15 今と現実
「私がいないと、駄目なの。お母さんが一人になっちゃう」
アルクトスの胸にすがるようにして、私は言った。水仕事をしたことのない私の手は綺麗で、着ている服は滑らかな絹製のドレスで、家は大きくて使用人も沢山いる。
でも、そんなものが欲しかった訳ではないのだ。
「大きくなったら私、お母さんの代わりに働くつもりだったの。そりゃあ石油王にはなれないかもしれないけど、お母さんに苦労をさせないくらいには、稼ぐつもりだったのよ」
部屋は六畳一間のアパートの一室で、朝ご飯はいつも同じ。卵焼きに納豆、ご飯にお味噌汁。
服は貰い物が多かったし、制服だって親戚のおばさんの娘のお下がりだった。
「それでも良かったの。だって私にはお母さんがいたし、お母さんには私がいた」
だけど、ここには。
夜中に目を覚まして、どれほど探してもいない。母がいない。
仕事ばっかりで忙しく、自分勝手で適当で。母に対する文句なんていくらでも浮かんでくる。それでも、それ以上に溢れる思いがあった。
「会いたい。……お母さんに、会いたい」
だって何も伝えていない。伝えるべき事は沢山あったはずなのに。何一つとして伝えていない。
包帯の巻かれた彼の胸に、顔を埋めてただ私は泣いた。夢だと思いたかった。戻れないことを認めてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
そんな私の頭を、大きな黒い手が撫でていった。
「……そう、ですね。うん。お嬢様。ここは、夢の中なんですよ」
「……っ!?」
耳元で囁かれた言葉に、私は顔を上げた。何で? だって、さっきあんなに、否定していたのに。
彼はゆっくりと、言葉を選ぶようにして、私に伝えた。
「夢の中です。お嬢様、夢を見たことは沢山あるでしょう?」
頷いた。小学校の友達が出てきたこともあるし、爺やお父様が出てきたこともある。
怖い夢だったり楽しい夢だったりもした。でも、一度も、母は出てきてくれていない。
「どれほど長い夢を見ても、目が覚めたらほんの一晩だったりすることがありますね? 一生分の人生を過ごした気がしても、三時間ほどしか経っていなかったり」
私はもう一度頷いた。頬の涙を拭うようにして、黒い肉球が私を撫でる。
「だからお嬢様は、今、その夢の中なんですよ。お嬢様がどれほど長いと思っていても、ほんの一瞬のことなんです。これから80年、いや100年過ごして幸せに亡くなって、そうして目が覚めるんです。ああ、長い夢を見た、と――」
だから、と彼は続けた。
「面白い夢を見たと、母君に伝えるために、お嬢様はこれからの人生を幸せに過ごしてみるのはいかがでしょうか。沢山の事を知って、沢山の幸せを得て、土産話をどっさりと持って目を覚ませばいいのです」
ああ。
そう言って微笑む彼の姿。夢の中の住人でいいと。泡沫の命でいいと受け入れる、彼の姿に、私は顔を伏せた。
「どうして――」
どうして、何故。私のこんな話を、どうして受け入れてしまうのか。
「どうして……」
背中を撫でる彼の手を、暖かいと感じる私は、どうして認めてしまったのか。
ここが、夢の中ではないと。彼は夢の住人でもないと。
こんなの、母に対する裏切りだ。戻れないことを、受け入れるなんていけないと、向こうの私が泣いている。それなのに。
「……アル、聞いて」
彼の枕元の机にペンと紙があった。私はそれを手にとると、紙にペンを走らせた。
「アルがじいの家で見たのは、ただの女の子でも、自然の風景でも、前衛的な記号絵でもないわ」
二歳になった頃。私は狂ったように絵を描いた。ひたすらに描いた。
「昔の私とお母さんの絵。私の家の中。アパート、近くの公園。忘れそうで、怖くて、沢山描いた」
私しか覚えていない記憶は、砂に描いた絵のようにどんどんと薄れていった。だから、忘れないように沢山描いた。
最初からなければ、無くすことを恐れなかったのに。
全部忘れてしまったら、まるで存在すら消えてしまうかのようで。
「一番、忘れるのが怖かったのが、これなの」
彼の前に差し出した紙に、書かれた物は彼には読めないだろう。それはこの世界の言語とは違う、『漢字』で書かれていたから。
「『横溝 咲』……私の、名前。お父さんと、お母さんがつけてくれた、私の名前」
満開の桜が咲く日に生まれたから、父と話して咲にしたんだと母は言っていた。
「覚えていて、私がいたこと。ちゃんと、横溝咲がいたってことを、覚えていて」
もう誰からも呼ばれない私の名前を、彼が覚えていてくれるのなら。
「そうすれば、私、生きていける。ここで、ちゃんと、生きていけるから」
受け入れよう。
戻れないことも。二度と会えないことも。これから生きていくことも。
横溝咲は、シエーナになったのだということも。
私の震える手から、紙を受け取ったアルクトスは呟いた。
「ヨコミゾ、サキ様ですね」
そして微笑んだ。
「綺麗な、お名前なのですね」
泣いた。
ただひたすらに、泣きじゃくった。アルクトスの腕の中で、泣き続けた。
それは、産声に近かった。
生まれ落ちたことを、拒否し続けていた私の、この世界で最初の泣き声だった。
夜が明けるまで、ずっと私は泣き続けていた。
アルクトスは、私をただずっと抱きしめてくれていた。