2:桃髪の少女
空はあまりにも暗く、殆ど何も照らさない。深い茂みの中では姿形のわからぬ生物が声を上げている。遠くまで広がる湖の水面では何かが蠢いているのか、常に流動している。
蝙蝠のような巨大な翼が一杯までに広がる。一つの瞳は空を見上げ、長い鎌首はめいっぱい伸びている。再び翼を折った時、うめき声に近い不気味な鳴き声が更に空気に動きを入れる。その首を戒め、巨大な竜に跨る灰色の魔族は僅かに獣のような声を発する。再び別の竜が翼を広げ、閉じたとき、幾つもの黄色の燐光がそこにあった。
「Aure praise rs weis. Im quout sira caurer.Whey(準備は整った。いつでも行ける。どうする?)」
「Ancome. Mol re ancome.(まだだ。まだ時は満ちていない)」
再び蝙蝠の羽根がしなる。鱗もない体は軟性の皮で、時折照らされる光によってある種のつやを放っていた。その竜はジャバウォックという竜種である。ジャバウォックは蝙蝠の羽根に、鱗のない皮、一つ目の竜で、ルガルが最も所有する飛龍である。彼らは腐肉を好んで食べ、一頭の親から五頭生まれる。その直後生まれたばかりの子供は兄弟を食い殺し、最後に生き残った一頭のみが成竜になることができる、非常に獰猛で残虐な種だ。また、彼らは主とある種の契約を結ぶのだが、主が自分より劣位だとみなした瞬間、主を食い殺す種でもある。
ジャバウォックは地ならしし、出陣の時を伺う。それに跨るものも殲滅の時を静かに待つ。
雲に姿を隠していた月がようやく顔を見せる。闇に光が差し込み、暗闇に身を隠す彼らの姿を克明に映し出した。更に、光が大きな影を落としこむ。彼らの視線は全てそれに向けられていた。一際大きなジャバウォックに跨るのは、彼らの半分程度しかない幼い少女だった。桃色の髪に、紫水の瞳を持つその少女に、この場にいる全ては頭を垂れ、忠誠の意思を示す。
ジャバウォックが水面に立ち出でる。すると大気を、大地をも震えさせるほどの金切り声をあげた。それを始まりにして、そのほか全てのジャバウォックも同様に、けたたましい金切り声を世界に轟かした。それはまるで開戦の口火が切られたかのようだった。
闇夜に不気味に木霊するその音は、あらゆるものを伝ってどこまでも響き渡った。暗黒大陸と呼ばれる未開の地の最南端に住まう、エルフの里の主の耳まで届いた。忘れかけていた記憶を呼び覚まし、神話にさえなった忌々しい記憶さえも克明に呼び覚まさせた。長らく浸っていた平和に終止符が打たれたことを、全ての人間は悟った。まだ、闇は滅んでいないことを思い出した。やまぬ金切り声は草木を揺らし、水面を揺らし、大気を震わせ、大地を震わせ、深い眠りについた神々をも起こした。
遠い地で風の穏やかな丘で、ハープを弾く女の指が止まる。
白磁の都に住まう神官は母へ祈りを捧げる。
翼を失った烏の双眸は亡き妻の墓へと移る。
死んだはずの龍は深淵にて再び鎌首をもたげ、ある女は暗闇の中で祈りを捧げる。
大樹は葉をさざめかせ、機械仕掛けの人形は音にもならない歌声で再び歌う。
鉄の森林を駆け抜け、霊峰を越え、大河を渡り、砂漠の砂嵐を貫く。その声は海をも渡り、或いは闇すらも渡り、遥か遠くの隔絶された地まで轟く。始まりの世から忘れ去られた橋渡し、最後の扉を守る城主、時を記録する塔の番人にすら轟いた。
ジャバウォックの咆哮は始まりを告げる。闇夜に最後の幼子が産声を上げた。
少女は鳥を象った杖を掲げる。
「行くぞ!」
「Rubeger!」
闇の子らの産声が、闇夜に響き渡った。しかし、夢の世界に住まう者たちの耳には全く届けられなかった。それは即ちエデンの者たちである。
***
次に世界が移り変わった時、レイメの視界に広がったのは様々な時を刻んだことを示す木目の天井であった。もしかしてあの後自分は気絶してしまったのかと考えを巡らせながら体を起こすと、世界の中にセシリアが乱入する。
「レイメ!! 目覚めたのね!」
強力な抱擁がレイメの首を絞める。再び悪夢が続くのかと思えば、今度は啼きそうな表情を浮かべながら言葉にすらなっていない謎の言語を乱発した後、乱暴に肩を揺さぶり、もう一度「目覚めてよかった!」と言いながら熱い抱擁を繰り出す。
