10:主への従属
白磁の壁に、円形の赤い屋根。大きな庭は美しい植物で飾られ、町の水の大半を占領するかのように庭中に張り巡らされている。更に外壁で囲まれた屋敷の中心には、小さな泉があり、事実、1人で砂漠における最も貴重なものを領有していた。
その屋敷はハルスの中心に建てられ、明らかに周辺の建物とは大きく異なっていた。まるで私腹を肥やし尽くしたように、まるで財力を誇示するかのように、全てを支配するかのように聳え立っていた。
「お前は誰のお陰で生きることが出来ると思っている?!」
破れ声の領主の怒声が轟く。
「ごめんさい……ごめんなさい……!!」
黒髪の少女は必死に許しを請う。粗末な服に身を包んだその少女は、足に枷を嵌めていた。
全身に殴打の痕や、切り傷が刻まれ、背中は火傷を負ったのかと思ってしまうくらいに赤く染まっている。
それを別の足かせを嵌め、顔を隠した男が少女の髪を鷲掴みにし、外へ連れて行く。彼の体も同様だった。女の泣き声と、許しを請う声が後に続く。そして領主は忌々しそうに少女を罵り、腕を組んだ状態で何度も同じ場所を往生する。
その様を男は外から傍観していた。頃合いを見つけて部屋の中に入る。
「物の報酬を受け取りに来た」
「ああ……貴様か……丁度いい頃に来たな」
茶色の瞳が獲物を見つけたように笑う。短い茶髪の、真っ赤な衣に身を包み、数々の宝石で身を飾ったその領主は、近くに掛けてあった杖を手に取る。
「貴様が帰って来てくれたことによって、最高に機嫌が良くなったぞ!!」
木の杖を大きく振りかぶる。領主はそれを勢いに任せ、男に叩きつけた。其れは肩を抉り、鈍い音を立てた。
「忌々しい卑民が俺に口答えしてな! 暫くその腹いせに付き合ってもらう! お前は頑丈だからな!」
呵々と笑う。そのまま腹をけり上げ、男は僅かなうめき声を漏らして、後ろへ倒れた。
「……猪豚が」
男は小さく呟く。
しかし抵抗しようとは思わなかった。というよりも、男の身分がそれを許さなかった。例え殴られようが、蹴られようがしても、ただその状況を甘んじるしかない。それが支配者と、被支配者の関係だった。その関係を被支配者が越えようとすれば、その後何をされても仕方がない。もしも抵抗しようものならば、身分によっては処刑されるだろう。もしも抵抗が許されるならば、それは法によって保証されている時だけだ。
男の血が真っ赤な絨毯に注がれる。血が飛び散り、陶器は簡単に緋色に染まる。それは花弁のように、ある一定の規則を以て刻まれる。絨毯に染みる血は、最初からその色だったのか、最早分からない。
咳込む度に口の中で鉄の味が広がる。いくら吐き出しても、終わりは見えなかった。
「我が祖先はお前たちのせいで裏切者扱いだ! いかにアクラガスに従おうと、功を挙げようと意味を為さん!!」
「がっ……っァあ!」
領主の憎しみが鋭利な刃となって、男の肉を刺し貫いた。そこから更に零れ、真っ黒な黒髪は重く染まった。
鈍色の肉体が赤と紅と朱を映し出す。視界がぼやける中で、領主の顔は嫌なくらいはっきりと映る。
歯がきしりと鳴る。無意識のうちに傷口に手が伸び、刀身を掴む。まるでぴんと張られた糸のように簡単に一筋の線が引かれ、肉に食い込んでいく。
「何故我々は何も成さない場所で生きねばならぬ? それに引き換え何故、黒髪は卑民でありながら、我らより豊かな暮らしを送る?!」
憎しみが吐き出される。
止むことのない憎悪は、深く、暗い。その憎悪を甘んじても止むことはない。飽くことのない憎しみは、男の髪色と同じくらい黒かった。
血は広がり、澱み、どこまでも進もうとする。
領主は嗤う。その茶色い瞳の中に、黒と赤が映っていた。
「ねーえー、お腹空いたよー、無一文だよー、辛いよー」
エマは粗末な寝台の上で駄々をこねる。それに対して保護者のロームングルは無視を決め込み、結局エマからの矛先はレイメへ向けられた。
「お腹空いたし、この家何もないし、僕もう飽きたよー」
寝台の上に仰向けになり、足をバタバタさせる。しかし顔には憂鬱ですと書いてあり、同時に金の有難みを噛みしめていた。
「いつもお金は大事に使えってポリュペイモスが言ってたけど、今になってその意味がようやく分かった気がする……。そういえば、袋の中身は何だったの?
