6 メリーアン叔母
毎朝の日課である鉢の水やりを終え、私は椅子に座って窓辺の鉢をじっと見た。種が植えられたらしきそれは小さく土が盛り上がっているようないないような。全然変化は見られない。
「魔法、かぁ……」
私は両手を開いては閉じた。人は皆、魔力というものを持っている。そのはずなのだが。
「お嬢様、おはようございます」
窓辺の鉢を見続ける私の背後からアルクトスの声がした。反射的に飛び上がりかけて、なんとか椅子に体を落ち着けると私は振り向いた。
黒い巨体のクマが執事服に身をおさめて目を細めていた。アルクトスだ。
「アル、おはよう」
執事バトラの後任としての彼も、この屋敷へ来て4日目。ぎこちなく笑いかける私に、彼は優しく微笑んだ。
「おはようございます。お食事になさいますか? 今日は旦那様が早くにお出掛けになったので、広間でもお部屋でも構いませんが」
「えーと、じゃあ、部屋で食べま……食べるね」
「かしこまりました」
彼は一礼すると、部屋を出て行った。父がいるときは比較的広間での食事が多いのだが、いないときは部屋で食べたり外で食べたりしている。この時期は忙しい父はもう仕事に出ていってしまったようだ。
手持ち無沙汰で窓の外を何気なく見ていると、ふと視界に映るものがあった。
「……げ」
思わず喉から声がでた。見たことのある魔法車が我が家の敷地内に入っているのだ。大きな屋根に銀色に装飾された派手な魔法車。一点物だと自慢げに言っていた声が耳に蘇る。
私は慌ててベッド脇のベルを手に取ると、チリンチリンと高い音を鳴らした。
数分も経たないうちに部屋の扉をノックする音がした。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「お呼びです! アル、朝食は中止よ! 今すぐ出かけようと思うの!」
「??」
扉を開けた巨体がきょとんとしているのを、押すようにして私は言った。
「事情はあとで説明するから、車を出して! えーとあれよ持病の癪がどーたらで、今すぐ出ないと!」
しかし、逃亡に移るには少し遅かったようだ。使用人の一人が、早足で私の元へとやってきた。隣に立つアルクトスに一瞬驚いた様子だったが、すぐに気をとりなおしたのか私に囁いてきた。
「お嬢様、メリーアン様がおいでです。旦那様はお出掛けですとお伝えしたのですが、お嬢様にご用があると仰っていて……」
「いないって言って!」
堂々と居留守を使う予定の私であったのだが、使用人は困った顔で首を振った。
「もう客間でお待ちになっておいでです」
ぐぬぬ、と私は首を振った。どうせ制止する使用人を無視してずかずかと上がり込んだのだろう、あの人は。このまま部屋に隠れることも考えたが、家中を探しに来そうであるし、逃げ出そうにも玄関は客間のすぐ前である。詰んだ。
使用人の言葉にアルクトスは首を傾げた。
「メリーアン様? ……旦那様の妹君の?」
そう。
メリーアン・ザリバン。父の妹、つまり私の叔母である。
彼女はザリバン子爵家に嫁ぎ、二人の男の子を産んだ。彼女の次男は私と同い年。先日学園に入学したばかりだ。
……この次男もまた、私とは相性が悪い。
「いい? 穏便に、穏便に叩き出して!」
簀巻きにして追い出してよろしいと言う私に、使用人は泣きそうな顔で「無理です無理です」と両手を振った。まぁそうだよなぁとひきつった笑みを浮かべる私に、アルクトスは言った。
「お嬢様、もしよろしければ私がご用件を承って参りますが」
「……」
私はじっとアルクトスを見た。見上げるその姿は大きく、茶色い毛に覆われた巨体を黒い執事服に収めている。大きな両手に黒い爪が生えていて、つぶらで小さな瞳ではあるがその口元から鋭い歯がちらりと見える。
