初恋と逃避行
水平線の向こう側にゆっくりとオレンジ色の太陽が沈んでいく。夕陽の中心にぽつんと見える黒い点が、きっと乗ってきた船なんだろうとぼんやり思った。あんなに小さくなってしまっては、確かめようがないけれど。
ざざざと音がして、また裸足の足に波がかかった。小さく飛沫をあげて、砂浜を舐めるように海水が広がる。当然それは私の下にも届いて、水着の上に穿いた短パンを濡らした。何度も波に洗われたせいで、下半身はびしょぬれだ。ぴたりと肌にはりついた生地は、はっきりと不快だった。それでも、波の来ない場所まで移動するのに比べれば、気持ち悪さを我慢する方がずっと楽だと思った。
動きたくない。このまま波に攫われてしまいたい。
願いながらぎゅっと目を閉じた。途端にまぶたの裏に思い出したくないものが浮かび上がってきそうになって、慌てて瞬きをする。
急に開いた目に、夕焼けのオレンジが毒毒しく映る。まるで世界が終わるみたい。
眩しさに目を細めて、ふーっと長く息を吐き出した。
溜息、溜息、溜息、だ。
波に遊ばれていた空き缶が、こつんとくるぶしに当って、またどこかへ転がっていった。
それを見ながら漠然と、いいなあ、と思った。
このまま私も空き缶みたいに、あっちへこっちへ転がされてめちゃくちゃになりたいなあ。
何もわかんなく、なりたいなあ。
投げ出していた足を引き寄せて体育座りの姿勢になり、両肩を抱きしめるように握った。
溜息、溜息、溜息、だ。
「まだ、そこにいたのかよ」
呆れた声と共に、いきなり後ろへ肩を引かれた。
それが誰かはわかっているので、私はより一層体を丸めて抵抗する。
邪魔しないで!
思い切り振りはらって叫ぶ。という反抗をするのも億劫だった。
「来いよ。寝られそうな場所、見つけた」
私の反応には頓着せずに、再びさっきよりも強く肩を引かれる。
力を加減されていないせいで掴まれた肩に指が喰いこんで痛い。非難を込めて少しだけ首を捻り振り返った。佑太は相変わらず、不機嫌そうで、どうでもよさそうな顔をして私を見下ろしていた。
夕陽のせいで影が濃く、地黒の佑太はますます黒く見えた。白いタンクトップだけが浮き上がって存在を主張している。
この幼馴染は、無人島に置いて行かれたということをわかっているんだろうか。そう疑ってしまうくらい、彼は平常通りだった。
いつものように不機嫌な顔で、不機嫌な声で私に話す。
もしかすると少しだけ、怒っているのかもしれなかった。それはそうだろう。この島に取り残されたのは、私のせいだ。
無人島に男女で二人きり。相手が佑太でさえなければ、これ以上なくロマンチックな状況だ。
幾多の危機を二人の力で乗り越えて、絆を深め、恋に落ちて、島を脱出してハッピーエンド。
なんて素敵なラブストーリーなんだろう!
佑太と私が主人公でさえなければね。私たち二人が無人島に取り残されたところで、一体何が始まるの? ラブストーリー? 勘弁してくれ。
こんなときにさえ能天気な脳みそを、心底馬鹿みたいだと思った。そう思ったら笑えてきた。
私の肩を揺らす佑太に、私はにっこり微笑んだ。
「行かない」
とびきりの笑顔でそう返事をした。
あまり表情を崩さない幼馴染が面くらったように目を開いた。ああ、この顔久しぶりに見た。なんだか愉快だ。
「行かない、行きたくない」
佑太の手を払い、背中から砂浜に倒れ込んだ。
打ち寄せた波が身体の下を這って、私の長い黒髪を海藻みたいにゆらめかせた。私の自慢の真っ黒な髪。海水になんか浸したらきっと痛んでしまうけど、でも、それが何だって言うのだろう。
帰らないのなら、誰に見せるあてもない。綺麗にしている必要なんてない。
ああ、本当にこのまま、何処かへ流されてしまえばいいのに。私なんかは海の藻屑になればいいのに。
「馬鹿なこと言ってんじゃねーよ。もうすぐ真っ暗になるぞ」
ほら、と言いながら佑太は足で私をつつく。私の感傷を台無しにする。
一体佑太の他の誰が、私のことを足蹴にするだろう。私にさも面倒そうに話しかけるだろう。
