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16 夢と現実

 目を開くと、日に焼けた畳が見えた。座布団を枕に眠っていたようだった。ゆっくりと体を起こすと、茶色の丸いテーブルや、六畳一間に置かれた仏壇、二つの位牌が見えた。

 いつの間に寝てしまったのだろうか。私は目を瞬かせた。

 アルは……ここは、どこ?

 トントントンと、懐かしい包丁の音がした気がして、私はその音の方向へと向かった。

 台所に、母が立っていた。エプロンをして、包丁でネギを切りながら、いつものように背を向けていた。

 息が止まるかと思った。

 何も言えずに固まった私を、振り返った母が見た。母の目が小さく見開かれた。


「……」

「……」


 一瞬の沈黙の後、母はいつものように私を叱りつけた。


「咲。ほら、お箸並べて、お味噌汁よそいなさいよ」

「……」


 私は慌てて台所にいくと、箸立てから私と母の分の箸を手にとって、居間に戻った。

 心臓が、早鐘のように打っている。夢だったのか? どこから、どこまでが?

 献立は卵焼きと納豆と、ご飯と味噌汁だった。見慣れた朝食。見慣れた茶碗に、箸。

 いつものように母は私の反対側に座る。私は両手を合わせた。


「い……いただきます」

「はいはい、どうぞ」

「……お母さん、自分でハイは一回までって言うくせに」

「大人はいいのよ」


 そう言ってフンと鼻で笑う母。変わらない母の仕草。何故こんなにも懐かしいと思えるのか。

 味噌汁を手に持ったまま、私は部屋の中を見回した。記憶と変わらない室内だった。壁にかけていたはずの中学校の制服が見当たらないくらいで。外では子供たちの賑やかな声が聞こえる。ぼんやりとその声を聞きながら思った。