うん、アウトである。クマだわ怖いわ銃を用意なさい! と叫ぶ叔母の姿が容易に思い浮かんで私は首を振った。
「……いや、大丈夫。私がいく……」
我が家に猟友会が群れをなして入り込んでくる光景はあまり見たくない。少なくとも、昨日爺とアルクトスに、仲良くなれるように鋭意努力しますと言ったばかりだ。早くも撤回するわけにはいかない。
「ですが、お嬢様。あまり気が進まれないご様子。私が代わりに」
「いいの、アル。気が進むどころか全力で後退したいところだけど、猟友会よりはマシだと思うの」
「え、猟友……?」
「絶対、出てこないでね?」
くれぐれも、と念押しをする私に困惑しながらもアルクトスは頷いた。私は気を引き締めなおすと、客間へと足を向けた。
一体何の用件なのだろうか。父がいない時は比較的早く帰る事が多いのだが……。学園のことか、暇つぶしか、それとも。
私はちらりとアルクトスを見ると、心配げな彼にもう一度笑ってみせた。
「あら、シエーナ! ずいぶんと待たせること!」
「……お久しぶりです、叔母様」
私が客間に入ると、そこには銀色の髪を結い上げ、豪華な青いドレスに身を包んだ女性が扉前に仁王立ちしていた。メリーアン叔母だ。毎日の手入れを欠かさない彼女は、見た目はまだ二十代後半に見える。しかし少しつり上がった目元と鷲のような鼻が彼女の表情をきつく見せていた。
「母様、仕方ないよ。シエーナは魔法が仕えないから扉すらあけられないんじゃないの?」
そう言ってフフンと笑うのは彼女の息子、次男のケビンだ。客間のソファの中央に座っている。私と同い年のクソガキである。事あるごとに私が魔法を使えないことを当てこすってくるのだ。私は無表情で言い返した。
「へー、ケビンは扉も魔力であけるの? 自動扉にしちゃってるの? まーそれはすごいすごい、馬鹿じゃないの?」
「ばっ……何だこの無能女!」
沸点が低い彼は自分から喧嘩を売るくせに、すぐに怒り出すという悲しい性癖の持ち主である。顔を真っ赤にして怒る彼に、援護するかのように怒声が響いた。
「シエーナ! 女性が何ですか、はしたない! その汚い言葉遣いをあらためなさいといつも言っているでしょう!」
「……メリーアン叔母様だって、はしたなく叫んでらっしゃるじゃ」
「口答えするんじゃないの! あなたが魔法を使えないのは本当のことでしょうに! ケビンが使えるからって僻むんじゃないの!」
私の反論は更に大きな声で封じられた。
叔母の援護に調子に乗ったケビンは、怒りを収めてソファに座ると、フフンと笑った。
「結局学園に入れなかったんだろ、シエーナ。これで本当に婿の来手もないな」
「あんたも嫁の来手はないと思うわよ? 性格が悪いのと嫁姑戦争で嫁が来ても逃げるわ」
「シエーナ!!!」
客間に叔母の金切り声が響く。小さくため息をついて私は叔母を見上げた。
――この叔母との初遭遇は、私が三歳の頃。彼女はケビンとその兄を連れて我が家にやってきた。
そして私を見て早々にフンと鼻で笑ったのだ。
「いやね、お兄様。この子お兄様に全然似てないじゃないの。全然可愛くないわ」
なるほどこれが小姑か、と冷静に見上げる私に「可愛くない」「まだ魔法も使えないの?」「お喋りは? メリーアンお姉様と言えないの?」と延々騒いでいた彼女である。
その時父に「メリーアン、姪を可愛いと思えないならお帰り」と叱られ、それ以来表向きは私を可愛がっている素振りではあるが、裏に回れば言いたい放題だった。