優しくない仕草と、優しくない声が私を苛立たせることに彼はいつまでも気付かない。
そうやって私を何でもないみたいに扱うのが、幼馴染の特権だとでも思っているのだろうか。けれど、知っているのだ。彼は雑な扱いをしても、一度も私に無理強いしたことはない。
優しいふりして優しくなかったあの人とは、大違い。
だから、とても腹が立つ。許してはいけない、と思う。
私は憎らしい彼を見上げた。
「いいよ、もう。どうせ誰も迎えになんか来ないんだから。この無人島で、いつか死んじゃうんだよ私たち」
そう、死んじゃうんだよ、ここで。私たち二人で。他の誰にも知られずにひっそりと。
それも結構、素敵な物語になるんじゃないの? そう、ラブストーリーなんかよりは、悲劇の方が私たちにはお似合いだ。無人島に取り残された二人は喧嘩別れして、知らない間に二人とも死んでしまいましたとさ。
自分でもバカみたいな想像に呆れて、両目を手のひらで覆った。
と、隣に佑太が座る気配がした。
「どうしたんだよ、汐。らしくない」
不安そうな声音に、意味もなく苛立った。いや、意味ならある。
佑太に心配されたくない。心配されたいのは、あなたじゃない。さっきまであんなに不機嫌だったくせに、今更そんな声を出すな。
下唇に歯を立てて、私は黙る。
忘れるはずだった黒い塊が、胸の中をせり上がる。時間をかけて宥めてきたのに、佑太のせいでまた凶暴さを取り戻しそうな予感がした。
そう、佑太のせいで。全部全部、佑太のせいで。
無人島に取り残されたのも、今佑太と二人きりというのも、私が消えてしまいたいのも、誰も助けに来ないかもしれないのも。
私があの人に選んでもらえなかったのも。
全部全部、佑太のせいなのだ。
*
行かない、ここにいる、ほっといて、という私の駄々は佑太に黙殺された。
お姫様抱っこしてやろうか、という強迫に屈して、大人しく彼の後を着いていくことになったのだ。
憎たらしい。腹が立つ。
私がどうなったって関係ないでしょ、というヒステリーもやはり佑太に黙殺された。
今日まで碌に話しもしなかった相手を助けてくれるなんて、相変わらずお優しいことね、と思った。
ちょっと付き合ってよ、なんて言葉でのこのこついてきて、まんまと一緒に無人島に置き去りにされて。お優しいことね、と思った。
騙してやった、という爽快感も、私なんかにいいようにされて可哀そうにという気持ちも湧いてこないのが不思議だった。ただただ、佑太が何を考えているのかわからないことが、不快。
いい加減、私が最初からこの島に取り残されるつもりだったことはわかっているだろうに、それに対して何も言わないのだ。
お優しいことね!
もしかしたら彼は、私の事情を知っているのかもしれなかった。
だから、何も聞かないし、言わない?
それこそ偽善だと思った。
どこまで私に優しくしてくれるつもりなのか、試してみたいと思った。
「佑太」
呼びかけて服の端を引いた。
佑太はすぐに立ち止まって、無言で振り返る。
「お腹空いた」
言いながら二度タンクトップを引っ張った。
なるべく子どもっぽく、舌ったらずな口調で私は再度繰り返す。
「お腹空いた」
佑太はこれ以上なく嫌な顔をした。舌打ちまでした。
「我慢しろ」
そして歩き出す。
心なしさっきよりも草をかき分ける手が乱暴だった。私にぶつけられない怒りを、代わりにそこにぶつけるようなうごきているのかもしれなかった。
なんだ、怒ってるんじゃん。怒れるんじゃん。
私にそれをぶつければいいのに。
お優しいことね!
そんなに私は可哀そうなのかしら。あなたに相手にもしてもらえないくらい、私は可哀そうなの?
どこまで佑太が知っているのか、そうでないのかなんて、もうどうでもよかった。
佑太が私に何も言わないのは、きっと何を言っても無駄だと思うからなのだ。
だから、怒らない。だから、何も言わない。何も聞かない。
お優しいことね!
優しさは免罪符にならないのだ、とその背中に向けて私は唾を吐いてやりたい気持ちだった。
頭の中で佑太をなじる度に食道を滑り降りていくのは、果たして何の感情だろうか?
