3:悪夢の夜明け
「僕はエマ!」
桃髪の少女の拍子抜けな挨拶に、口をぽかんと開いてしまった。
よく見てみれば、彼女は夢に出てくる少女に瓜二つだった。
「君が持っている鍵の! これ! 元々は僕のもの! 返して!!」
「は?」
開口一番の自己紹介に拍子抜けしてしまい、頭がうまく回らない。その上初対面の人に向かって人の持ち物を「私の物だから返せ」は果たしてどうなのか。鍵と言えば家の鍵と、首飾りの鍵を持っているが、これは父から受け取った大切な鍵で、いわば形見のようなものだ。後者を寄越せとはどういう神経をしているのか。
「お前失礼にしては……」
「君はその鍵が何なのか分かっているのかい?」
首を小さく横に振る。「お前は知っているのか?」エマは首肯する。しかしふざけた表情はもうどこにもなかった。
「当たり前のことを聞くけど、イルって知っているよね?」
「そりゃあ、知っているけど……イルと鍵がなんの関係ある?」
イルとは第二世紀最高の魔導士と称えられる英雄にして、第三世紀最大の敵である。彼女は第二世紀末、ラーヴァナの復活を望みし者……つまりウンマとの戦争を終わらせた。それもたった一人で、だ。あまりにも強大な魔導で戦争を終わりに導き、ウンマの総大将フォルグ・グ・ロ、或いはフォルグ・ローマッセラと呼ばれるトゥリオを倒した。そんな彼女は英雄になるはずだった。しかしイルは何千、何万というトゥリオや魔族の血と憎しみを浴びてしまったために、体は魔族のそれとなってしまった。故に彼女は栄光の代わりに、救ったはずの人間から憎しみを一身に浴びせられた。
世界はイルを殺そうとした。イルに従うものも殺した。それでもイルは人間を信じようとた。人間はイルを裏切り、民衆の前で散々辱めた後で処刑した。爪を剥がし、指を落とし、手足をもぎ取り、目を抉り出し、皮を剥ぎ、最後虫の息になった彼女を火にかけて処刑した。イルは煌々と燃える火の中で、狂ったように嗤ったという。
第三世紀、イルの憎しみの深さは死んだはずの彼女を再びこの世界に蘇らせた。深い闇に捕らわれた彼女は己を裏切った国々だけでなく、人間そのものを滅ぼそうとした。
世界は二つに割れた。イルに許しを求めて従うもの、過ちに気づきしかし、国を守るために戦う二つに割れた。この間で戦争が起こり、イルだけでなく、人間同士の手で多くの国が滅びた。
しかしイルは結局人間の前に敗れた。イルが生んだ憎しみの芽が育ちそれらに殺されてしまったのである。
「そのイルがどうしたって言うんだ?! 俺とイルは関係ないだろ」
「大いにあるよ。それに君が知っている歴史は半分本当で半分嘘。本当はイルは死ななかった。正確には殺せなかった。また、世界がイルに死を許さなかった。殺すことができない、だからイルの魂を封印する形でイルを倒した。君の祖先、レイエルらによってね。そしてイルを封印した媒体、それが君が持つ鍵なんだよ。だから僕らは君をずっと探していたんだ。僕らはイルの魂は持っていない、けれど躰は持っているんだ。ここに、ね」
エマは鳥を象った杖を強く打ち付ける。衝撃波が走り、気が付けば新たに五人、禍々しい圧倒的な力を持った男が現れる。うち一人は他の者とは違う漆黒の竜に跨っており、全ての竜が頭を垂れた。ある者は茶の髪を持つ、威厳溢れる人間の男。一人は巨人族と思わしき、鬼のような鎧に身を包んだ男。一人は竜の鱗を身に持つ魔族。一人はレイメの膝程度しかない小人族。そして漆黒の竜に跨っていた男は中でも群を抜いていた。息がつまるような威圧感に、死ぬ未来しか見えなかった。絶望的だった。セシリアを助け出すことなどもっての他だった。
「歴史は殆ど真実を語っていない。イルはたった一人で戦争を終わりに導いたって言われているけど、本当は仲間がいたんだ。それが彼ら。一人欠けているけど……」