重ねて同い年の従兄弟であるケビンは、彼女に溺愛されているためか一緒になって私のことを貶してくる始末。ケビンの兄であるダイアンは私に無関心で、特に親しくも仲が悪くもなく、距離のある関係性を保っている。できることならば彼女らともそうなりたいが、向こうからずかずか近づいて来るのである。心の距離ほどに離れてくれればいいのに、と思っている。
「それで叔母様、ご用件は?」
早く帰れハウス、と言いたい気持ちをぐっと堪えて、私が尋ねると、彼女が呆れたような顔をした。
「まぁ、用がなければ来てはいけないとでもいいたいの? ここは私の兄の家よ?」
「存じております、叔母様。重ねて言えばここは私の家でもあります」
そっちは兄の家だろうがこっちは私の家だ。招かざる客が来ることに不満を持ってなにが悪いというのか。
そんな私に彼女は目を吊り上げた――かと思いきや、表情を緩めて笑顔になった。危ない。良く分からないけど危ない。本能の警告が聞こえる。
「そうね、あなたの家でもあるわね。ねぇ、今日は私、お兄様に用があったのだけれど、やっぱりあなたに先に伝えたほうがいいわね。シエーナ」
「いえ、聞かない方がいいと思うので、お父様にどうぞ」
「あなた、学園に入学できなかったのですって?」
だが断る、という私の言葉を当然のように無視して彼女は言った。私と彼女の間には言語以上の問題が横たわっているのが良く分かる。
「そうですね、叔母様」
彼女の言うとおり、魔法の使えない私は学園に入学できなかった。私が頷くと、彼女は貼り付けたような笑顔で言った。
「今まで我が家の家系でそんな子供産まれたことも、見たこともないわ。ねぇ、シエーナ。外で魔法の使えない子供を見たことがある?」
「いえ、ありません。叔母様」
そうでしょうそうでしょう、と彼女は顎を上げた。
「ガイダン侯爵家の子供はあなた一人。もちろん女性が侯爵を継ぐことも不可能ではないし、婿をとるという手もあるわ。ただ、魔法も使えない、学園にも入れないあなたにそれが出来るはずがないと思うの。このままではガイダン侯爵家は存続の危機でしょう?」
どのようにオブラートに包めば「この上なく巨大なお世話である」ということを伝えられるかと悩む私に、彼女はまるで良いことでも考えついたかのように両手を叩いた。えてして、彼女の思う良いことはろくに良いことであったことがない。
「それで思ったのよ。ケビンをお兄様の養子にしたらどうかしら! って!」
うんやっぱり。ろくなことではなかった。
予想が予想通りだったことに呆れればいいのか、今すぐ帰れとオブラートなしで伝えればいいのか。いやほんと、頭が痛い。
ぐりぐりと頭をほぐす私を傍目に彼女はソファーに座ったままの次男の肩に手を置いた。
「うちの子爵家はダイアンが継ぐから、次男のケビンはこのままだと騎士として仕官することになってしまうの。こんなに賢くて優しくて可愛い子なのにただの騎士なんて勿体ないじゃない? ああ、あなたの婿にって考えなくもなかったんだけれど、魔法が使えないのが遺伝したら嫌だもの」
彼女が長男のダイアンよりも、次男のケビンを溺愛していると話に聞いていたが、暴走するにも程がある。もはや言葉もない私に、叔母の言葉を名案だと思っているらしきケビンが言い放った。
「俺は別に、シエーナがどうしても俺と結婚したかったら婿入りしてやってもいいんだけど」
「絶対イヤ。死んでもイヤ。生まれ変わってもイヤ。あんたが婿になるくらいなら一生独身でいい」
何が悲しくて叔母を義母と、この従兄弟を夫と呼ばねばならないのか。嫁姑大戦争を予想するまでもなく、断固お断りである。
全力で拒否する私に、ケビンはカッと怒りで顔を赤くした。
「お、俺だって! お前みたいな魔法も使えない欠陥品は嫌だからな! 調子に乗んな!」
