11:追手
どこかで鳥が嘶き飛び立つ。夕日は世界を、街を照らすが、全てを照らすが、全てを照らしきれないことをよく知っている。陽の光も、小鳥の囀りも聞こえないような世界に、自分はいた。光が強ければその分、闇も強いように、いかなる場所にも暗い場所が存在している。その中で唯一赤い燐光を放つ龍の唸り声が木霊する。何も見えない暗闇の中で龍はその身体をしならせ、いつも傍で空気を震わせるように重い吐息を吐く。
『深き闇の中で何を願う?』
重圧な声は一陣の風を巻き起こす。肌を凪ぎ、髪を弄ばれる。水面が揺れ、龍は彼を囲うようにして蠢く。
『力を求むか? 破滅を求むか?』
『我を求めよ』
***
男は夢から逃げ出すように、飛び起きた。嫌な感覚が、手を、全身を纏わりつくように支配する。腹の底から込み上げるような吐き気がすぐ近くにあり、心臓を握りつぶすように自分の胸を抑える。
「俺は……」
痛む体を無理やり起こし、上手く力が入らない脚で立ちあがる。寝台のすぐ横にある粗末な棚を助けに使うが、置かれていた素焼きの杯が落ちて割れる。割れ目からは水が瞬く間に広がり、もったいないことをしてしまったと僅かながらに思う。
「おー、起きたか」
「……!?」
男は咄嗟に身構えるが、平衡感覚を失って、そのまま床に倒れる。
「大丈夫か? あんた相当うなされていたぞ。それこそ俺の手を握りしめるくらいにな」
勝ち誇ったようにレイメは胸を張るが、男が向ける視線は冷ややかなものだった。
レイメは男を起こし、そのままベッドに寝かしつける。
「あんたから預かった袋の中から、テウメッサが出て来たからびっくりしたぞ」
レイメは気持ちよさそうに眠っている狐を男に渡す。夕焼け色のような毛並みの狐は、寝返りを打ち、無防備にも腹を出して眠る。
男は一瞬不思議そうな顔を浮かべたが、すぐに元の表情に戻った。
「どこで見つけたんだ? テウメッサは滅多に遭遇することはないぞ」
テウメッサとは南の砂漠に生息する巨獣種の狐だが、今では個体数を大きく減らし、珍獣ハンターが夢とロマンを求めて狩りに行くような類である。また古くからこの世界に存在し、ここより北に位置する大河・動のユーゲンレディアの主クトゥグアの眷属でもあった。
「……倒した虫けらが庇護していたんだ」
男は深く息を吐く。
「俺が倒したあれは多分、こいつの親代わりだった。だから拾って来たんだ。どう育てればいいのか全然分らんが……親がいないのはとても辛いことだから」
レイメ的には、この男から珍しい言葉が出て来たなと思った。この男のことはよくわからないが、思っていたよりもずっと繊細なのかもしれない。確かに仲間に見捨てられた自分を助けてくれるくらいの優しさは持ち合わせている。どこぞの誰かたちと違って。
「あのうるさいガキ共はどこに行った?」
ただし、礼儀を持っていない。
「エマとロームングルさんは街の散策に出かけたよ。ずっとここに居ても暇だからって、あのお子さんが駄々をこねてね」
「……そうか。ところでこの数日で変わったことはないか?」
男の表情が急に固くなる。
「数週間前にエデンが陥落した、その情報がこっちにまで来てる。アクラガスあたりが黙ってはいないだろうな。それにここ最近、ジャバウォックがこの辺りをうろうろしている」
まさにその通りだった。ジャバウォックを連れて来たのは俺たちです、とは言えないが。男は続ける。
「……白髪を拾ったのはここから南東の方だ。南には最端にまで行かなきゃ人里なんぞない。お前たちは何者だ……? それに——」
「動くな!」
古めかしい家に、双頭の鷲の頭に獅子の体を有する獣が描かれた青いマントを羽織った複数人の騎士が突入してきた。剣の切っ先はレイメ達に向けられ、じりじりと間合いを詰められる。
「アクラガスの兵が一体何用で……?」
レイメは戸惑いを見せたが、傍らの黒髪の男の表情を見れば、なんとなく何かしらの事情があるのが分かる。彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。まだ、万全ではない体で長刀の柄に手をかける。レイメも暗器に手を伸ばす。
「……どこまでも、どこまでも……!」
「当たり前だ。恩ある我らが王を殺そうとした罪は重い」
茶髪の、他の騎士たちと比べるとやや豪奢な鎧を着た騎士が歩み出る。彼は男に忌々しそうな目を向けている。