*
ぱちぱちと小さく音を立てて、火花が弾ける。
オレンジ色の炎は時折背伸びをしたり屈んだりと気ままに踊りながら、私のために魚を焼いてくれる。
佑太が見つけた洞窟の中で、佑太が捕まえてきた魚を、佑太が起こした火で調理しているのだった。
自分の見事なお荷物ぶりに、涙が出そうだ。というのはもちろん冗談で、私はそこらへんに落ちていた石を拾ってきて、その上にまるで女王のようにふんぞり返っていた。
佑太は枯れ枝を炎に差し込んだり、手で仰いで風を送ったりと、小さな焚火の面倒を見るのに余念がない。
あんなに私に嫌な顔をしていたにも関わらず、きっちり二人分の食事を捕まえてくるのが、佑太という人間だった。昔から変わらない、私の幼馴染だった。
「ねえ、なんでライターなんか持ってたの」
唐突に話しかけると、佑太の眉がぴくりと動いた。眉間に皺が寄る。
聞かれたくないことを聞かれたときの癖だった。ラッキーと思った。
私は今、佑太が嫌がるのなら何でもしてあげたい気分だった。
ねえねえ、なんで、と繰り返すと佑太は唸るように白状した。
「別に。タバコ吸うから、俺」
「いつから吸ってるの」
予想しなかった答えに、今度は純粋に驚いて聞いた。びっくりだ。
いかにもスポーツしていますという風貌の佑太に、タバコなんか似合わない。染めていない短髪に白いタンクトップにくたびれたジーンズをはいて、タバコ。
健全な少年だったはずの彼が、タバコ。
頭の中に浮かぶ佑太が、いつまでも中学生のままなことに気付いて、私は笑った。
悪ガキが、かっこつけちゃって。
「ねえ、いつから吸ってるの」
ねえねえ、とにやにやしながら尚も聞いた。
どうせ、嘘なんでしょう。タバコなんて、佑太は吸わない。だって、あの匂いが嫌いだって言っていたのを知ってるもの。
「ゆう」
「いつでもいいだろ。うるさい」
ぱちっ、と火が爆ぜた。
炎が伸びあがって、まるで魚を呑みこもうとするようだった。
佑太は器用に枝を重ねて、宥めるように火の勢いを調整した。真剣な顔で、目の前の炎だけを見つめている。一瞬も、私の方を見ない。
オレンジの火と影が躍る佑太の横顔を見て、私はそれ以上何も言うのを止めた。
まさか佑太との間の沈黙に、気まずさを感じる日が来るなんて思わなかった。
大抵、私が怒って会話を止めるのだ。佑太の余計な一言にぷちんと切れて、知らん顔を決め込む。すると佑太が私のご機嫌伺いをする。
それが私たちの、私たち幼馴染の、暗黙のルールだったはずだ。
どうして、と思った。
今日の佑太は、私の知らない男の子みたいだ。何を考えているのかわからない。
中学生の佑太、をもう一度頭の中に描こうとして、ついにその表情を思い出すことはできなかった。
焼き上がった魚を受け取って、私は黙ってそれに噛みついた。
あまりの熱さに、舌を火傷した。
痛い、という一言を小骨ごと咀嚼して、飲み込んだ。
*
空気に重さがあることを、初めて知った夜だった。
食事の片づけは、火を消すだけであっという間に終わってしまった。真っ暗闇に落ちた洞窟が恐ろしくて、私は勝手に洞窟の入り口に自分の寝床を確保した。
自分の寝床、つまりは、佑太がどこからか拾ってきた毛布と段ボールを、大きそうな石を避けた地面に敷いて、寝転がった。
肩や背中にあたる小石のせいで、とても寝心地がいいとは言えない。
それなのに、何の不満を言う気もなかったのは、星空に目を奪われてしまったからだ。
直前までの気まずさとか、もやもやとかを忘れて、自然に歓声が口からこぼれた。
夕焼けが綺麗に見えた翌日は、晴れ。
そんな迷信まがいの天気予報に違わず、空には雲ひとつなかった。
きっと明日はいい天気だろう。それを十分に確信させる、美しい空だった。
「ねえ、汐はそれ、狙ってやってんの」
そしてまた、私の感動を台無しにするのが佑太だった。
「は、何?」
上半身を起こすと、佑太がさっきまで私が座っていた石に胡坐をかいているのが見えた。
星明かりのおかげで、その表情まではっきりとわかった。
皮肉っぽく佑太の口元が歪む。
「どうしていつも無防備になんの。俺のこと、何だと思ってんの」
「意味、わかんないんだけど」
静かに怒りを含んだ声音に、背筋がびりびりした。わけがわからないまま後ずさる。何を怒っているの。さっきまで無視していたくせに、一体どうしたの。
ざり、と小石が音を立てて転がった。手のひらに角が喰い込んで、鋭い痛みが走った。もしかしたら切ったのかもしれない。
手のひらを確かめる余裕もなく、私は更に後ろに下がった。
この、目の前にいる人は一体誰?