 夢だったのか。やはり、全部夢だったのか。

 安堵していいはずなのに、ぽっかりと胸に隙間が空いてしまったような、大事な何かを無くしてしまったような気がした。

 彼にすがって泣いた記憶は、まるで昨夜のことのように思い出せるのに。


「咲、早く食べてよ。片付かないじゃないの」

「わ、分かってるって」


 母の言葉に私は慌てて味噌汁に口をつけた。それを一口こくりと飲んで。

 ガラン、と私の手に持ったお椀が、落ちてテーブルの上にひっくり返った。湯気の上がった味噌汁が、私の膝にかかる。


「あー! 馬鹿、何やってるの」


 慌てた母は、台ふきを持って来た。私は震える手で顔を覆った。

 ――味がしなかった。

 母の作った味噌汁が、何の味もしなかった。膝にかかったはずのその温度も感じられなかった。

 何て残酷な話なのか。夢だと、明確に分かってしまったことが悲しかった。これこそが夢なのだと、突きつけられた気がした。


「お母さん」


 いつの間にか、私の姿は小さくなっていた。長い金の髪が肩にかかる。服装もTシャツとジーンズから、淡いピンクのドレスに替わっていた。

 母は目を丸くして私を見ていた。


「お母さん、私」


 何を言えばいいのだろう。夢の中で、別人の姿で。唇が開いては閉じた。伝えないといけないことが、沢山あるのに。

 しかし母は一瞬目を丸くした後に、私の膝にかかった味噌汁を拭う。


「何よ。咲、あんたが零したんだから、テーブルくらい自分で拭きなさいよね」


 母は私の言葉に平然と言葉を返した。ぽいと投げられた台ふきを、慌てて受け止める。味噌汁の零れたテーブルの上を、小さな私の手がせっせと拭いている。何て不思議な光景。

 もしかして母にはこの姿が見えていないのかと思いながら、拭き終えて母を見ると、彼女は「まったくドジなんだから」と呆れ顔だ。


「姿が変わってもおっちょこちょいなところは全然変わらないのね。そこが一番変わるべきところでしょうに」

「!? お母さん、見えるの? 私の姿、見えて私が咲って分かってるの!?」


 呆れ顔の母は私の頭を小突いた。


「分からないわけないでしょうが。これでも母親よ」

「ほんとに!? もし私が100歳のお婆ちゃんになっても、クマになっても分かってくれる?」

「あーはいはい、分かる分かる。未来型変形ロボまでは分かってやれるわ」


 適当な彼女の相づちに、私は頬を膨らませる。


「もう、お母さん! 私、結構真面目に言ってるんだよ!?」

「何言ってるのよ、お母さんだって大まじめよ」


 どの辺がどのように!? 私のブーイングに母は笑った。


「あんたが婆さんだろうが、クマだろうが、未来型変形ロボだろうが金髪美少女だろうが何だっていいわ。どんな姿でもいい。私は、あんたが生きて、幸せであってくれればそれだけでいいのよ」


 ばかたれ、と再度私を小突く母の目は少しだけ潤んでいた。

 いつの間にか、周囲はずっと暮らしていた家の中ではなくなっていた。ぼんやりと歪んだ白い空間に私と母はいた。

 どこかで何かに引き寄せられるような、そんな感覚があった。時間はあまりないようだ。


「うん、幸せ……だと思う。アルがね……あ、アルってクマで私の執事なんだけど」

「ちょっと待って何それ。いきなり不安になるようなこと言わないでくれない!?」

「お母さんに、沢山話したいことがあるのよ」


 少しずつ、目の前の母の姿が薄くなっていく。沢山話したい。けれど、全部話すことは出来ないようだ。

 なら、伝えなくちゃ。


「お母さん、私、幸せだったよ。お母さんの子供に産まれて良かった」


 手を広げてその腰に抱きつくと、母は私を抱き返した。


「咲。ごめん。ごめんね。お母さんのせいで、お母さんがちゃんと気付いてやれなくて」

「お母さんのせいじゃないよ、お母さんは何にも悪くないよ」


 母は自分を責めたのだろうか。その声が少しだけ震えていた。


「ありがとうって、ずっと伝えたかった」


 産んでくれてありがとう。愛してくれてありがとう。大切にしてくれてありがとう。

 あなたのそばにいた12年は、宝物のように楽しくて、幸せな一生でした。

 でも。


「さようなら、しよう。お母さん」


 母を見上げて、私は笑った。

 上手く笑えたかどうか分からない。ただ、今だけは笑っていたかった。母に見せる最後の顔を、笑顔にしたかった。

 私の言葉に、母が私を抱きしめる力は強くなった。


「いやよ、馬鹿じゃないの。さようならなんて、しない。絶対しないわ」

「お母さん、あのね、一瞬なんだって」


 すぐにでも消えそうで、私は早口で言った。


「どんなに長い夢を見ても、眠っている時間って一瞬でしょ? だからきっと、長いようでいて一瞬なんだよ。私、別の世界に生まれたけど、100歳で大往生したら、また会いにくるから……あっ、でも時間の流れって異世界だとどうなるのかな? お母さんのほうが先に死んでたりするかな!?」

「あんたが100歳ならそりゃ死んでるわよ!」


 母は叫んでから、クスリと笑った。母の笑顔が嬉しくて、私も笑った。フン、と母は鼻を鳴らした。


「仕方ないわね、一瞬だったら、私が会いにいってあげるわ」

「うん、そしたらアルを紹介するね。爺と、あとお父様も」

「えっ、ちょっと待ってクマはイヤなんだけど!」

「大事な人なんだって。いや、クマだけど人なんだって」

「何いってんの!? ……」


 母の言葉が急に遠くなっていった。お別れの時間だ。日本と、前世と、横溝咲と、母との別れの時間だった。


「さようなら、お母さん」

「あんた、クマ……」


 母の最後の言葉はよく聞き取れなかった。残念な気もしたけど、笑ってしまった。



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