9 熱と不安の欠片
<アルクトスの独白 7日目 その2>
道具置き場は少し埃っぽかった。
その中でお嬢様と一緒に鉢植えを探し、種を移し替えた。踏まれた種は中身が出てしまっていてもう芽はでないものと思われた。
「別の種をご用意しましょう」という私の言葉に、お嬢様は悲しそうな顔をした。
「芽が出るかも知れないから、捨てないで。アル、お願い」
まるで魔法が使えないその身を、種に重ねたような言葉に何も言えなかった。祖父ならばもっと上手く、こっそりと別の種を用意するなどしただろうに。
「きっと芽は出ますよ」という慰めの言葉しか言えなかった。
夜にお嬢様は熱を出してしまった。医者は「ただの風邪」だと言ってはいたが、お嬢様の体調に配慮もできないなんて本当に情けない。
夜中、熱で苦しげな様子のお嬢様をただ見るだけしかできないとは、こんなに辛いものなのか。代われるのならば、代わりたい。どれほどの熱でも喜んで引き受けるのに。
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<アルクトスの独白 8日目>
まだお嬢様の熱は下がらない。ときどき目を開けるが、その視線は定まらずそのまま目を閉じてしまう。寝床で食べられる食事を用意して側に控えていると、お嬢様の目が開いた。身動ぎしながら枕元の何かを探しているようだ。目が覚めたのだろうか。
「お嬢様、お水はいかがでしょうか」
お嬢様に話しかけると、ぼんやりした目が私の方へ向いた。そして目を丸くした。
「……くま?」
「? どうなさいました?」
尋ねると何度も私の姿を見て、納得したように呟いた。
「くまだわ……うん、やっぱり、夢ね」
その様子はどうも意識が朦朧としているようだった。もしかして熱のせいで私が執事になったことを忘れてしまったのかと、少し不安になった。
「お嬢様、大丈夫ですか? アルクトスのことを、お忘れでしょうか?」
「……忘れ、て? ううん、忘れてない、大丈夫。夢だから」
「?」
尋ねても要領を得ない返事が返り、その額に手を当てると焼けるような熱である。本当に大丈夫なのだろうか。解熱薬を手にお嬢様に声をかけた。
「お嬢様、お水とお薬を」
「……」
しかし、お嬢様はまた眠ってしまった。先ほどよりもさらに心配が募り、昼が過ぎ、夕方が過ぎても枕元を離れられなかった。
何度かまどろんだあとに、目を覚ましたお嬢様は私を見て「アル、お水、ちょうだい」と掠れた声で言った。何故か酷くホッとした。
食欲はあまりなく、粥の一匙と水と薬だけ。早く元気になって欲しいと心から思う。
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<アルクトスの独白 9日目>
お嬢様は昨日よりは食欲があるようで、夕方は粥を半分ほど食べていた。
夜が更けると悪夢にうなされる様子が見られる。心配で側に控えていると、目を覚ましたお嬢様の目から静かに涙が零れた。
「おかあ、さん……」
「お嬢様……大丈夫ですか?」
奥様の手には敵うべくもないが、お嬢様の頭を撫でると首を振って嫌がられた。
「おかあさん、どこ……」
「お嬢様、奥様は……お嬢様をずっと見守られていますよ」
奥様を探すお嬢様に何と言っていいのか分からず、天国にいる奥様は姿は見えないけれどもお嬢様を見守っているだろうと伝えると、お嬢様は再度首を振った。
「ちがう、ちがう……」
どれほど慰めても、ただ「ちがう」とだけ繰り返して、泣き疲れたのか朝方にお嬢様は眠りについた。お嬢様の頭を撫でるこの獣の手が、奥様でないことがやはり不満なのであろうとため息をつく。
奥様の姿絵でも旦那様にお借りしたほうがいいのだろうか。自分がたおやかな女性の姿になれればいいのだが……無理にも程があるな。