「そういえば……」
レイメは思い出したように、袋に手を伸ばす。
その時、ドアノブが鈍い音を発てた。
「お、帰って来たな」
イルヤが少しばかり甲高く鳴く。鎌首を上げ、じっとドアの先を見つめる。
レイメは中々開かないドアを、好意で開けた。
「おかえ……」
大きな黒い影がどさっと落ちる。黒と赤が、じわりと染みわたる。
エマは全ての動作を止め、言葉を詰まらせた。
「大丈夫か?!」
レイメは男の体を抱え、すぐさまベッドに寝かしつける。
体中から血を流し、ところどころ青くうっ血していた。
「テメェで、なんとかでき……ゔぐっ」
自分の体を無理やり起こそうとするが、痛みに顔を歪めた。
「どうしよう、どうしよう?! 僕なんの持ち合わせもないよ?!」
エマが狼狽える。そんなエマを無視して、ロームングルはイルヤの頭を撫でる。
「焼いて塞ぐぞ」
「お、おう」
レイメは暗器で男の衣を裂きながら返答した。
傷は主に右下腹部と、左肩、腕に集中的な刺傷があり、肋骨の真下には何か強い力で殴打されたかのような痕が青々と広がっている。恐らく何本か折れているだろう。それだけでなくとも、身体の至る所に小さな打撲痕が点在していた。
「イルヤ」
呼び声に反応して、男の傍まで蛇腹でよじ登る。イルヤの瞳孔は細まり、腹部が煌々と熱を帯び始める。
「でも、それ、大丈夫なの?」
エマは心配そうにロームングルを見上げる。
「死んじゃうかもしれない」
ロームングルはエマの頭を撫でる。その手は安心しろと静かに語っていた。
「龍の舌か……本当にあったんだ……」
イルヤは得意げな顔をする。
古来よりガイアの人々は龍の舌には傷を治す効用があると信じられてきた。とはいえ、肝心の龍は殆ど姿を現さず、殆ど伝説的なものでしかなかった。その実態は、龍の舌で傷口を焼いて塞ぐことであったが、龍の体内で生成される唾液が、免疫力を高め、強靭な肉体にするというものであった。しかし、龍舌はあまりにも高温なので、その痛みは計り知れなかった。その痛みによって、ショック死した伝説も存在している。
意識が朦朧としつつある男の精神が、すぐさま引き戻される。それは尋常ではない痛みによってだった。体を押さえるレイメとロームングルの手に力が入る。
「あがああああ! っああああああ!!」
絶叫が響き渡る。肉がじゅうじゅうと焦げる音が、まるでまとわりつくようにして鼓膜を震わす。エマは背を向けて耳を塞ぎ、レイメもその光景に目を逸らしたくなった。
イルヤの舌が触れた場所が血が一瞬だけ沸き立つようにして固まり、とてもじゃないが綺麗に凝固したとは言い難い。赤い血すらも黒く焦がし、周りの皮膚も黒々となっている。生々しい傷跡の上にただ新たな傷を刻んでいるようにしか見えず、いくら血がこれによって止まったとは言えども、抉れた肉はむき出しのままだった。
一度男の体を起こし、うつぶせに寝かせる。そして同じ作業を再び繰り返す。男の痛みに悶える声は、手当てが終わっても中々止むことはなかった。その声の中には、痛みとは別の、男の古い記憶による痛みの声も少しばかり混じっていた。
自己顕示の光が屋敷を照らす。ハルスの領主は高慢な性根とは真逆の、むしろ遜った姿勢で1人の騎士にすり寄る。
「アクラガスの騎士様がこの辺境に何用でございましょう……」
茶髪の騎士はハルスの領主を横目に、豪奢な壺に手を触れる。
「民を搾取して得たものか」
「いえいえ、そんな……とんでもない、私が、そのような」
どうしても歯切れが悪くなってしまう。騎士は呆れたようにため息をついた。
「ならばアクラガスへの税の滞納の件はいかに説明するつもりだ?我が国や、幾つかの主要な軍事国家へ防衛費として税を支払うこと、そして先の大戦での罪を贖うために永久的な賠償金支払いをしなければならない。仮にこれが滞った場合、ハルスの市民及び、貴族の子弟を奴隷として差し出すこと、税の3割を我々に差し出すことになっているが?」
「しかしハルスには諸外国と違って生産物がございませぬ……。それに今まで我々が支払ってきた巨獣種も最早……」
「ならば交易品を差し出せばよいだろう? しかし貴殿が我々に対して良い気を持っていないのは承知だ。ここで忠誠を誓わせることは容易いが、実は未滞納についてが本題ではない。これ以上にもっと重要な問題だ。嘘をつけば貴様の首を刎ねる」
領主は身震いする。悪い汗が頬を伝い、緊張が走る。
「つい最近剣の腕が立つ黒髪人種が此処へ来なかったか?」
「ええ、1人だけ最近ここへ来ました。……何やら訳ありのようでしたね」
騎士は口元を僅かに歪める。
「当たりか……。そうか、こんなところまで逃げ延びていたとはな……。ご苦労であった。滞納の件については、この屋敷の財産を没収することでとりあえず手を打とう」
「ええ、分かりました」
領主はぎこちない笑顔で返事をする。その後、騎士は身を翻し、屋敷を後にした。
騎士を見送った後、領主はほっと息をつく。しかし、その数秒後に、安心感は凍てつき、しばらくの間、石造のように空を見上げていた。