毛布から無理に抜けだしたせいで、Tシャツの裾がへその上までまくれあがっていた。
ひやりとした風が、素肌の上を滑っていく。佑太の視線と、一緒に。
はっと気付いて、私は慌てて服を直した。
「意味、わかった?」
「意味わかんない!」
叫んだ言葉が、悲鳴のように後を引いた。半端に高い声が、音のない夜に響く。
私たちはずっと幼馴染だった。これからだって幼馴染という礼儀正しい距離感を保ちながら、いつか全然関係のない他人になってゆくはずだった。
私のその目論見は、うまくいっていたはずだ。
小学生のときはよく二人でも遊んでいたけれど、思春期にぎこちなくなって話もしなくなった。高校生になって多少はもとに戻ったけれど、決して私たちは友達ではなかった。
友達ではなかった。でも私は佑太になら何を言っても構わないと思っていて、実際我が儘だったし愚痴だって言いたい放題だった。何をしたって佑太が私を嫌いにならないことを知っていたから。
だって私たちは、幼馴染という関係は、最初から好き嫌いで始まっていないんだから、嫌いになんかなりっこない。
佑太は私を好き嫌いで考えない。
自分は佑太が嫌いなくせに、都合のいい頭だとも思うけど。大体私という人間はどこまでも自分に甘く、ずるくできているのだ。
それなのに。
あの視線を思い出すだけで、背中がぞくりとした。
どうして、どうして、いつから?
Tシャツを掴んだ手が、自分でもひいてしまうくらいわなわなと震えていた。
私にとって佑太は佑太だ。それ以上の何かではない。それ以上の何かになるはずもない。
「わかったら、早く寝ちまえ」
ざまあみろ、とでも言いたげに佑太が笑って立ち上がった。
ポケットに両手を入れて去っていく後ろ姿から、私は目を離すことができなかった。
どうして今のままではいけないのだろう、と思った。
結局私に優しくしかできない、可哀そうな幼馴染のことを思った。
それから、なぜこの無人島に佑太を連れて来たのかを思い出して、きっとこれが罰なのだろうと思った。
私がここにいるのは、今のままでは嫌だと駄々をこねたその結果だったから。
地面に倒れ込んで、再び空を仰いだ。
滲んだ星は、お世辞にも綺麗とは言えなくて。夜の空気の沈黙に、ぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。
*
寝られない、と思っていたのにいつの間にか睡魔に襲われて、次に起きるともう太陽は高く昇っていた。固い地面で寝たせいか、背中を中心に体の節々が痛かった。
眩しさに顔をしかめながら体を起こし、強張った筋肉を伸びをしてほぐす。汗でべたつく髪をかきあげて、両手で目をこすった。
そういえばお風呂も入っていないし、化粧も落としていない。
かつての自分だったら悲鳴をあげそうな暴挙だ。でも今はどうでもいい。無人島で人目を気にしても仕方がない。
それでも顔を洗ってすっきりしたい気分だった。
川とかあるんだろうか。
使っていた毛布を大雑把にたたんで洞窟の入り口に置く。昨夜椅子代わりに使っていた大きな石が目に留まった。
佑太はどこに行ったのだろう。
目を覚ましてすぐに、彼がいないことには気付いていた。もしかしてずっと戻ってきていない?
自分のことを考えるのに手一杯で、そのうちに眠ってしまったけれど、追いかけた方がよかったのだろうか。
昨夜のことのせいで戻ってこないだけならいい。そうではなく、もし、万が一怪我をしたとか迷ったとかで戻ってこられないのだとしたら、やっぱり心配だ。
探しに行こう。
佑太が私にとって憎らしくても、そのままほっておけるほど、私は冷たい人間ではない。
比較的、草木の茂っていない場所を通ることに決めて、私は歩き始めた。
そう進むことなく、水の流れる音に気付いて進路をそちらに取った。
自分の欲望を優先させる私は、やはりどうしようもない人間だ。嬉しさに足を速めて森を抜けると、思った通り川が流れていた。
いつの間にか土から砂利に変わった地面の上を小走りにかけて川の淵にしゃがみこむ。透明な流れはまだ低い太陽を反射して、きらきらと光っていた。
「つめたっ!」
指先をつけて、即座に手を引いた。それから、ゆっくりと手を浸す。
水に触れたところから、清らかさが流れ込んでくる気がした。
こんなに綺麗な川を見るのは初めてで、私の心は躍った。
裸足になって川の中へ進むと、四歩進んだところで膝まで水に浸かった。思ったよりも深いことに怖気づき、そこで足を止める。
両手で水を掬って顔を洗った。何度も何度も、冷たい水を肌に打ちつける。
こんなどろどろの私でも、まだ綺麗に生まれ変わることができるんじゃないか。顔を洗いながら、そんなことを思った。
と、背後で派手な水音がした。
咄嗟のことに頭が白くなり、慌てて振り返った。
「何?」
熊やイノシシだったらどうしよう、と心配したのも一瞬で、すぐに正体がわかった。
ほっと息を吐き出す。
逆光の中に浮かび上がったのは佑太だった。
じゃぶじゃぶと飛沫をあげながら私の方へ近づいてくる。
その歩き方は、水中が進みにくいこともあるけれど、なんだか力任せで。
怒っている、みたいだった。
(なんで?)