ケッ、と吐き捨てて彼はテーブルの脚を蹴った。お互いに意見の一致をみたようで何よりである。被害は、何も悪くないのに蹴られたテーブルの脚くらいだ。解せぬ。
もはや全力の気力をこそぎとられつつも、私は叔母に首を振った。もちろん横にだ。
「叔母様、うちのことは父がきちんと考えていると思います。このような話を私にしたところで、何の意味もありません。間違っても私はケビンを養子にするようになんて、父に伝えるつもりはありませんからね。言いたければ叔母様からどうぞ」
「まぁ! お兄様はあなたを不憫に思って甘やかしてばかりいるから、私がそれを言ったら怒られるじゃないの! だからあなたから言えばいいのよ!」
分かるでしょう? と小首を傾げられたが全然分からない。なんでやねんという裏拳すら勿体ない。私は客間の扉を開くと、叔母に促した。
「ご用件がそれだけでしたらお引き取り下さい、叔母様」
しかし当然のように彼女はその場から動かなかった。本当に困った子ね、とばかりに私を説得しようとする。
「シエーナ、あなたは人を思いやる気持ちも持てないの? このままじゃケビンも可哀想でしょう。あなたと違って魔法が使える、健全な成長をした賢い従兄弟なのだもの。あなたより侯爵家の身分がふさわしいと思わない?」
魔法。
その言葉を使われると私は口を噤むしかない。どれほど反論したところでこの世界は魔法社会。健全な成長をしなかったと、欠陥品と言われればそれまでなのだ。
顔を伏せる私に彼女は重ねて言った。高く響く彼女の声は、耳に突き刺さるようだ。
「こんないい話はないでしょうに。お兄様もちゃんとした跡継ぎができるし、ケビンも侯爵家を継げるし、対外的にもガイダン侯爵家の名は上がるに決まってるわ。皆が幸せになれるのよ!」
高らかに言い放つ彼女の声のすぐ後に。
低い、声が響いた。
「――その話のどこに、お嬢様の幸せがあるのですか?」
地の底を這うようなそれは、強い怒りに微かに震えていた。声の主をすぐに思い至って、私は身を震わせた。彼のこんな声は聞いたことがない。いつも優しく、微笑んでいたのに。
「だ、駄目! アルクトス!」
私の制止は少し遅かった。
客間入り口の扉から、のっそりと黒い巨大な体が現れた。アッ惨劇だ、と思わず思ってしまうくらいに、彼から漂う気配はひどく不穏で、叔母を睨む視線は鋭い。冬眠明けのクマを激しく怒らせたような、そんな雰囲気が漂っていた。
駄目だ死ぬ。これは私ごと死ぬ。直接怒りを向けられた訳でもない私が遠い目をしてしまうくらいだ。睨まれた叔母は、ついでにケビンは蒼白のまま固まっていた。
「皆が幸せに? その『みんな』の中になぜお嬢様がいないのですか。そんな無体をお嬢様に強いる権利が、一体あなたのどこにあると言うのですか?」
怒りで震える歯を噛みしめた彼の言葉は、嘆きと、怒りと、溢れんばかりの思いに満ちていた。
――これほどの理不尽を、耐えろというのか、と。
それは私に対する理不尽でもあったし、彼に対する理不尽でもあった。姿を現さないように、と強く言った私の言葉を彼は必死で守ろうとしたのだろう。どれだけ握りしめたのか、彼の爪の先からぽたりと血が滴った。
彼がその手を一振りすれば、叔母もケビンも三途の川の向こう側まで吹っ飛ぶだろう。いけない。それだけはいけない。ちょっとやってしまえという気持ちもないでもないが、やっぱり駄目だ。
ゆっくりと近づいて来る巨大なクマに、みたこともない姿に、叔母達はもう声もなかった。腰が抜けたのか、こぼれ落ちんばかりに目を見開き、ぺたりと地面に座り込む叔母に、黒い大きな手がのばされた。
「――っ!」
悲鳴に似たものが彼女の喉から漏れた。
「アルっ――!」
