナンナから受け継いだその光は僕らの導になる。必ずね」
得意気な表情を浮かべるエマに対し、ユリウスの表情はとても哀しいものだった。彼は首を振り、力ない笑みを浮かべながらエマの頭を撫でる。
「子供扱いしないでよね! って―――」
大きな瞳がユリウスの顔を見上げる。彼の肌は思っていたよりもずっと暗かった。それはまさしくトゥリオ、或いはツェマリそのものであった。自分よりもずっと大きくて体の大きなこのエルフの頬から、ひとすじの涙が伝っている。
流水が静かな音を立てる。ユリウスのその表情とは裏腹に、ただ静かに、より深くから零れ落ちた。一筋の流れが、ただ静かに零れる。
仄暗く閉ざされていた里に光が満ちる。霞に隠されていた光が降り照らす。水面に双子の月を映し出し、しかしそれは波紋にかき消された。心音をかき消すかのように。そして幾重にも波紋がぶつかり合い、何度も何度も実像を揺らし映した。