4 街へ向かう車
「お嬢様、今日は外へ出かけましょう」
朝、私が窓辺に置いた植木鉢に水をあげていると、アルクトスがそう言った。彼の手には櫛とリボンが黒い爪の先にちょこんとかかっている。今からそれで一体何をする気かと問い詰めねばなるまい。
「……外、ですか?」
アルクトスは鏡前の椅子を引いてくれた。何をする気だ。いや、分かっている。今朝はいつもの使用人が髪の毛を結んでくれていない。分かりたくないが分かってしまった。
「そうです、どうぞお嬢様」
そのどうぞというのは目の前に座らなければ殺すという言葉の言い換えだろうか。窓の傍から動かない私に、彼は笑顔のまま待った。沈黙が続き、私が先に折れた。心が。
怖々椅子に座った私の髪の毛をアルクトスは器用に櫛でとかすと、淡いピンクのリボンで軽くまとめた。黒い大きな手が、ちんまりした櫛を使って髪の毛をとかしているのは器用で驚いた。しかし「動いたら殺られる」感が半端ない。幸い私の世話をするためか、黒い爪はその先を丸く削られていたが、片手が私の顔くらいある。私は背筋を伸ばしたまま動くまいと固まった。
「王都エンセンの書店へ行こうと思っています。昨日の感じですと1学年分の勉強が数日で終わってしまいそうですので、2学年分の教科書を買いに。使用人に頼んでもいいのですが、お嬢様はあまりお外に出られてないと聞いておりますので、街を散歩がてら見回るというのはどうでしょうか」
街へ散歩、と。王都には前の執事バトラの家があり、前に遊びに行ったことがある。しかし今まで街でクマを見かけたことはない。彼は街へ出ても大丈夫なのだろうか。主に猟銃的な意味合いで。防弾用に鍋でも被る必要があるのではあるまいか。
「……えっと、街はちょっと……」
街に出て大丈夫ですか、狩られませんか、と尋ねるのは憚かられたので、遠慮がちに首を横に振ると、鏡越しに彼は素直に頷いた。
「かしこまりました。残念ですね。丁度祖父バトラの家の隣に、新しい菓子屋が店を開いたらしく、街でも評判とのことでしたのでそちらに寄ろうと思っていたのですが」
「!!!」
「花蜜の焼き菓子は絶品だそうです。毎日長蛇の列が出来ていると祖父が書き伝えておりまして、きっとお嬢様も好きな味だと太鼓判を押してました。買いに来た折にはぜひ祖父の家にも寄ってほしいとも」
「……っ!」
花蜜とは蜂のような昆虫が集めた花の蜜で、とろりと甘く、とても良い匂いがする。しっとりとした花蜜のパウンドケーキは私の大好物である。
ふるふると両手を震わせると、私は鏡の中のアルクトスに視線を合わせた。彼は笑顔で見返してくる。こんな誘惑に負ける私ではない。お菓子をあげるからついておいでと言われた気分である。まったく心外だ。誰がそんなものに釣られるものか。
「……バ」
「バ?」
聞き返した彼に、私は言った。
「バトラに、会いにいこうと、思ってたんです」
そうだ。バトラだ。節穴にはもう頼れない。彼にアルクトスのことを聞きに行こう。バトラの家は王都にある。決して焼き菓子に釣られたわけではないのである。ついでに、そう、ついでに焼き菓子を買って帰るのは何の問題もないだろう。
そんな私に彼は澄ました顔で「かしこまりました。出かける準備をして参ります」と一礼して鏡の前を離れようとした。なんだろうこのしてやられた感は。決して彼に転がされた訳ではないのだ、私はバトラに大事な用があるのだ。そう自分自身に言い聞かせる。
ハッと私は気付いた。そういえば、街にクマと共にいくのならば。慌ててアルクトスの背に声をかける。
「あ、あの、アル」
「はい、お嬢様?」
「鍋の用意を……」
したほうがいいのではないか、と遠慮がちに言う私に首を傾げながらも、「かしこまりました、今夜のお食事は鍋にするように料理人に伝えておきます」と彼は言った。違う、必要なのは被る方の鍋である。
* * * * * * * * * *
この世界では魔法が発達している。日本で発達している科学が、魔法に置き換えられたような感じである。基本的にインターネットや電話やテレビなどの通信機能以外はほぼあると言っても過言ではない。
街までの道中は、馬車に似た魔法車に乗っていく。大きな車輪や前の御者台、箱形の車両など、見た目は馬車に近いのだがそこには馬はいない。動力源が魔力なのだ。
天蓋付きの四人乗り箱形車両の中に座った私は、御者台に座った運転手が、細長いリードと呼ばれる紐を手に魔法車を操っているのを見ていた。
車のアクセルもブレーキも、彼の両手に持ったリードで行われる。左に傾ければ車体は左に向かうし、速度を上げるのも思いのままである。排気ガスも出ず大変エコだと思う。魔法の使えない私には運転できないが、子供用の小型車というのもある。うちにも前あった。父が私に買ってくれたが埃を被るだけなので、従兄弟に譲ったのだった。
「お嬢様はあまり街には行かれないと聞いておりますが、お好きではないのですか?」
私の反対側には一人で二席分を占領しているアルクトスがいた。まったくエコではないものだ、と私は首を振った。
「いえ、嫌いじゃない、です」
白を基調として立てられた王都の建物は美しく、活気があり、売っている物も珍しいものが多く、食べ物も美味しい。時間があれば一日中だって遊んでいられるほどだ。
だが。
可愛いと思ったオルゴールは魔力で動くし、扇風機のようなものも魔力で動くし、果ては珍しい種類のジュースを見つけたと思ったら「隣国から輸送した飲み物で、密封されていますから魔力であけてくださいね」だと! 蓋でいいじゃないか!! スイッチ使おうよ! 電池入れようよ!