立ちつくす私の前に、佑太が立った。
ぽかんとして顔を見上げる。水浴びでもしたのか全身びしょぬれで、前髪からはぽたぽたと水滴が落ちていた。そして、裸の上半身に、嫌でも目が惹きつけられた。
広い肩とか、硬そうなお腹とか、筋肉のついた腕とか、太い指とか。
そうか、佑太は男の人なんだという当たり前のことが、すとんと私の中に落ちてきた。
いつまでも私の言うことを聞いて文句も言わない子どもなんて、もうどこにもいなかったのだ。
私がずっと幼いままの私でないように、佑太だって昔のままではなかったのだ。
そんな当たり前のことに、どうして私は目を瞑っていたんだろうか。
知らない振りをしたって、現実が待っていてくれるわけではないのに。
急に恥ずかしくなって、佑太から目を逸らした。
不意に手首を思いがけなく強く、掴まれる。
「どこ行ったのかと思った」
責める口調で言われて、反射的に首を竦めた。
「べつに、いーじゃん。あんただって、昨日から戻ってこなかったくせに」
ぼそぼそ答えると、手首を握る力が強くなった。
「あんまり心配かけんな」
そして、佑太の手に引かれ。
なぜか彼の腕に閉じ込められて、私は瞬いた。
数秒遅れて、離してと言おうとしたときには、何事もなかったように、佑太は私に背中を向けていた。掴んだままの私の手を引いて、洞窟へ戻るようだった。
その、背筋の伸びた背中を、やっぱり見ていられなかった。
佑太は。佑太は幼馴染だ。それ以上ではないし、それ以下でもない。ということを、自分に言い聞かせる。
あの腕の中にいるのが、嫌じゃなかったとしても。
そこを譲ってはいけないのだった。
どうしても私は、認めるわけにはいかないのだった。
*
魚と木の実、というあんまりな朝食を片付けて、私は一人、砂浜へ戻っていた。
綺麗な星空を見上げていたのが冗談みたいに、今日の天気は曇り空で、風も強い。波も昨日の穏やかさとは打って変わって荒かった。
これからますます荒れそうな空を見上げていると、落ち着かない気分になってくる。
朝食からずっと、佑太とは目も合わせていなかった。
彼はずっと私を伺うように何かと気を使って、昨夜が嘘のように話しかけてきたけれど、私はそれを無視した。
どうしてあんなことをしたの、とほとんど正解のわかっている問いをしてやるつもりは毛頭ない。私はそんなに優しくないのだ。佑太とは違って。
そして、何も言わない佑太はずるい、と思った。
お優しいことね! お優しいことね!
と、再三頭の中で罵倒する台詞を繰り返す。
お優しいことね!
私が振られたばかりだから、佑太は迂闊なことをしないのだ。
弱った私に付け込むことを、彼はよしとしないのだろう。
あんなことを、しておいて。それでも。
私を更に苦しめることだけはしないように、佑太は気を使ってくれている。
だから、わかってしまった。
佑太は全部を知っているのだ。
どうして私がこの島へ来たのか。どうして佑太を道連れにしたのか。
「ねえ、もういいよ。もういいよ、こんな茶番!」
叫びながら振り返る。当然のように私の後を付いてきていた彼が、そこにいる。
向かい風に短髪を乱して、嫌そうにしかめた顔で、佑太は私を見守るように立っていた。
「茶番って、何が」
「全部よ。わかってるくせに。そうじゃなかったら、あんたは私についてこないもの! 止めるはずだもの。馬鹿なことは止せって」
私は意地悪く笑ってみせた。佑太に向かって一歩、一歩、砂を踏みしめて近付く。
「引導を渡してあげる。綺麗な恋なんて、この世のどこにもないんだから。初恋は実らない。好きな人には振り向いてもらえない。なのに好きじゃない人には好きって言ってもらえる。欲しい物は手に入らない。欲しくない物はあっちから飛び込んでくる」
佑太の目の前に立って、白いタンクトップの首元を思い切り下に引いた。
バランスを崩してつんのめる佑太を、私は砂浜の上に押し倒した。
「あんたのせいよ、あんたのせいよ、あんたのせいよ!」
全部、あんたのせいよ!