駄目、と私が叫ぶ前に、彼は叔母の目前で大きな口を開いた。鋭い歯が並んだその口が、笑みの形に引き上げられる。
アッ駄目だこれは死んだ。私が顔を隠すように両手で覆った時、低く獰猛な声が耳に届いた。
「――お客様は、お帰りのようですね?」
……へ? と息が漏れる声が聞こえて、恐る恐る手を開いて様子を伺うと、私の目の前にはアルクトスに手を引かれて、呆然としたまま立ち上がる叔母が見えた。彼女の隣には凶悪な笑顔のクマが立っている。再度私は顔を覆った。こわい。
「……誰か! 玄関までご案内申し上げるように! お客様のお帰りです!」
アルクトスの声に、わっと周囲から使用人達が出てきて「ささ、メリーアン様こちらへ」「ケビン様もご一緒に」と叔母達を押し出した。きっと彼らも命の危機を感じ取ったのだろう、叔母の。
いつもならばギャーギャーと喚く叔母も魂が抜けたかのように促されるままに部屋を出ていった。置いて行かれるまいと蒼白のケビンも慌てて走って出ていった。
ぽつん、と部屋に残ったのは怒れる一人のクマと、私だけである。なんてことだ。怒りにふくれあがった彼の毛は逆立っていて、私もお暇していいでしょうかと聞きづらい。地面の一点を睨み付けるようにして、彼は小さく息を吐いた。
「……お嬢様」
「ハイ!」
私はとても良い返事をした。ハイは1回である。そんな私の前に、彼は両手をついた。
「……申し訳ございません」
「ハイ!? え、その、えっ!?」
目の前で巨大な体を縮めるようにして、深く頭を下げる彼に、私は挙動不審にわたわたと両手を振った。彼に謝られることがあっただろうか。むしろ怒れる彼に、私の方が謝る寸前だったというのに。
「御命令に、従うことができませんでした」
歯を食いしばるようにして言う彼の声にハッと私は思い立った。絶対に出て来るなと言ったのであった。叔母に見つかったらどんな騒ぎになるか分からず、部屋に姿をみせることのないように、と重ねて言った。彼はその言葉に頷いた。けれど。
「お嬢様が、あのような言葉に耐えられている姿が、あまりにも。――あまりにも」
震える声で言った彼は、それ以上言葉に出来ずに口を噤んだ。地面に顔を伏せたままの彼の表情は見えない。
客間は静かな沈黙に満たされた。騒がしい叔母はもう家を出て行ったのだろうか。物音すらしない。
私は彼の隣にしゃがむと、その異形の姿を見た。
床についた手は黒い爪が伸びていて、真っ黒な毛に覆われている。巨体は体を縮めてすらやはり山のように大きい。黒い執事服に身をおさめて、頭を下げる彼の姿はやはり人ではなく、「先祖返り」で「亜人」であった。
でも。
「――アル」
彼は怒った。ほんの数日前に出会った私のために怒った。
私がまだ彼に怯えているのも、分かっているだろうに。
「私、そんなに気にしてないのよ」
叔母やケビンが私を目下に見てあのように言うのも分かってはいる。言い返してはいるが「負け惜しみ」「ねたみ」などといつも流されるからだ。
だけど、彼女らの言葉が本当に私の心を傷付けることなどありはしないのだ。傷付けられるほど、彼女らと私の心の距離は近くない。
「でも、ありがとう」
その大きな手に私の小さな手が重なった。彼の黒い爪の先に残る血の跡に、私は彼を引っ張り上げるように手を引いた。
「傷の手当て、しよう。アル」
「お嬢様……」
「大丈夫、アル」
ゆっくりと顔を上げた彼に、私は強い決意を持って言い切った。
「猟友会は、私が責任を持って追い払ってあげるから」
義理を通さねば道理も立つまい。叔母がどのような猟師と来ても追い返してやろう、と拳を握りしめる私の手に、大きな手が重なった。
「不要です、お嬢様。矢面には常に私が立ちますので、次からはどうぞ部屋でお待ちください」