「分かった、分かった! 心配してくれたことはよくわかったから離してくれ! もう一度殺されるてしまいそうだ!」
「ご、ごめんなさい……つい……」
セシリアは肩を竦める。
人一倍思いやりの強い優しい子故、セシリアがどれだけ心配してくれたのか容易に想像がつく。レイメは短くお礼を述べた後で、ここがどこなのか尋ねる。
「町中にある宿屋さん……助けてくれた方がうちの宿屋を使ってくれって。……お医者さんも呼んでくれたのよ? 本当に心配したんだから」
「ごめんって。でももう大丈夫だから……後でちゃんと亭主さんにお礼を言わなきゃ」
からりと笑う。その時不愉快なまでの金切り声が街中に轟いた。
「何……!?」
考える間もなく一瞬にして世界が赤に変わる。暗闇であるはずなのに、地上は真昼のように照らされた。遠くで揺らめく大火の中に一頭の醜悪な飛竜・ジャバウォックの姿を捉える。真っ黒な両翼を広げ、もう一度、先ほどのものとは非にならないくらいけたたましい声で鳴いた。
「……まさか……これは……」
昼間の新聞を思い出す。「アクラガス北部ドゥリア村壊滅……ウンマ再統一なるか……」ぽつりとつぶやいた。
「逃げるぞ!!」
レイメはセシリアの腕を咄嗟に掴む。どこへ逃げればいいのか、それは皆目見当もつかなかった。しかし本能がここにいてはならないと告げていた。とにかくどこかへ逃げねばならない。
幾重もの赤がエデンを走り抜けた。
***
家々は泡はじける音を立てながら、焔に包まれ、崩れゆく。真っ暗な空にかかる鈍色の雲を赤く照らし、世界を鮮明に映し出す。
赤々と照らされた侵略者の体は灰色で、トゥリオのものよりもずっとがっしりとしており、ずっと醜い。醜く生えそろう牙が肉を嚙みちぎり、血潮をうまそうに舐める。人々の悲鳴さえ殆ど止み、時折聞こえる程度にまで減ってしまった。ジャバウォックは体を赤く汚しながら、彼らは嬉々として肉をついばんでいる。その姿を恐怖に襲われながらも、ずっと息を殺して、友人や親が食われても尚、隠れ続ける者もいる。しかし結局は食われてしまう。
「Im gussarma ru_cara!」
獣のような雄たけびを上げ、尚も彼らは蹂躙しようとする。それはツェマリというトゥリオよりも醜い種族だった。まだ隠れ生きている人間を見つけては無残に殺していった。ある者はただ刃にかけられてではなく、拷問されて殺された。ある者はジャバウォックや、馬に踏みしだかせた。それでも死なぬものはジャバウォックにゆっくりと殺されていった。
道外れの木箱の裏にセシリアとレイメは隠れていた。目の前で静かに惨殺される同郷の人々を見殺しにする。するしかなかった。彼等を犠牲にして逃げるしかなかった。
ゆっくりと場所を移し、更に人目につかぬ所に隠れる。なるべく街の中心部から離れ、且つ大きな道を避ける。上空ではジャバウォックが旋回し、何度も颶風が二人に浴びせられる。火の粉が上空から降り注ぎ、しかし空は赤く、自然の風は穏やかだった。
「何なのこれは……奴らは一体何なの? お父さんとお母さんは?!」
怯えるセシリアの顔は涙で汚れていた。震える声も何とか平静であろうと努めていたが不可能なことだった。涙を拭い、それでも恐怖で涙がこぼれる。彼女にとって酷なことだった。レイメ自身も何度か深く息を吸って吐きだし、平静を保とうと努力した。それでも視界から入る情報も、聴覚から入る情報も、惨劇であることを伝え、精神を深く脅かした。嫌なほどに知り合いの死にざまが鮮明に映ってくるのだ。
「ねえレイメ……レイメ!!」
レイメの手を強く握るセシリアの手は、レイメにすがろうと必死だった。それほどまでに彼女の恐怖は大きかったが、このような状況でも完全に取り乱さないのはセシリアの強さからだった。そんな彼女にレイメはうまく答えを示すことはできなかった。示したくはなかった。夢であってほしかった。しかしそう思えば思うほど、昼間の新聞の内容が現実と、この現実の果ての結論を突き付けてくる。
「あれはウンマのルガル兵……俺達がトゥリオと呼ぶ奴らの上位種……ツェマリ」
短く「ごめん」と言った。何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