声の限りに叫んで、拳を握った。目の前の胸板を力任せに叩いた。
「好きだったのに、好きだったのに、ずっと、好きだったのに」
初恋だった。好きになって幸せだった。好きだと伝えるだけで満足するはずだった。
彼女になりたいとか、少しは思ったけどでも、そうなれるとは最初から思っていなかった。
秘めて、育てた気持ちを知ってもらえればそれでいいと思っていた。
私が好きになったのは――。
「あんたの、せいよ。最後まで言わせてもらえなかったの。勘違いだよって。気のせいだよって。そう言われたの。笑ってた、笑ってたのあの人」
あの人は、佑太の兄は、私の初恋の人は。
佑太とよく似た吊り目を、困ったように細めて、笑って。
私の恋を、拒絶したのだった。
『五つも年下の女の子を、そんな風には見れないよ。汐は周りに年上の人がいないから、そんな気分になっているだけだよ。もっと他に――』
もっと、他に、なんだというのか。なんだと言いたかったのか。
全部聞かずに、私は逃げ出したのだった。
それが、一昨日のこと。
佑太の胸板を、そこに穴を開けてやろうという気で、大きく叩いた。
佑太は呻き声一つ出さない。それがまた、私の癇に触るのだった。
声を押し殺して私は泣いた。悲しいのか、悔しいのか、それとも他の何かなのか、もう私にもよくわからなかった。
とにかくこの苛立ちを、全て佑太にぶつけなければ気がすまなかった。
何度も、何度も、佑太を叩いた。私の拳が痛くなるまで。
ふっと、佑太の両手が上がって、私の上で迷うように動きを止めたのがわかった。
触られたくなんてないのに、大嫌いなのに、迷って止められていることが何より憎たらしかった。私はぼやけた視界の向こう側を、これでもかと睨みつけた。
すると、何を勘違いしたのか、佑太の両手は私の背中に遠慮がちに回された。
身じろぎせずにいると、佑太の手がゆっくりと動いた。子どもをあやすような手つき、ムカツク。ムカツク、のに、嫌じゃない。嫌じゃないのがたまらなく嫌。
誰かの体温が心地いいのは、この砂浜があまりに寒いからだ。吹く風が、あまりに冷たいからだ。
私の心が、優しさに飢えているからだ。
そう、私が欲しいのは優しさだった。大丈夫だよ、という根拠のない慰めだった。
収まってきた涙が再び盛り上がるのを感じて、それを隠せずに全部佑太に見られているのが悔しくて、私はまた喚いた。
「振られるってわかってたの。それでも言いたかったの。なのに、どうして! あんたのせいよ! あんたが私なんか、好きになるから」
「……ごめん」
謝られたくなんかない!