”イルの仲間”、それはエマの仲間ではないことを意味していた。そんな少女の顔はどこか寂しく見えた。
「イルが望んだ平和はね、皆が笑っていられる世界。トゥリオらすら救おうとしていたんだよ、本当は。でも世界は全く別の方向へ向かってしまった。皮肉だよね。イルに味方した国の殆どは滅びるか、よくて奴隷身分として生きながらえた。魔族の殆どは人間に迫害されて北へ追いやられた。エルフですら身を隠した。こんな世界を作った奴らに僕らは殺された。やりきれるはずがない。だから彼らはイルを望んだんだ。エマではなく、イルを。トゥリオですら長い苦しみからイルに救いを求めた」
嫌なくらいに風が靡く音が耳に入ってくる。どんよりと漂う雲は一向に動こうとしない。
「故に僕はこの体を持って生まれた。僕は君の持つ鍵と、この躰があればイルになることができる。みんなはそれを望んでいる。僕だってイルと同じ魔導士なのに。……仮に僕がイルに戻ったら、エマは死ぬんだ。それを望まれて僕は生まれた。僕はまだ子供なのにね。……ねぇ、君はこんな僕を憐れんでくれるかい? レイエルの血を継ぐ君は僕を、イルを憐れんでくれるかい?」
エマは力なく微笑んだ。その表情は夢の中に出てきたあの少女と全く同じであった。
「エマ」
小人族の少年の持つ槍がエマの後頭部に当てられる。半獣半人のような容姿の少年だが、彼の大きな瞳は暗く沈んでいた。
「君が魔導士として生まれた意味は、君がイルとなり、再び英雄となるためではなかったのか」
「いつ僕がそんなことを言ったんだい? 確かに僕はイルの肉だって言ったし、鍵も見つける必要があるって言ったし、いつか英雄になるって言ったけど、一度もイルに戻るなんて言ってないよ。勝手に都合のいい解釈をしないでくれる?」
エマは不機嫌そうに答えた。その瞬間小人族の槍が旋回し、エマの頭を抉り貫こうとした。しかし闇の波濤が放たれ、生命を枯らさんと襲い掛かる。
「くそっ!」
小人族は槍を地に突き立て、その反動を利用して高く飛翔。そのまま体を捻って体制を整え、後方に着地した。
ツェマリの首魁が立ち上がる。
「Whey Emma?(いかがなさるつもりか)」
「Goal mir aceerer ill reted. (悪いけどイルに戻るつもりは微塵もないよ)」
「左様、ですか」
首魁は困ったように肩を竦める。
「ならば安心した」
「ロンゾ!」
ロンゾと呼ばれた首魁の視線が小人族の青年に向けられる。
「ポリュペイモス殿、これが我々の本心だ。主を危険にさらすわけにはいかない故」
小人族のポリュペイモスは軽く舌打ちする。しかしセシリアを捕らえているツェマリの顔は複雑な表情を浮かべていた。
「いいかい、ポリュペイモス。僕はイルにはならない! 絶対にならない! 僕は僕だ、僕はイルなんかじゃない、エマだ!!」
エマの杖が再び強く打ち付けられる。すると今度はレイメごと宙に移動した。
「は?」
もう一度杖を打ち付ける。更に高く、小刻みに高く高く飛翔する。しかし逃がすまいと小人とは思えない身体能力を奮い、ポリュペイモスは槍を振り下ろした。
「絶対に逃がさない!!」
竜の文様が赤く煌く。すると巨大な重力が集約されたかのような重い一撃が振りかかる。レイメは咄嗟に腰に差してあった剣を抜こうとするが、圧倒的な力量の差に死を覚悟した。その時、深紅の竜槍は、黒々と燃え盛る大剣に弾かれ、小さな体は軽々吹き飛ばされる。ポリュペイモスは猫のように体をしならせ着地した。
「ロームングル、君も裏切るのか?」
異質な空気をまとう男、ロームングルは興味ないと聞き流す。彼の竜が小さく唸り羽ばたく。
「逃がすも……」