「おじさんたちが今どうしているのかは分からない……なんでこうなったのかも……俺には分からない……助かるかどうかも……」
「……!」
セシリアは声にもならぬ悲鳴を上げる。状況はあまりにも絶望的だった。誰にも一分一秒先のことなど分からなかった。ましてや他人のことなど尚更分からない。ただ希望がどこにもないことだけは知っている。もしも希望を願うのなら、これがただただ夢であってくれと懇願するばかりであった。
『僕も何度もただの悪夢であってくれって神様にお願いしたんだ』
桃髪の少女が大通りに向かって細い路地を歩む。鳥を象った杖が歩くたびにしゃんと鳴る。レイメと桃髪の少女以外すべての生命の時が止まる。
『叶えてもらえなかった。悪夢から目を覚ますこともできなかった』
風が靡く。いやなほどに陽気な気候が肌にひしひしと染みついてくる。むしろ悪夢のような現実世界とは真逆で気味悪さすら感じた。
『でも君は悪夢から目を覚ますことができる』
「だったらどうやってこの悪夢を終わらせればいい!?」
藁にもすがる思いだった。
彼女は両手を大きく広げ、大空を仰ぐ。
『……君は神様が創ったこの世界はとても広いことを知っているかい? 君が知っている世界よりもずっとずっと広いんだよ!』
「話を逸らす——」
風が炎の中を突き抜ける。近くの建物はこの通行者を受け止めるだけの力はなく、もろくも崩れ去ってしまった。しかし風はそんなことなど構わず先へ先へと進み、もくもくと空へ昇る煙をいたずらに散らかしてみせる。
『これから君には色々な出会いがある。色々なことも起こる。喜劇かもしれないし、悲劇かもしれない。もしかしたら途中で挫けてしまうかもしれない。でも道は必ず示される。君が一筋の光でもいい、それを見失わない限りね』
「それはどうい——」
桃髪の少女は一瞬だけ微笑み、杖を強く打ち鳴らした。その瞬間再び生命の時が歩み始めた。
間髪入れず絶望がやってくる。一羽のジャバウォックが降り立ち、死の息吹を閉じた牙の隙間から零す。小さく唸り、ゆっくりと歩む。誰も死を前にして言葉を発することができない。できる者は死を目の前にしていない者だけだった。
「Seeri rs their.(見つけたぞ)」
このツェマリはうっそりとした笑みを浮かべた。
***
首筋に鋭い刃が当てられる。頭を鷲掴みにされ、嫌でも目の前にある現実に直面せねばならなかった。血潮に塗れるエデンはもちろんだが、取り囲むツェマリの姿、そして人質に取られてしまったセシリアの姿を直視しなければならなかった。彼女は小さな身体を小刻みに震わせ、それでも絶望をなんとか内に留めようとしている。背後には壊れた噴水が血を吹き上げ、平和を祈る天使像の瞳からは赤い涙が零れていた。
首魁はクツクツと嗤い、耳元で囁く。
「ずっとお前を探していたのだぞ」
火の粉が散る。炎に包まれた家屋がまた一つ崩れる。
幾重もの傷が刻まれた唇がゆっくりと動き、歪む。耳元で囁く声は低く、石のように冷たかった。首魁は呵々と嘲笑し、ゆっくりと立ち上がった。
「セシリアは関係ない! 彼女に手を出し」
「ただじゃおかないとでも言うのか? 非力な力でどうやって抗う?」
高らかに笑った。このツェマリが言うとおりだった。周りのツェマリの嘲笑が尚更自分の無力さを突き付けてきた。抗うことは一切できないし、この嘲笑を止めることはできない。
刹那、一陣の風が巻き起こる。龍のような風貌を持つ竜と、一際大きなジャバウォックが降り立つ。更に黒曜石のような鱗を持つ竜に跨る人間の騎士と、竜蟲種に跨る魔族が続く。竜蟲種は羽音を止ませ、各関節を動かし歪な鳴き声を上げた。
一際大きなジャバウォックから小さく桃色の髪を持つ、夢でよく見た少女が降り立った。ツェマリらは彼女の忠誠の意思を示し、みな例外なくひざまずいて見せた。そして首魁はその少女をこう呼んだ。”エマ”と。主であるエマは驕った表情を浮かべる。しかしそれは次第にいたずらを考える子供の表情に変化していき、威厳のかけらを全て失ってしまった。そんな少女は得意げに鼻を鳴らす。
「聞いて驚け! 僕はエマ! ルガルで一番偉くて、そんでもって君が持っている鍵の本来の持ち主だぞ!!」