「なんで謝るの! だいっきらい」
「うん、でも俺は好きだ」
「本当に、嫌い、きらいなんだから」
最後まで言葉に出来たかどうか、私は夢中で佑太のタンクトップを掴んだ。止まらない涙を、その白い布に吸い込ませる。
あの、優しい初恋の人は、私の恋より弟の恋の方が大事だったのだ。
私の恋がどれほど本気か、知りもしないくせに。知ろうともしなかったくせに。
『汐は俺じゃなくて佑太の方が――』
佑太の手のひらが、心地いいなんて知りたくなかった。
私が好きなのはこの人じゃない。私が欲しいのはこの手じゃない。
そう言い聞かせていないと思わず縋ってしまいそうになるくらい、この手は私の欲しかった物に似ていた。
「こんなこと言っても、汐の気持ちは収まらないかもしれないけど」
「何よ」
「殴っておいたから、俺」
「何が」
「俺、兄貴のこと殴っといたから。汐の代わりに。ふざけんなって、言ってやったから」
「……そんなの、嬉しくない」
「だろうな。でも俺だってむかついた。汐を泣かせやがって」
そして、ぽつぽつと空が泣きだすまで、私は静かに泣きじゃくった。
*
再び洞窟へ戻ってきた。
石壁にもたれて外を眺める。どしゃ降りの雨だった。
洞窟の入口にカーテンでもしめられたみたいに、外の景色はおぼろげにしかわからない。
この場所が、地面より少し高いことは救いだった。雨に濡れるのも、センチメンタルな気分のときには悪くないが、これはちょっとあんまりな雨だった。
佑太は私と反対側の壁に、同じようにもたれて座っていた。
そちらをさっきからちらちら気にしてしまう。佑太も私を意識しているのは丸わかりで、時折目が合ってしまうのがその証拠だった。
何も言わない。お互いに。
バケツをひっくり返したような音だけが、洞窟の中を満たしていた。
と、くしゅん、と可愛らしい声がした。構えていなかった私は驚いて、肩が跳ねた。
「わるい」
ずず、と鼻水をすすりながら佑太が言った。
「風邪引いたの?」
「わかんねえ。寒い」
腕をさすり始めた佑太を見て、私は呆れた。
降りだした雨の中、私を庇うようにしてここまで来たのだから、風邪を引くのも当たり前だ。
体を温めて服を乾かすために火を起こそうとしたけれど、しけった枝では思うように焚火は作れなかったのだ。
「あのさあ」
私は気の重いまま口を開いた。
佑太がずぶ濡れになったのは私のせいだし、そもそも無人島に来たこと自体私のせいだし。
あまり取りたくない選択肢だけれど、仕方がない。
「こっち来たら? くっついてたら多分、あったかいよ」
私の親切な提案に対して、佑太は無言だった。
くしゅん、と言ってからまた鼻をすすった。
そして、私に向かって馬鹿にしたように笑って言った。
「あのさあ。汐はどういうつもりなの? 俺のことどうしたいの?」
佑太の目に浮かんでいるのは怒りだ。
言いたいことはよくわかる。昨夜の今日だ。私だって自分がどうかしていると思う。
でも、そういうことではない。少なくとも、今は。
「黙って、病人。今そんな話してないから」
埒があかないと思って、私はさっさと佑太の隣に移動した。頑なに距離を取ろうとする手を払って、無理矢理側に座った。
「汐、どうなっても知らねーよ」
「佑太は私の嫌がることはしない」
「……はいはい」
断言すると諦めたように佑太の体から力が抜けた。反抗的じゃなくなったことに少しだけほっとして、私はぎゅっと腕を絡めた。
油断、したのだ。まるで小学生の頃に戻ったような気持ちになって。
佑太の頭が滑るように落ちてきて、私の肩にもたれかかった。
突然の重さにぎょっとする。ここまでのことを許した覚えは、ない。
「佑太」
「俺は汐の嫌がることはしない」
嫌なの? と擦れた声で聞かれて、返事に詰まってしまったのは予定外だった。
タイミングを逃した質問は雨音にまぎれてしまって、佑太の頭は私の肩に居座った。
そのうちに佑太の寝息が聞こえてきた。
耳を掠める微かな息が、くすぐったくて仕方ない。
「私の嫌なこと、しないって」
小さく文句を言ってみても、尻すぼみになって私の耳にも届かなかった。
これは断じて、これまでの私たちの距離感ではない。
病人に優しくしてあげようという、私の発想は安易すぎた。
慣れないことはするものではない。優しくするのは佑太の専売特許なのに。
「佑太」
そっと名前を呼んでみた。
思ったよりずっと恥ずかしくなって、私はぎゅっと目を閉じた。
洞窟の中に響く佑太の寝息がよく聞こえる。
それを邪魔する雨の音はだんだん弱くなっていく。佑太の寝息につられるように、私も眠りに落ちていった。
*
「汐……汐! しーおー」
ぺちぺちと頬を叩かれて、無意識にその手を払いのけた。
寝ぼけ眼で辺りを見回して、洞窟の中で眠ってしまったことを思い出した。
もう雨の音はしない。外の地面はところどころ乾いていたけれど、まだ大部分は湿っていた。
もうしばらくしたら、湿度があがって大変なことになりそうだ。特にこんな洞窟にいては、サウナ状態は免れないだろう。
ああ、クーラーが恋しい。お風呂も。まともな食事も。
思い始めるとこんな無人島にいることが馬鹿馬鹿しくなってきた。
ああ、私、何のためにここへ来たんだっけ?
「佑太、帰ろうか」
もう、いいや。と、そう思って佑太に言った。
「は? 帰るって、どうやって」
「今日迎えに来てくれることになってんの、船」
「は?」
「最初から、帰らないつもりはなかったの。ちょっとだけむしゃくしゃしたから、佑太のこと道連れにしてやろうと思っただけ」
「は?」
三度目の問い返しに、さすがに吹き出してしまった。
この、間抜けな顔ったら!