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<アルクトスの独白 10日目>
お嬢様の熱がかなり下がってきた。夕方までぐっすりと眠っていたからだろうか。
「おなか、すいた」
もぞもぞとベッドから起き上がったお嬢様は、まだ少しだけ頬が赤いが、食欲もあるようで何よりである。
「アル、ご飯用意して、ご飯。パウンドケーキも食べたい」
お粥をぺろりと完食して、さらに焼き菓子ももっと食べるとねだるお嬢様の姿は、いつもと変わりない。昨夜のことは気にはかかっていたが、奥様のことを思い出させるのは酷に感じて何もいえなかった。
「アル、パウンドケーキ……」
「消化に悪いので一切れまでです」
「……」
悲しげに眉を下げるその姿はとても可愛らしく、胸の中が暖かくなる。昨日の悲しげな姿は身を切られるような痛みがあったのに。
「アル、賞味期限があるのよ。焼き菓子だって美味しいうちに食べてほしいはずなんだから」
「お嬢様がお元気になられたら、一本丸々お出ししましょう。熱が下がりきるまではお休みになってくださいね」
「ほんと!? やった、じゃあ寝るわ!」
喜々としてベッドに潜る様子は、変わらず微笑ましい。
夜中もずっと側にいたがうなされることも妙な言動をすることもなく、すやすやと眠っているようだ。本当に良かった。
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<アルクトスの独白 11日目>
熱がほぼ下がり、朝からお嬢様は元気である。だが油断は禁物。明日には医者がくるので、今日はまだ休んでもらおう。
「アル、暇だから出ていい?」
「駄目です」
「えぇー……」
お嬢様はベッドに留められるのに飽きているようである。そういえば、と先日の紙の冊子を渡した。
「お絵かきでもなさいますか?」
「……アル、私のこと何歳だと思ってる?」
「今年8つの、まだお絵かきの好きなお年頃だと」
「……」
頬を膨らませながらもお嬢様は冊子を手にとった。
「お嬢様は小さい頃、毎日のように絵を描かれていたと聞いております。祖父はそれを家に飾っておりまして」
「ちょっと待った! アル、見た!? それ見たの!?」
「ええ、大変可愛らしい絵が沢山ございました」
「ヒィ幼稚園の頃の絵を自慢された気分!!」
冊子を放り出し、お嬢様はゴロゴロとベッドの上を転がりながら恥ずかしがった。祖父の家で見た絵はとても上手だったので、恥ずかしがる必要などどこにもないのに。
「可愛らしい女の子や、自然の風景、前衛的な記号絵など、とても素晴らしいものであったと記憶しております」
「その記憶はね、近所の大家さんに『この子は将来、未来型変形ロボになる!って言ってたのよ~』っていわれるような恥ずかしい記憶だからね!? ことあるごとに言われるの!」
お嬢様はたまによく分からない事を言う。お嬢様が放り出した冊子を開いてみると、先日描いた絵が何枚もあった。お上手だと思うのだが、これ以上褒めるとベッドから転がり落ちてしまいそうだったためやめておこうと思う。
「ちなみに、先日お描きになられたこれは、何の絵でしょうか?」
「……み、みそしる……」
「?? これは?」
「た、卵焼き……」
「ああ、お嬢様は卵がお好きですものね。これは?」
「な、納豆……もうやめて! 食べ物くらいしか覚えてないのがばれるからやめて! そりゃインターネットとか携帯とかの先端技術で内政チートとか出来れば良かったんだけど仕組みが全然分からないんだもん!!」
わっと叫んで顔を伏せるお嬢様は、やはりよく分からない事を言ってはいたが微笑ましい。
「その好々爺みたいな優しい視線もやめて! いたたまれない!!」
ベッドに潜るお嬢様を見ながら、祖父も同じようにお嬢様を見ている光景が容易に想像できた。怒らせるとまた可愛いと言っていた祖父の気持ちが少し分かってしまった。自重せねば。