「ローエン、もう逃がさん」
黒髪の男、ローエンと呼ばれたその人物はクスリと笑う。
「死ぬな、この命令が有効な限り俺は捕まるわけにはいかない……!」
布団を翻し、目くらましに使う。レイメの腕を引っ張って粗末な窓を蹴り破り、外に脱出する。灼熱の日差しが肌を焼かんと射し光る。外もアクラガス兵に囲まれ、逃げ場などありそうもなかった。
ローエンに乱暴に掴まれたテウメッサが目を覚ます。数度その肉球を押し当てながら目を擦り、黒曜の瞳に映された世界に体を震わす。
「白髪!それをあやせ!……逃げ道は俺が作ってやる」
「お前……その怪我で大丈夫か?俺も手を貸すぞ。ほ~らほら、怖くないですよ~」
レイメは呑気に子狐をあやす。しかしテウメッサ的には微妙だったようで、目が半開きだった。
「こいつ……」
拳がふるふると震える。しかしすぐに気を取り直し、テウメッサを衣の中に入れ、短刀を得意気に回す。
「ローエン、私の実力を忘れたわけではあるまいな?」
茶髪の騎士はにひるのように笑う。同様に、ローエンの表情もそうだった。
「ルシエン、てめえこそ俺の強さを忘れたわけじゃねえだろうな?……死にたい奴から殺してやる。てめえらの首を搔き切ったところで、俺の罪の重さは大して変わりやしない」
「だったら!」
一人の血気盛んな兵士が我先にと刃を振りかざし、ローエンに向かって振るった。しかし、その剣が振り下ろされた時、首はもうそこにはなく、ゆっくりと鈍い音を立てて落ちた。体もそれに引き続き倒れる。血飛沫が散布し、砂を真っ赤に染めた。
「ひっ……」
兵士の士気が明らかに下がる。一方でレイメの士気は上がる。
「ちょっと俺、生存確率上がったんじゃない?」
「いいか! あの罪人は手負いだ !特に肩の傷が大きい! 今、我ら個々の実力は奴に劣っているが、数で優っている!恐れるな! 今こそ獅子の牙を裏切者の血で染めようではないか!」
ルシエンは兵士を鼓舞する。その虚言に兵士たちは歓声をあげた。ローエンの瞳はずっと黒く、彼等の姿を見据えていた。
レイメはローエンの肩を叩き、軽く笑う。
「ローエン、だっけ?切り抜けるぞ。俺もここで死ぬわけにはいかなからな!」
「……白髪の名は……いや、白髪か」
ローエンは一瞬思い出そうとして、すぐにやめた。止めるなよ! と突っ込みを入れたくなったが、今回はそれをやめた。背中を預け、武器を構える。
ルシエンの合図とともに戦闘が始まる。同時に、けたたましい金切り声が砂漠に響いた。
「Ruth emph.(やばいね)」
「Couth e retta.(追ってきたか)」
エマは呑気にサボテンを齧りながら答える。サボテンを一口サイズに切り、砂糖と辛味に漬けた菓子は、中々病みつきになる。
「どうしようね」
「倒せばいい」
ロームングルは静かにそう答える。「確かに」エマは紫水の瞳で小さく嗤う。
「君が僕たちとっての光だ」
小人族の小さな獣足が砂漠の砂を踏みしめる。遅れてジャバウォックが降り立ち、小さく唸る。イルヤはロームングルの首から威嚇し、ジャバウォックは少々怖気づいたように、後ずさりした。
「どこへ逃げようと、君がイルに戻るまで追い続ける」
小人族のポリュペイモスの手に握られた、己の背丈よりも長い長槍の切っ先をロームングルに向ける。数多の竜の血を吸ってきたその槍は、様々な色の血脈が刃の中で蠢いている。名を屠竜槍オッタルという。
「あの日の復讐を遂げるために!」
ポリュペイモスの小さな体が、砂漠の上を掛ける。ロームングルは怨刀グラムスの刀身を放ち、槍による攻撃を受け流す。小さな身体から放たれる攻撃はとても重く、竜の太い首も軽々と斬り落としてしまうのではないかと感じるほどだった。
エマは面白そうに高みの見物を決め込んでいる。
「見てみたかったんだよねー」
足を持て余し眺めるが、エマは更にその先の方も傍観していた。
「君だけじゃないのか」
オッタルの切っ先がロームングルの頬を掠める。長槍による突きをかわし、隙をついてグラムスで切り込む。しかしグラムスによる攻撃を絶妙な角度でかわし、槍の柄で、腸をめがけて突き刺す。
「甘い……!」
すんでのところで体を捻って避け、ポリュペイモスの体を蹴り飛ばす。ポリュペイモスは顔をしかめる。
「イルはこの世にはもういない。……もう死んだ。復活してもあれは、我々が知っているイルなんかじゃない」
