神様と悪魔とドーナッツの甘い話
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とある、とある、遠い未来。
世界では科学がとっても発達していました。
もう治せない病気はありません。もう足りない資源やエネルギーはありません。もうコンピューターに出来ない仕事はありません。もう惑星の外に出るのに苦労したりしません。もう光の速度を超えられないだなんてことはありません。
そんな世界の人々はみんな科学を信じています。だって、科学のおかげでとっても幸福なのですから。
そして、世界の人々はみんな“あるもの”を忘れてしまいました。
“あるもの”とはなんでしょう?
「やあ、こんにちは。また来たよ」
と、壁も床も天井も真っ白な部屋で少女の声がします。
ポツンと質素なテーブルと椅子が2脚おいてあるだけの小さな部屋。
そこに現われたのは悪魔の女の子です。
真っ黒な髪を背中に長く伸ばしていて、真っ赤な瞳をワクワクと輝かせ、頭には山羊の角が生え、纏っている黒いサマードレスのスカートからはチョイと黒い尻尾が覗いています。
悪戯気に笑っている女の子は、見るからに悪そうな悪魔です。
「また来たのです……」
それを嫌そうな顔で出迎えるのは、この部屋の主です。
それは悪魔の女の子とはまるで正反対の女の子。
真っ白な髪を短く肩までで纏めていて、マリンブルーの瞳を憂鬱そうに輝かせ、頭には仄かに光る輪があり、纏っている白いセーラーワンピースからは尻尾がはみ出ているなんでことはありません。
この女の子は、人々が忘れ去ってしまった神様です。
科学にすっかり追いやられてしまった神様は、部屋も小さくなって、家具も安物になって、いっぱいいた天使たちも全員がいなくなり、一人ぼっちでこの部屋で暮らしています。
「そんな顔をしないでよ。この部屋に遊びに来るのはボクくらいなんだから、ね?」
そういって、悪魔は勧められてもいないのに、勝手に椅子に座ります。もう我が物顔という感じです。
「ねえ、ねえ。面白い話を持ってきたんだ。聞きたいよね?」
「別に聞きたいとは思わないのです」
ニコニコしながら悪魔が言うのに、神様はプイッとそっぽを向いてしまいます。
「じゃあ、聞かせてあげるね。この間、面白い契約をしたんだ。ボクを呼び出したのは、ダイエット中の女の人で、ボクにこうお願いしたんだ。“太らずに、お腹いっぱいドーナッツが食べたい”ってさ」
神様の反応も無視して、悪魔は勝手に話を始めました。
「今の世の中なら悪魔に頼らなくたって、VRで食べた気分になればいいのに、その女の人はどうしても本物のドーナッツを山ほど食べて、それでいて太りたくないっていうのさ」
「VRなんて紛い物だから当然なのです」
科学の世界では脳のシグナルを操作して、食べ物の味だけを感じたり、何も食べてないのにお腹いっぱいだと感じる技術があります。
そんな技術は人々が神様に祈りを捧げて、何かをお願いするという機会を奪ってしまいました。なんでもコンピューターに注文すれば、神様にお願いしなくても体験できるからです。
「そう。その女の人も、偽りのドーナッツじゃなくて、本物のドーナッツが食べたかったわけだよ。この世の中で悪魔を呼ぶのも珍しい人だったから、ボクもついついお願いを叶えちゃったんだ」
悪魔も神様と同じです。人々は黒ミサを行って悪魔に魂を捧げなくても、コンピューターが無償でお願いを叶えてくれるので、悪魔が呼ばれる回数はめっきり少なくなってしまいました。
「チョコリングドーナッツに、シナモンシュガードーナッツに、ストロベリードーナッツに、クリームドーナッツに、あんドーナッツ、その他エトセトラ。世界中のドーナッツを女の人に食べさせてあげて、カロリーだけはちゃんと取り上げてあげたよ」
「…………」
悪魔がおいしそうなドーナッツの名前を羅列するのに、神様が無言でゴクリと唾を飲み込みました。
「お腹減ってきたよね?」
「別に減ってないのです」
ニヤニヤしながら悪魔が尋ねるのに、神様はまたそっぽを向きます。
「じゃあ、これはどうしようかな。女の人の契約の代価に、ドーナッツを分けて貰ったんだけど、ボクだけじゃ食べきれないんだよなあ」
わざとらしくそう言って悪魔は、何もない空間からドーナッツが詰まった箱を取り出しました。ドーナッツの甘い、甘い香りが部屋に漂います。
すると、突然机の上にポンッと2個のマグカップが現れ、その中から湯気を立てながらカフェ・オ・レが湧き上がってきました。ちょっとばかり安物のインスタント・コーヒーの匂いがしますが。
「……たまたまコーヒーが湧いてきたのです。そこに置いておいても仕方ないから、飲むといいのです」
「ありがとう。では、お礼にドーナッツをどうぞ」
チラチラとドーナッツを見ながら告げる神様に、悪魔はドーナッツの箱を差し出しました。