微笑む彼の顔にいつの間にか怒気はなく、ホッとしながらも私は彼の手を引き寄せてまじまじと見た。不要と言われてしまったが、包帯くらいは巻いておかねば、と思ってその黒い肉球を触るがどこにも傷がない。ちなみに肉球はけっこう固い。
「小さな傷でしたので、治りました。先祖返りは自己治癒力に優れておりますので。床を汚してしまって申し訳ありません。掃除をしておきますから、お嬢様は朝食を召しあがれてはいかがでしょうか?」
そういえばまだ朝ご飯すら食べていなかった。私がお腹に手を当てると、応えるように腹がぐうと鳴った。うん、急にお腹がすいていることを思い出した。
「……そうね、ご飯、食べようかな。あとアル、塩を用意して」
「塩、でございますか?」
聞き返す彼に私は頷いた。
「日本では、あ、いや、我が家ではね。嫌なヤツが家にきたら塩を撒いて厄払いするのよ」
二度と来るなと心を込めて撒いてこようと言う私に、彼は笑顔で言った。
「……箱でご用意いたしますね」
「えっそこまで」
彼が用意した箱は、私一人くらい入るのでは無かろうかというサイズの塩箱であった。これほど二度と来るなと心の込められた塩を手にしたのは初めてである。
* * * * * * * * * *
<アルクトスの独白 4日目>
旦那様の妹君が屋敷に来た。
名を聞いたことはあったが、何とも宜しくない種類の人であった。
彼女がお嬢様に言う言葉の何と自分勝手なことか。彼女がお嬢様を「人を思いやる気持ちが持てないのか」と罵ったときに、思わず飛び出しかけた。
シエーナ様は怯えながらも、私との距離を縮めようとしてくれている。
敬語も控えて、私に話しかけ、笑い顔も少しずつ見せてくれるお嬢様の、どこに思いやりがないというのだ!
他の使用人が言っていた。
「あの方はお嬢様がお好きでないのです」
「来ると、お嬢様か旦那様が来るまで決してお帰りになりません」
一度使用人が強引に魔法車に乗せたときに、自警団に訴えられたという。それ以来追い払うのも慎重にならざるをえなくなったと。彼らは「旦那様へ使いを出しております」と言ったが、旦那様の出先に連絡の車が着くまで、どれほど待てばいいのか。どれほどお嬢様に聞き苦しい言葉がかけられるのを聞いていなければいけないのか。
扉を開ける気配がしたため、その場を退くと、開いた扉から顔を伏せるお嬢様の姿が見えた。その横顔を見た瞬間。言葉を失った。それは、とても。
妹君はさらに重ねて言った。養子をとれば兄は喜び、息子も幸せで、侯爵家も名を上げると。
そのどこにも、お嬢様の姿が見えない。
どこにいったのだ、はにかんだように少しだけ笑う小さなお嬢様は。
耐えられなかった。なんと堪え性のない駄目な執事か。飛び出してしまった。
けれど優しいお嬢様は「ありがとう」と私の手を取った。
どうしてだろう。お嬢様に何故魔力がないのだろうか。その姿を見ても確かに、通常の人間ならば周りを流れる魔力が見えない。だから灯りに触れても火が点らず、魔法の一つも使うことができないのだ。
今日の事を旦那様に伝えたところ、難しい顔をしながらも「妹には二度と家に来ないように伝えておく。……多分それでも来るだろうから、叩き出していいからね」と言っていた。御命令の通りにしようと思う。
夜にふとお嬢様の部屋の前を通ると何かが聞こえた。そっと部屋を覗くとベッドに顔を伏せたお嬢様が「……お母さん」と小さく呟いて泣いていた。奥様が亡くなって8年。まだ小さなお嬢様は寂しいのだろう。このような酷い目にあった日は尚更、母君が恋しくなるのだろう。
そっと扉を閉じ、玄関へと向かう。撒く塩の量が足りないことが分かった。本当に、全部ぶちまけてもまだ足りない。