番外編1 爺と孫
アルクトスの膝に体を預けたまま、泣き疲れたのかシエーナは眠ってしまった。
その頭を撫でていた彼はふと扉の方を見た。
「おやおや、すっきりとした顔で寝ておるのう」
彼の祖父が顔を覗かせ、眠っているシエーナを見てくしゃりと笑顔になった。
「祖父殿」
「孫に沢山泣かされたのう、可哀想になぁ」
「祖父殿、そういう訳ではないと分かってらっしゃるくせに」
ひょっひょと笑うバトラをアルクトスは睨んだ。きっと祖父は知っていた。彼女が夢だと思い込もうとしていたことも、苦しんでいたことも。
何故放っておいたのかと、険しい顔で口を開きかけたアルクトスに、バトラは首を振った。
「爺では駄目なのじゃよ。爺は、もう年じゃからのう」
もし彼女の名を、存在を。バトラが覚えていたとしても。
バトラはきっと彼女より先に亡くなってしまう。そうしたら彼女はまた自分の存在を見失ってしまいかねなかった。
「お嬢様には、爺はあと100年生きるつもりじゃと言っておいたのだけどのう」
残念そうに首を振る祖父を見て、アルクトスは本当にあと100年生きるのではないかと一瞬思った事は伏せておいた。
「爺としては、お嬢様が可愛すぎて、いっそ望みを叶えてさしあげたいくらいだったのじゃけどのう」
そんなことを言いながらも、バトラは幼いシエーナの後を追いかけて叱り続ける日々を思い出していた。自分を「じい、じい」と慕うシエーナは可愛かった。本当の孫のように。
バトラはちらりと視線をアルクトスに向ける。
「本当の孫はごっついからのう」
「そんなもの前からご承知でしょうが」
アルクトスを見てやれやれとバトラは首を振った。孫は苦笑する。
「じゃあ、ほれ」
「??」
バトラは両手を差し出した。意味が分からずに首を傾げるアルクトスに、祖父はにやりと笑って言う。
「長期休暇はもう貰ったからのう。執事職を爺に返してお前は国に仕えるといいじゃろ」
「!?」
そうだ、初めはそういう話だった。祖父が休暇を欲しいと言っていた。だから代わりにここに来たのだ。
膝の上では彼の服を握りしめて、シエーナが眠っている。思わずアルクトスは彼女の体を隠すように、両手をその背に置いた。
「……祖父殿は、もうお年ではないですか」
「なんの、まだまだピンピンしておるわい」
「王都で、もうしばらくゆっくりなさったほうが良いのでは?」
「いい加減体も鈍るし、暇じゃしのう」
「……」
他の理由を探して視線をさまよわせる孫に、祖父は呆れた顔で言った。
「馬鹿者、こういうときの主張の仕方は教えたろうが」
小さい頃から比較的物わかりの良い孫に、バトラは何度も言った。「嫌なら嫌と言え」と。
彼は両親がいないことも、先祖返りゆえにされる期待も、その偏見もしかたないと受け止めていた。諦めていたとも言える。
「……」
自分を育ててくれた祖父の、その生き甲斐を奪って良いのか。アルクトスはその言葉を発することをためらった。呆れ顔のまま祖父は、もう一度言った。
「言えないなら返せ。執事も、お嬢様も」
「嫌です」
どうしてこのまま渡せようか。自分にすがって泣いた少女を。
「ここで、ちゃんと生きていける」と震える声で言った彼女を。
「絶対、嫌です」
嫌ならば言えと祖父は言った。言っていいのか、伝えて良いのか。でもそれ以外の返答など出来なかった。
祖父は再度にやりと笑って、肩をすくめた。
「あー、やれやれ。酷い孫に職を奪われてしもうたのう。家に帰ってヤケ酒でも飲むか」
ひょっひょと笑うその顔には、言葉とは反対に満足そうな笑みが浮かんでいた。
「祖父殿、申し訳……いえ、ありがとうございます」
必要なのは謝罪ではなく、きっと感謝だった。伝えるアルクトスに背を向けると、バトラはひらひらと手を振った。
「何のことだかわからんのう。爺の生き甲斐はな、孫のように可愛いお嬢様と、可愛くない実の孫の成長を見守ることじゃからのう」
その背に頭を下げるアルクトスを見もせずに、バトラはゆっくりと扉を閉めた。
窓の外はもう明るくなっていた。
悠々と、嬉しそうに、長年勤めたその屋敷を、一人の老人が去って行った。