「アム……」
神様はドーナッツの箱が手に入るや否や、ドーナッツを口に運びます。
ちょっと食いしん坊に見えますが、神様を信仰するものがすっかりいなくなったので、昔は何でも手に入ったのに今ではドーナッツですら手に入らないのですからしょうがありません。
「おいしい?」
「別においしくないのです」
悪魔が尋ねるのに、神様はほっぺをドーナッツでいっぱいにしながらも、またそっぽを向きました。手にはしっかり、ふわふわでほんのり甘いシナモンシュガーのドーナッツを握っていますが。
「ねえ、ねえ。君もボクにお願いしないかい?」
「別にドーナッツはもういらないのです」
もう6個のドーナッツを平らげた神様は悪魔にそう返します。
「違うよ。信仰者だよ。ボクが君の信仰者を作ってあげる。また、昔みたいに教会で君に祈りを捧げるようにさ」
悪魔は神様が淹れたカフェ・オ・レを飲みながら、そんなことを囁きました。
「その代価に何を取るのです?」
神様は悪魔の提案に僅かに目を細めて、そう尋ねます。
悪魔はお願いを叶えてくれるけど、その代価を持っていきます。魂であったり、家族友人であったり、社会的な地位であったり、その人の大事なものや、あるいはどうでもいいものを持っていきます。
「そうだな。お願いを叶えたら君がボクのお嫁さんになってくれるってことで」
「!?」
悪魔がさらりと告げた言葉に、思わず神様がカフェ・オ・レを噴出しかけました。
「な、何を言ってるのです! ありえないのです! だ、誰が嫁になるかです!」
女の子と女の子が結婚すること自体、ちょっとおかしなお話です。
「でも、いいのかい、このままで。ボクの方はなんとか細々と生き延びているけど、このままでは君の方は本当に消え去ってしまうよ。君が消えてしまうのは、ボクは寂しいな……」
信仰者が本当にひとりもいなくなったら、この部屋も、そして神様自身も消えてしまいます。人々の記憶から消え去り、存在そのものが消え去ります。
「……信仰者ならちゃんといるのです」
そんな悪魔の心配に、神様が小さく告げます。
「へえ。どんな人?」
「フフン。とってもいい信仰者なのです。いつも面白い話を聞かせてくれて、いつも供物を捧げてくれて、いつも私の将来の心配をしてくれる。そんな信仰者がちゃんといるのです」
悪魔が驚いた表情で尋ねるのと、神様は自慢げにそう語りました。
「嘘だ。そんな人がいるわけないよ」
「いるのです」
神様が嘘を吐いていると思ってムスッとした顔になる悪魔に、神様もムスッとした顔になって返します。
「知らないからね。そんな強がりをしていて、本当に消えたりしたって」
「消えたりなんてしないのです」
不機嫌そうな悪魔ですが、神様は何故か上機嫌にそう告げました。
「……なら、その信仰者とボクのどっちが好き?」
暫しの沈黙の末に、悪魔はどこか寂しげにそう尋ねました。
「同じくらいなのです」
神様はそういって、プイッとそっぽを向きます。
「なら、いいかな。ボクのこともそれだけ好きってことだし、ね♪」
悪魔は嬉しそうにニコニコと笑いました。
「今度、その信仰者を紹介してよ。本当にいるならだけど」
「してあげないのです。内緒なのです」
そういって悪魔がまたニヤニヤした笑みで尋ねると、神様は悪魔の方を向かずにそっぽを向いたままそう返します。
「ふうん。やっぱり、いないんだ?」
「いるのです。しつこいのです」
まだいないと思っている悪魔に、神様はちょっと怒った口調で告げました。
「まあ、考えておいてね、お願いの話。ボクは君に消えて欲しくないんだ。ボクなら君のお願いを叶えてあげれるし、幸せにしてあげられるから」
悪魔は空っぽになったマグカップをテーブルに置くと、椅子から立ち上がります。
「コーヒーご馳走様。また来るよ。じゃあね」
悪魔はまだそっぽを向いている神様に小さくヒラヒラと手を振ると、現れたときと同じようにいつの間にか姿を消しました。
こうして悪魔がいなくなると、神様の部屋は神様ひとりだけになりました。
神様はようやくそっぽを向くのをやめて、悪魔が座っていた椅子を見ます。その椅子に座るのは悪魔だけです。
ここに来るのはあの悪魔の女の子だけ。神様にいろんな話を聞かせてくれるのは、あの悪魔の女の子だけ。神様にお菓子を持ってきてくれるのは、あの悪魔の女の子だけ。消えてしまうかもしれない神様の心配をしてくれるのは、あの悪魔の女の子だけ。
「……もうお願いなら十分に叶っているのです、あのにぶちん。お願いを叶えたのだから、早く代価を貰っていくのです……」
神様はそんな悪魔がいなくなった椅子を寂しげに見つめて、ポツリと呟きました。
とある、とある、遠い未来。
科学が主役の世界になったけれども、その片隅ではまだ神様と悪魔がひっそりと暮らしています。