「でも、それでも僕らはイルにすがるしかない!」
ポリュペイモスの声が震える。「この世界で誰が僕らの味方になってくれるんだい!?」猫のような眼には、人間にとっては遥か遠き日の記憶が鮮明に映し出される。しかしポリュペイモスにとっても、ロームングルにとっても、そう遠くはない出来事だった。
「僕たちの名前は確かに消え去った。でもイルの記憶は鮮明に残された。例えばアクラガスでは君の子孫が一番低い身分層に位置し、この町の先祖は健気にも僕たちのために戦ったから、こんな辺境の地へ追いやられた。エルフだってそうだ。君たちはユリウスに会いに行ったんでしょ? ユリウスですら、人間たちに迫害された。トゥリオたちはフォルグ・グ・ロが倒れ、アクラガスに膝を折った。でも、労働力として搾取され、その不満から結局、昔のように、人間の敵対者に戻った」
「……しかしそれが我々の選択であり、覚悟だ。剣を取ったその日から、その結末には責任を持たなければならない」
ロームングルは静かな声音で続ける。
「その覚悟と選択による結果ならば、同情の余地はない」
ハザドの獅子は啼く。
「君のその考え方は、イルを、仲間たちを、ユリウスの優しさも、エッツェルの決意を踏みにじっている!! 君の愛する家族の死だって、君の……!」
「そうだ。妻を殺したのも、息子を殺したのも私の責任だ」
グラムスの刃がポリュペイモスの頭上に振り下ろされる。ポリュペイモスははっと我に返り、咄嗟にオッタルで防ぐ。そしてグラムスを弾いて、ロームングルと間合いを取り直した。
「多くの国が死んだ。しかし私たちの誓いは確かに果たされた。フォルグ・ローマッセラは確かに倒した」
「でも……じゃあ何で、僕たちは後ろから突き刺されなければいけなかったんだ!! 何で僕たちの手でヒルディを、君を殺さなければいけなかったんだよ!!」
獅子は吠える。鋭い爪がロームングルの肩口を引き裂き、そのまま大地に縫い留める。ロームングルの顔を隠している布を剥がし、その眼に半竜の仲間の表情を認める。いたって無表情のロームングルはポリュペイモスの頭を乱暴に鷲掴み、投げ捨てる。オッタルの刃を引き抜いて、若獅子の前に突き立てた。
「それがお前の選択だった。それだけだ」
グラムスの身が怨念によって焼き焦がされる。煌々と赤黒い灯を宿すそれは太陽の光を吸収して、より一層強く光った。ポリュペイモスはその口をほころばせる。その瞬間ジャバウォックの紅炎が街を包んだ。人々は恐怖に戦き、哭き叫び、全てを投げ出して逃げ惑う。そこへトゥリオたちの刃が後を追い、逃げる者には死を与える。ある者は弄ばれてから死んだ。
「ポリュペイモスの狙いはこれかい?」
エマはクスクスと笑う。
「そうだとしたら、してやられた気分だよ」
「でもただ人間を嬲り殺しに来たわけじゃないよ。僕はただ種を撒きに来ただけ。だってヒルディに行ってこいって言われたんだもん」
「ヒルディは何をしようとしているんだい?」
ポリュペイモスは自慢げに鼻を鳴らす。しかし、彼は教えようとはしなかった。ただ、「後のお楽しみさ」とだけ告げた。
「君が竜なら、瞬殺できるんだけど」
「残念だったな。……もう竜にはならんさ」
ポリュペイモスの乗って来たジャバウォックが唸る。身軽にまたがるかと思えば、鱗のないその龍の背へよじ登ってみせた。エマは失笑する。
「じゃあね、ポリュペイモス」
ジャバウォックが金切り声を上げる。その音は天に轟き、砂漠の風と共に舞う。大きな翼が開かれ、ゆっくりと飛翔。黒色の竜は一度旋回し、ハルスの町を後にした。
エマはロームングルを見上げる。
「どうする? 街の人たちを助ける?」
ロームングルは顔布をつけなおしながら、首を横に振る。
「財を持ち出すことばかりに執着しているような人間を助ける必要はないだろう」
いずれかの人々は大きな袋いっぱいに自らの財産を持ち、逃げ惑う。我先にと目の前の生涯をかき分け、後ろを振り返るようなことはしていない。一番守らねばならない子供ですら、押しのける始末だった。そんな様を見てエマも同感の意を示した。
「自分本位なら別にいいや! ね!」
紅い瞳が薄く笑う。
「レイメのところへ行こっか! お腹空いたな~」
エマはへたくそな鼻歌を歌いながらボロ家へ戻る。助けを求める手を無視して足を進める。