供に来た爺やこと執事バトラに「あれ点けて」「これ開けて」と一々お願いすることのなんと手間なことか。見て回るのは嫌いじゃないが、私にとっての実用性に欠けるのだ。
「ただ、魔力を使えないとちょっと不便なことが、あるんです」
この年になって「ジュースの蓋をあけて」とお願いすることになるとは。ああ、日本が恋しい。科学は偉大であった。
遠い目をする私に彼は微笑んだ。
「よろしければ私をお嬢様の手足と思い、お使いください。少なからず魔力はありますので、お嬢様にご不便をおかけすることにはならないかと」
朗らかに微笑む彼にありがたいと思いながらも、彼の手はジュースの蓋を開けるのに適しているのかとしばし車内で悩む私であった。
* * * * * * * * * *
ざわ……ざわ……。
大通りを歩く私達は、案の定注目の的であった。射撃の的でないことを神に祈りつつ、私は後ろを歩くアルクトスに声をかけた。
「……アル、私達とても、その、とっても注目されていると思うんです」
彼は笑顔で応えた。
「そうですね。お嬢様が大変可愛らしいからでしょうね」
彼とはわかり合えないようだ、と私は前を向いた。
街の大通りには中央を魔法車が勢いよく行き交い、その両脇に歩道ができている。広い歩道には露天商がひしめき合い、足を止める歩行者に色々な物を販売している。
念の為、銃が売られていないことを確認しながら、私は警戒しつつ早足で大通りを抜けていく。バトラの家は一度行ったことがある。大通り沿いの小さな一軒家だ。
私がいかに早足で歩こうが、悠々と大股で歩くアルクトスは、一歩後ろに下がってついてきた。すれ違う人がぎょっとして彼を二度見する光景にも慣れた頃に、見慣れた懐かしい顔が、ある一軒家の前にいるのが見えた。どこかから焼き菓子の良い匂いも漂ってきている。
ぱっと顔を輝かせて、私は大声で叫んだ。
「じい! じいや! バトラ!」
彼は私に気がつくと、皺だらけの顔をくしゃりとさらに笑みの形に変えた。
「おや、シエーナお嬢様! お久しゅうございますのう」
前執事、そしてアルクトスの祖父であるバトラだった。久しぶりに会えた喜びのまま彼に飛びつくと、「おやおや」と言いながら彼は私の体を抱き上げた。好々爺然とした風貌の彼は、私とその後ろに向かって声をかけた。
「小さな家で恐縮ですが、よろしければ寄っていかれてはいかがでしょう。お前もお入り、アルクトス」
後ろに控えていた彼は目を細めて頷いた。
「お久しぶりです、祖父殿。お邪魔させていただきます」
「うむうむ。お嬢様、丁度評判の焼き菓子を手に入れた所でしてな。お茶請けにお出ししましょう」
そう言うバトラの腕の中で、私は小さくガッツポーズをした。さっきからすごい良い匂いがしていると思ったんだよね、やったー。
* * * * * * * * * *
<アルクトスの独白 3日目 その1>
お嬢様は外出嫌いだと聞いた。少し白すぎる肌に少々不安を抱いたので、今日は街へと誘ってみた。お嬢様は多少渋っていたものの、焼き菓子の威力に即座に撃沈していた。祖父に大好物を聞いていた甲斐があった。
「魔力を使えないとちょっと不便」と言っていたお嬢様のお気持ちはすぐに知れることとなった。
街の視線の大部分は先祖返りの亜人である私に注がれ、それは慣れたものではあったが一部不快な視線があった。
「ガイダン侯爵家の」「一人娘の」という小さな囁きがいくつか聞き取れる。その声の持ち主はお嬢様を不快な渾名でさえ呼ぶ始末。
魔法を使えない人間はこの世界では皆無といっても過言ではない。呼吸と同じで、使えるのが当たり前なのだ。
だが使えないことは罪か?
断じて否である。
こんな小さな体で、今までこんな陰口と戦ってらしたのかと思うと胸が痛い。
街へ行くのはしばらく控えようと思った。