17 芽吹いたもの
目を覚ました。
数度瞬きしてから、ゆっくりと私が顔をあげると間近にクマの顔があった。一見恐ろしいはずの顔なのに、何の怖さも感じなかった。どうやらアルクトスの膝の上で眠ってしまったようだった。涙の跡の残った目をこすって、ただいま、と小さく呟く。
とても、幸せな夢を見た。私は母との会話を思い出してクスリと笑った。
アルクトスは座ったまま眠っているようで静かな寝息が漏れている。明け方まで彼に背を撫でて貰って、私は泣き疲れて眠ってしまったようだ。彼を起こすのも悪いのでそっと体を起こす。
なぜだろう。アルクトスの周囲がキラキラと、輝いているような気がする。何か光のようなものが、彼の周りを包んでいるような。
窓の外を見ると、日の光はあまり高くなかった。まだ朝は早いようだ。鉢に水をあげなくては。
私はそっと部屋を出ると、自室に向かう。爺もすでに自宅へ戻ったのだろうか。そこには誰もいなかった。
窓際の鉢もキラキラと輝いていた。私は芽が出る気配もなかった鉢を手にとった。土の中にはケビンに踏まれた種が埋まっている。もう芽は出ないと、アルクトスは言った。
「大丈夫」
何かに突き動かされるように、鉢を抱えて部屋を出た。廊下には、私の靴音だけが響いた。
急ぐ必要もないのに、急かされるようにして廊下を走る。外から差し込む日の光のせいか、視界が妙に鮮明で、不思議なほど明るかった。
そのまま屋敷を出ると、私の部屋のすぐ側にある開けた場所に着いた。緑の芝生が広がる日当たりのいい場所だ。少し奥に木を植え替える予定の場所があり、黒い肌を見せている。
芝生すら光っているように見えて雨でも降ったのかと上を見上げたが、雲一つない快晴だった。朝早いせいか外の風は少し冷えている。
私は手に持った鉢を置き、芝生の奥にある土肌に手を当てた。黒く光る土はどこか暖かかった。
「……うん、大丈夫」
頷いて、鉢から種を取り出した。私の手の平に転がった小さな茶色の種は、一部割れて中の肌色が見えていた。
柔らかな土肌を少しだけかき分けて、種を中に入れた。上に土を被せると、空を見上げる。青い空が広がっていた。雨は降らないだろう。部屋に戻って水差しを持って来るべきだろうか、でも。
「……水」
自分の手の平を見つめると、キラキラと青色に光った。そっと土の上に手をかざすと、どこからか雨が降ってきた。いや違う、手の平から水が零れるように降ってきたのだ。
その水が土をしっとりと濡らすと、種を植えた場所が動いた。土が盛り上がるような仕草をして、柔らかな子葉が顔を出した。
目が覚めてからずっと、不思議な感覚に包まれていた。前から知っているような、初めてのような、暖かな感覚に。
土から顔を出した二葉は、小さく体を揺らしながら葉を広げた。まるで早送りをしているように、二葉の内側からさらに新しい葉が出てきて上へと伸びていった。
いつの間にか、私の手の平より大きく伸びた葉の根元は茶色くなっていて、細い枝のようだった。朝の冷たい風に震えるように体を揺らす。
寒いのだろうか、私が風から守るようにその葉の周りに手を広げると、手の側で赤と白の光が輝いた。
光はまたたきながらくるくる回って、いつの間にか白と赤が混ざり合い、輝くその塊は暖かな光を降り注いだ。小さな太陽が、私の手元を明るく暖かく照らしていた。
気付くと、芽の枝のような細い体はどんどんと太く、成長していった。立ち上がった私の背よりも高く、太く。
既に見上げるほど大きくなったその木の幹に手を当てる。暖かかった。成長を続ける木は、歓喜の歌を歌うように、ざわざわと葉を揺らしてその枝を空へと広げていった。
空が緑に覆われた。幹はさらに太くなり、私が手を回しても両手が届かないほどになっていった。
緑の葉の先に、小さな蕾が出来た。それはどんどんと膨らんで、先が淡いピンク色になった。風に揺れたその蕾は、次々と花開いて、緑の枝葉をピンク色に染めていった。
なんて、綺麗な。
空一面に、薄いピンクの花が咲いた。風に舞い上げられた花が周囲を舞った。
そのうちの一枚が、ひらりと彼の肩に落ちるのが、見なくても分かった。
「アル、綺麗でしょ」
振り向くと、後ろにアルクトスがいた。包帯の上から執事服を着たクマの姿の彼は、跪いて私を見つめていた。その声は少し震えていた。
「はい、本当に……本当にお綺麗で」
「桜の花よ。日本の花。綺麗で、儚くて、私もお母さんも、大好きだった」
「シエーナ様……いえ、サキ様」
「ううん、シエーナでいい。咲とは、ちゃんとさよならをしてきたから」
不思議なほど、周囲が輝きに満ちていた。こんなに世界は綺麗だっただろうか。こんなに優しかっただろうか。
ずっと、何も見ないようにしていたんだ。世界が私を拒絶していたのではない。私が世界を拒絶していたのだ。
アルクトスは少し潤んだ目を細めて私を見た。
「魔法を、お使いになれたのですね。本当におめでとうございます、お嬢様」
「ありがとう、アル」
両手を見ると、キラキラと輝いていた。青、赤、白、緑に黒。本当は、最初から使えたのだろうか。それとも今使えるようになったのだろうか。
何だっていい。だって風に吹かれて舞う桜の花が、とても綺麗だから。
私は桜の木を見上げて笑った。
「綺麗でしょ。アルとも見たかったの」
「勿体ないお言葉です」
彼は涙を拭って微笑んだ。どこまでも優しい人だ。いや人じゃなくてクマだけど。クマだけど、大好きな人だ。
私も微笑み返した。
「きっと来年も咲くわ。再来年も、ずっと。100年先まで咲くから、一緒に、見よう」
「喜んで、お嬢様」
ざぁ、と強い風が吹いた。
桜の花びら吹雪のように舞った。風に吹かれたその薄いピンクの花は、青い空に吸い込まれるように飛んでいった。