細い目をいっぱいに見開くと、佑太の顔は随分幼く見えた。まるで小さい頃に戻ったみたいな気になる。いつまでも二人で遊んでいたあの頃、佑太といれば私はご機嫌だったのだ。
「ほら、砂浜行こう。昼過ぎには来れるって、船長さん言ってた気がする。今何時か知らないけど」
絶句している佑太を置き去りにして、私は駆けだした。
柔らかくなった地面の上を、弾むようにひた走る。
何もかもを置き去りにしよう。この無人島にいろんなものを捨てて行こう。
私の初恋も、失恋の悲しさも、佑太への憎しみも、何もかも。
それから、きっと私は新しい恋をする。
案外お花畑な思考に笑ってしまって、そっと後ろを振り返った。
佑太はやっぱり、優しいのだ。
怒っているはずなのに、呆れているはずなのに、ちゃんと私の後を追いかけてきてくれる。
だから私は安心して、佑太に我が儘を押しつけたらいい。
「佑太! はやく!」
叫んで、スピードを上げた。
木々の切れ間から、海岸が見えてきた。
空の青と海の青が眩しかった。
*
適当な枝を拾って、砂浜いっぱいに「HELP」と文字を書いた。
波に消される度に走って行って書き直す。そんな遊びを何度も繰り返すうちに、太陽が真上に昇った。
水平線に目を凝らしていた佑太が、来た、と叫んだ。
私は枝を放り出して、佑太の隣で船に向かって両手を振った。遠くからでもわかったのか、汽笛が三度大きく答える。
「本当に最初からこのつもりだったのか」
「だから、言ったじゃん」
得意になって笑うと、佑太に思い切り頭をはたかれた。
そのくらいの非難はさすがに受けておくべきだろうと思って、私は寛大に笑って許した。それさえ佑太には癇に障ったようで、ますますしかめつらになっていた。
「結局なんだったんだよ、これは」
「逃避行だよ」
「は? 意味わかんねえ」
「愛の逃避行、なんちゃって」
二度目の暴力を覚悟して身構える。さすがに、これは怒るかな。
しかしいつまでたっても痛みが来ないので、ちらりと横目で伺う。
「あのさあ」
いきなりの真剣なトーンに、思わず瞬いた。
「帰る前に言っとくわ。付け込むのはやめようと思ってたけど、多分ここで何も言わなかったら汐はなかったことにするだろうし。ちゃんと聞けよ」
聞けよ、と言いながら佑太は私の両手をとってばんざいの姿勢にさせた。耳を塞ごうとした手を取られて、私は俯く。
これは、卑怯だ。
ごちん、と額をぶつけられた。
「聞けって、汐」
懇願する響きに負けて顔をあげる。
佑太はまっすぐに私を見ていた。不機嫌でもなければ、怒ってもいなかった。
佑太の瞳の中の私の表情まで見える距離。心臓に悪い、距離。
「いいよ、聞くよ」
投げやりに返事をすると、途端に佑太は嬉しそうに笑った。
今までそんな顔、見せたことないくせに。
ずるい。
「俺は汐が好き。だから付き合ってほしい。汐がまだ兄貴を好きでもいい。俺のこと今は好きじゃなくてもいい。幼馴染の距離じゃ、もう足りない」
額から、重さが遠ざかった。掴まれていた手がそっと降ろされる。
離れた佑太は、からりと笑っていた。
「これで、なかったことにはさせねーから」
そして、佑太は波打ち際へ歩いていった。私の返事をまるで期待しないその行動に、拍子抜けてしまう私は相当ゲンキンだ。
「佑太!」
呼びかけてしまってから、これは罠だ、と思った。
佑太の作戦にはまってしまっている。すっかり付け込まれてしまっている。
それがわかっていても、どうしても佑太にこっちを向いてほしいのだから、仕方がない。
だって、佑太への憎しみはきれいさっぱり置いてきてしまった。
初恋も失恋も、全部捨ててきてしまった。
代わりに、あの腕の中にいる心地良さを知った。あの手が欲しいと思った。
あの目でもっと、私を見てほしいと思った。
幼馴染の距離感を壊すのは、とても怖いことだ。けどもう、佑太が壊してしまったから、どうせもとには戻れない。戻れないなら、進むだけ。
私だって、もう足りない。
「佑太!」
私の我が儘には佑太も慣れっこだから、きっと願いは叶うと知っている。
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