「フィンディルに悪い、と伝えろ」
銀色の光と紅の闇を放つ首飾りを投げつける。
龍の鎌首が地をなぞる。その時にはもうロームングルは龍の背に飛び乗っていた。龍はエマとレイメを拾い、更に高く飛翔する。翼がしなり、体をしならせ、大空を滑空し始める。
「おい、セシリアを助けないと!」
そう言って飛び降りようとするレイメの腕をロームングルが引き留めた。
下方ではポリュペイモスが苦虫を噛み潰したような、忌々しいとでも言わんばかりの表情をしていた。 天高く飛翔する竜を見つめることもなく、むしろ背を向けて仲間のもとへ、とことこと歩む。
「まんまと出し抜かれおったなポリュペイモス」
「うるさいよ、ヨトゥン」
巨人族のヨトゥンは愉快愉快と高らかと笑い、腰から下げていた酒を一気に飲み干した。
「泣くでないぞ~、少年よ」
「泣かないよ!」
「お、泣くか? 泣くか? お?」
竜の鱗を持つ魔族へカントケイルがにやにやと薄笑いを浮かべながら、後ろをつけ歩く。
後方では人間の王ヒルディエントがエデン全体に散っていた兵を集め、次の指示を下していた。
ツェマリのみならず、ウンマ本土から連れてきたトゥリオ、或いは様々な種類の魔族らは各々の方角へ飛竜を羽ばたかせる。ある者は主のもとへ、ある者は本土へ、ある者は追跡へ向かった。またある者はエデンの完全なる殲滅のために馬を走らせた。
「この女はいかように?」
ロンゾの脇に抱えられたセシリアをヒルディエントは一瞥する。しかし大した興味も示さず、「好きにしろ」と言うだけだった。
***
飛龍が金切り声に似た咆哮を上げる。
かつて夢の楽園と言われたエデンは今や埋め火と血に覆われ、黒煙ばかりを吐き出している。それは下に住まう人々の目にも確認された。世界は悟った。エデンはかの者によって落ちた。それが誰なのか、世界はよく知っている。そのものによって数多の血が流されてきたのだから。
万の年月を数える歴史の中で最も長く続いた平和が崩れた。「空白の期間」がついに闇の支配へと転換し、「第4世紀」が開始してしまった。あろうことか、エデンから闇の者らの憎悪に満ちた咆哮が世界に轟いた。
「まだ助けに行けば間に合う!」
レイメは竜の手綱を握るロームングルの肩を揺さぶった。どんどん離れてくエデンを背にして、それでもまだセシリアを助けようと懸命だった。しかし頭ではあの場で誰もセシリアを助けることは不可能だったということは重々理解していた。それでも幼馴染の彼女を助けねばと急き立てる。
龍の黒い鱗が剥がれ落ち、虹色の艶やかな鱗が姿を現した。それはまるで星の雨のように降り注いだ。
空を泳ぐ鯨が大きく唸る。
「彼女は死なないよ。多分ひどい目にも合わないと思う」
「そういうも問題じゃないだろ?! セシリアは関係ない、無関係だ!!」
「でもあの時誰も彼女を救うことは出来なかった」
喚くレイメを傍目に龍は降下する。森林や川すれすれの場所を飛び、山があれば飛翔した。その度に木々はたわみ、水面を割き、砂を吹き起こした。生命は乱暴に通り過ぎる者らを受け入れるべきなのか、各々小声で話し合った。
「それにもう無関係ではないよ。僕らと関わりあってしまったのだから」
エマの口元が歪んだ。
「さあ、ユリウスのところへ行こう!」
月が傾き、朝日が顔を覗く。それでも星は輝き、鯨は龍を気にすることなく泳ぐ。
大河を越える。森林より遥か先に広がる砂漠からは、太陽が揺らめいているように見えた。突然眩しくなったことで目を細め、手でできる限り陽の光を遮った。しかし砂漠よりも遥か先には僅かに森が広がっていた。そしてその先にはどこまでも続く青が永遠に広がっていた。
「セシリア……無事であってくれ……!」
龍が嘶く。その声はどこまでも駆け抜けていった。